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第十一話 この距離感が一番いい

仕事の終わりの夕方、

美知子は少し早めに仕事を切り上げ、

人波の中、改札へと向かっていた。

今夜は、久しぶりに由里子と居酒屋で会う約束だった。


「みっちゃん! こっちこっち!」

少し高めの、よく通る声。


店の奥から、由里子が変わらない調子で大きく手を振っている。


「待った?」

美知子が近づくと、

 

「私も、さっき来たところ」

由里子はそう言って、向かいの席に腰を下ろした。


その動作に、しばらくぶりの再会という気負いはなかった。

カウンター越しに立ちのぼる湯気、焼き物の香ばしい匂い。仕事帰りの客たちの話し声が、店の中で心地よく混じり合っている。

二人にとっては、こうした場所が、いちばん落ち着けるのだった。


「あ〜、お腹ペコペコ」

美知子が、ほっと息をつく。


ちょうどそのタイミングで、隣の席に料理が運ばれ、湯気と香ばしい匂いが立ちのぼった。


「これは、早く頼まないとだね」

由里子は自分のお腹を軽く押さえながら小さく笑う。


「すいませーん、注文お願いします」

由里子は店員と目が合うなり、明るく声を上げた。


その様子を見て美知子はクスッと笑う。


「お待たせしました。先に、お飲み物、伺いますが何にしますか?」

ベテラン風の店員が、慣れた口調で聞いてくる。


由里子は、美知子にさりげなくアイコンタクトを送った後、

「とりあえず、生ビールの中と小を一つずつ」


メニューに目を落としながら、ちらりと美知子を見る。

「ねぇ、これ…今日のおまかせコース、白子の茶碗蒸しだって! それに金目鯛の薄造り! 他にも季節の料理がいろいろ付くみたいよ。……これ、絶対良くない?」


美知子は、メニューの文字を指でなぞるように追いながら、ふっと口元を緩めた。

「それ、良いんじゃない」


無駄のないやり取り。由里子らしい、テキパキとした注文だった。


注文を取り終えた店員は、立ち去ると 

「はい、これ!」

美知子はバッグから、小さな紙袋を取り出す。


「なに?」

由里子が、身を乗り出して覗き込む。


「熱海のお土産。甘夏のマーマレード」

美知子は悪戯っぽく微笑んで、そっと差し出した。

 

「わぁ……! 嬉しい! さすがみっちゃん、私の好み分かってる!」

由里子の顔が、ぱっと明るくなる。


「覚えてないわけないじゃん」

美知子は、笑いをこらえながら肩をすくめた。


「熱海の話になると、由里ちゃん、嬉しそうによく話してたじゃない。あの、甘夏のマーマレード、美味しかったって。何度も聞かされてたもの」


「あっ! 言ってたかも……」

由里子は照れたように笑い、

「みっちゃん、ありがとうね」

そう言って、紙袋を大事そうに胸に抱えた。


ふいに、由里子がパッと顔を上げる。

「あ、来た来た!」


そのタイミングで先ほどの店員が現れ、注文した生ビールの中ジョッキと小グラスを、慣れた手つきでテーブルに置いていく。


ジョッキを手に取った由里子、美知子に微笑みかけ、ほんの少しだけ声のトーンを落として

「頑張ってる二人に…!」


美知子は、微笑みながらグラスを持ち上げた。


「カンパ~イ!」


互いの縁をカチリと鳴らし、生ビールを一気にあおる。


 「……はぁ」

思わず声が漏れる。


「このひと口が、たまらんわ―」


「あ! そうそう、私が生ビールは小だって忘れないでいてくれたのね」

由里子に、顔を近づけ囁く美知子。


まるで、先ほどのマーマレードのお返しのように、由里子がくすっと笑みを零す。

「今まで散々、一緒に飲んできたでしょ…… 嫌でも、覚えてるわよ」


二人は顔を見合わせ、同時に吹き出した。


ひとしきり笑い合うと、互いに小さく息をつく。


「……で? 熱海、どうだった?」

由里子は、目を輝かせて問いかける。

 

「一泊二日だったけど、天気にも恵まれて良かったわよ」

美知子は旅の光景を思い描くような、嬉しそうに語り出した。


「初日は初島に渡って、お昼に新鮮な海鮮の盛り合わせに、活きたアワビのお刺身がね、もう…新鮮でコリコリ! それに肝が絶品で…! 由里ちゃん、こういうの好きでしょ?」

