第十話 甘夏のマーマレード
朝の光が、カーテンの隙間から静かに差し込んでいた。
目覚まし時計の音に、美知子はゆっくりと身を起こす。
キッチンで湯を沸かし、コーヒーを淹れる。トーストが焼ける音が、規則正しい朝の始まりを告げていた。
仕事へ向かう支度を整え、バッグを手に取ろうとしたとき、玄関脇の棚に置いたままの、小さな紙袋が視界に入った。
「……あっ」
美知子は、思わず足を止める。
「そうだ…… 熱海から帰ってきてから、まだ由里ちゃんに連絡してなかったわ」
小さく呟いて、紙袋を手に取る。
甘夏のマーマレード。
忙しさの中で、ずっとここに置き去りにしたままだった。
熱海から戻ったあとの二、三日は、
インポートブランド業務の企画書の締め切り。販促の打ち合わせ。また修正。
頭の中は仕事のことで埋め尽くされ、
気がつけば一日が、あっという間に終わっていた。
それでもふとした瞬間、
あの潮の匂いが、胸の奥をかすめることがあった。
(……由里ちゃん、今夜会えるかな?)
スマホを手に取って、メッセージ画面を開き、……何も打たずに、そっと閉じた。
由里子は、大手のお菓子メーカーで企画や広報を担当している。
新作立ち上げのPRに、宣伝、時には現場対応までこなしていた。
「忙しいよね」と笑い合えるほど、
その大変さを、互いに知っていた。
美知子自身も、百貨店の催事やイベントがあれば、販売応援として売り場に立つことが年々増えていった。
企画と現場、お互いに、その両方を知っているからこそ、仕事に追われる感覚は、痛いほどわかっている。
由里子と知り合ったのも、そんな売り場だった。
学生の頃から、美知子の務めるブランドのファンだったという由里子は、
新作が出たり、イベントがあるたびに、欠かさず売り場に顔を出していた。
「今回のデザイン、斬新で素敵よね」
「でしょう? 今季の一押しなんです」
そんな何気ない会話を、何度も交わしてきた。
学生の頃は、好きでも手が届かなかった憧れのブランドだった。
けれど今では、顧客として売場に足を運べるようになっている。
その姿が、いつしか美知子の記憶に残るようになった。
ありふれたやり取りの積み重ねが、仕事の枠を越え、
いつの間にか友人としての距離を縮めていった。
そして――
二人の距離を、決定的に近づけたのは、
お互いが背負ってきた人生の重さだった。
美知子は、夫を亡くし、故郷を離れ、ひとりで子どもを育ててきた。
由里子は、結婚し、初めて授かった命を失った。
その後も子どもに恵まれることはなく、
夫の帰らない日が、次第に増えていった。
待つことにも、期待することにも、疲れた頃――彼女は、ひとりで生きていく道を選んでいた。
多くを語らなくても、互いの沈黙の意味が、呼吸を合わせるように分かってしまうことがあった。
「無理しないでね」
「……ありがとう」
それだけで、十分だった。
お酒好きが高じて二人で外食する機会も少しずつ増えていった。
美知子は紙袋を胸に抱き直す。
由里子の朝の食卓。
そこに、このマーマレードが並ぶ光景を思い浮かべ、ふっと微笑んだ。
「後で、連絡してみよう」
そう決めて、彼女はバッグに紙袋を入れ、
またいつもの、職場へと静かに歩き出した。