由里子の顔を覗き込むように笑った。


「いいなぁ〜」

由里子が、素直に声を弾ませる。


「それでね!」

美知子は、嬉しさを抑えきれない様子で

「次の日は、熱海から網代まで、いつものコースを歩いたの!」

と言葉を重ねる。


ふっと、思い出したように笑い出す美知子。

「亮ちゃんね、前の晩に飲み過ぎてさ。 あんなに楽しみにしてた朝ごはんも、ほとんど手を付けられなくて」


「けど、しじみのお味噌汁は二日酔いに効くからおかわりしたよ。って自慢げに言っちゃってさ、あのときのドヤ顔、見せてあげたかったわ」


美知子はクスクスと喉を鳴らし、当時の様子を思い浮かべる。


「……想像つくわ」

肩を揺らして笑う由里子につられ、美知子の笑みもさらに深くなる。


「でも、いざ歩き出したら『腹減ったなー』なんて言い出して。……結局、すぐにいつもの亮ちゃんに戻ってたけどね」


「あれだけの距離を歩いたのも、本当に久しぶりだったから…… ちゃんと歩けるかなって、正直少し心配だったんたけど。それが、不思議なくらい疲れはなくて、むしろ網代に着いたのが、いつもより早かったくらい」

その時の情景が、ふっと胸に戻ったように、美知子の眼差しは熱海の海を映していた。


「海岸沿いを歩いてると、十一月だとは思えないほど風が柔らかくて。陽射しにきらめく海が、ずっと隣を歩いているみたいだった」


美知子は、記憶の中の光景に浸るように手元のグラスをじっと見つめ、

「それが、とにかく気持ち良くって、最高だったわ……」

そう言いながら、名残惜しむように息をつく。


「あっ、そうそう! 網代に着いて、その足でね、亮ちゃんたちの行きつけだった大将の店に寄ってきたの。ほら、由里ちゃんが前に、『あの人の仕事ぶり、惚れ惚れする』って言ってたでしょ?」


「あぁ…… 懐かしいなぁ」

由里子は、少しだけ目を細めた。

「大将、元気だった?」


「元気も元気! あの頃と全然変わってないくてね、包丁を握る手も、立ち姿も……本当に、昔のまんま」

美知子は深く頷き、まるで自分のことのように誇らしげな笑みを浮かべる。


「ねぇ、みっちゃん」

由里子は、ジョッキの取っ手を指で弄びながら、ちらりと横を見る。


「今度、久しぶりに行ってみない? ……もちろん、亮ちゃん抜きでね」

そう言って、いたずらっぽく笑った。


少し間が空く。


由里子は、グラスをゆっくりテーブルに置き、呟いた。

「亮ちゃんと、旅してる時の話をするみっちゃん、なんていうか…… すごく、穏やかな顔してる」


一拍置いて、由里子は微笑んだ。

不意に、由里子の指が止まる。


二人の間に、わずかな沈黙が生まれた。


ジョッキをゆっくりテーブルに置き、

「亮ちゃんと、旅してる時の話をするみっちゃん、なんていうか…… すごく、穏やかな顔してる」

そう告げると、ほっとしたように、ふわりと微笑む。


「無理してないっていうかさ。あなた達、二人一緒なら、どこまででも歩いていけそうなのにね。……惜しい気もするけどなぁ」

由里子は椅子の背もたれに深く体を預け、天井を仰ぎながら溜息交じりに呟いた。


美知子は由里子の言葉を遮るように、口を開きかけた。

「だから、それは……」


由里子は、先回りして言葉を被せ、ひらひらと手を振る。

「はい、はい解ってますって」


「みっちゃん達は、今のこの距離感が一番いいのよね。……私も最近になって、ようやくその気持ち、分かるようになってきたわ」

そう言って、くすりと笑った。


「へぇ、解るようになったって! ……由里ちゃん、最近何かあった?」 

美知子は、由里子の僅かな変化を見逃さなかった。


一瞬、慌てた由里子だったが、間を置くように僅かに残ってる生ビールを飲み干し、空になったジョッキをそっと持ち上げて言った。

「……次、何にする?」


美知子も、グラスの底に残った黄金色が、心もとなく揺れているのに気づき、

「そうねぇ、お刺身つまんでると、久しぶりに日本酒、キュウっと、いきたいと思いませんか?」

美知子が、少しだけ声を潜める。


待ってましたと言わんばかりに、

「それはいいですねぇ」

由里子は、弾む声で応じた。



運ばれてきた冷酒を静かに酌み交す二人。

箸を動かす、かすかな音だけが、ゆるやかな時間を刻んでいた。


次第に話を切り出し始めた、由里子は、

冷酒の入ったグラスの縁を、指でなぞりながら。


「……みっちゃんさぁ」


美知子は、箸を動かしたまま、何も言わず

由里子に視線を向けた。

少しためらいながら、

「驚かないで聞いてよ。実はね、浩ちゃんと、……アッ! ごめん、……えっと」


「ふ~ん『浩ちゃん』って呼んでたんだぁ」

美知子は、わざとらしくゆっくり頷いた。


話の腰を一瞬折られてしまった由里子は、恥ずかしそうに目を伏せながら、

「別れた…… 元、夫のことだけど」

ひと息吐いて続ける。

「最近、会うようになってね」


少し慌てながら、

「勿論、復縁するとかそんなんじゃないのよ。……この間ね、大学の友達にその話したら、鳩が豆鉄砲くらったみたいな顔してさ」

そう言って、小さく笑みをにじませる。


「それも、しょうがないんだけどね…… あの時は、あいつのこと信じられなくて、もう二度と顔も見たくないって、散々言ってたから…… その頃の私たちのことを、よく知ってるからこそ、解ってもらえないのも当然よね」

由里子は、肩をすくめた。


「友達も呆れちゃってね…『由里子が本当にそれでいいんなら、もうこれ以上、何も言うことないわ』と言っておきながら、『やっぱ、由里子って変わってる』

だって…… その後、もう二人で爆笑よ」

そして当時を思い出すように、くくっと笑った。


黙って聞いてた美知子も、おかしくて肩を振るわせていた。

「ほんと! 笑っちゃう!」


ひとしきり笑ったあと、美知子は小さく肩を落としてぽつりと告げる。

「ねぇ、由里ちゃん、聞いていい?」


グラスに視線を落とし、少しためらいを挟んでから続ける。

「……今までさ、元ご主人のこと話すときは、いつも『あいつ』だったじゃない?」


由里子は、何も言わず、指先でグラスをなぞった。


「……さっき、自然に『浩ちゃん』って言ったよね」

その名前が、由里子の口からこぼれた瞬間のことを、美知子は、胸の奥で反芻していた。

「名前で呼ぶのも、嫌になるほど…… 傷ついてたんたんでしょ」


「……でも、今」


少しの沈黙。


「私もね……」

美知子は、冷酒を由里子のグラスに注ぎ足しながら、言葉を探した。

「由里ちゃんや亮ちゃんに、隆のこと…… 話そうとしなかったのは」

そこで一度、息を止めた。


「口にした途端、あの時のことが、一気に押し寄せてきそうで……」


小さく首を振り、

「思い出すだけで、胸が苦しくなるの」


由里子は、何も言わずに頷いた。


「由里ちゃんも…… そうだったでしょう?」


瞳を揺らし、ゆっくり視線を上げる。

「名前で呼ぶことすら、できなくなるくらい……それだけ、深く傷ついていたんじゃない?」


二人の間に言葉はなかった。

けれど、その沈黙は重くなかった。


美知子が優しく促す。

「由里ちゃんの口から、元ご主人のこと『浩ちゃん』て呼ぶなんて……」


しばらく、言葉が途切れた。


彼女はグラスの縁を見つめたまま何にも言わない。


「何が、由里ちゃんの気持ちを、そこまで変えたの」


ほんのわずかな沈黙

そして深く息を吸い込み、はっきりと言った。

「それはね…… みっちゃんのおかげよ」


「……え?」

思わず目を見開いた。


「そんなに驚かなくても」

由里子は、口元をほころばせる。


美知子は、言葉を失ったまま、由里子を見つめていた。


そして二人のあいだには、やわらかな沈黙が落ちてく……



ふと気づけば、いつの間にか店内はすっかり賑やかになり、隣の席の笑い声が会話をかき消しはじめていた。


由里子はグラスを置き、そっと周囲に目をやる。

「続きは、静かなところで話そうか」


美知子は、逸る気持ちを抑え、深く頷いた。


(いだ)く想いはそれぞれに、二人は喧騒に包まれた席を後にした。


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