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第十二話 解放、そして再生

ひんやりとした空気が、火照った身体に心地よく澄み渡った。

宵の口から夜半へ、街は喧騒に彩られている。

賑やかな大通りから路地裏へ一本入ると、街のざわめきが遠のいた。

街灯がまばらになる中、ひっそりと看板を灯す小さなバーの前で、二人は足を止めた。


重い扉を押し、一歩足を踏み入れると、

低く抑えられた灯りが二人を包み込み、壁一面に並ぶ琥珀色のボトルが、(ほの)かな光を受けて密やかに瞬いている。



氷を削る、澄んだ音。

カクテルグラスに注がれる液体の細い流れ。

さきほどまでの賑やかさが、まるで嘘のように、時間の流れさえもゆるやかに感じられた。


二人の前に置かれたカクテルグラスの表面が、かすかに揺れる。

美知子は、その揺れを見つめながら、もう一度ゆっくりと口を開いた。


「ねえ、さっきの話だけど、 由里ちゃんの気持ちを変えるような、そんな気の利いたこと、私、言った?」

美知子は、照れたように笑ってみせた。


由里子は、短く息を吐き、応える。

「……言ったわよ!みっちゃんは無意識だったかもしれないけれど」


美知子にしっかりと視線を向けると、言葉を探しながら語りかけた。

「ほら、光里ちゃんが、留学先のアメリカに戻って行った日のことよ、みっちゃんと待ち合わせしてさ、飲みに行ったじゃない」


由里子は、あの夜を思い出すように目を伏せ、バツが悪そうに、

「その時は、話が弾んで…… 私、つい調子に乗って、元夫の話しなんかしちゃって」

困ったように笑い、目を逸らした。


一瞬、言葉が途切れる。


「私達は、大学が一緒で、同じデザイン科で、同じ夢を追いかけ、お互いに 負けたくないって思いながらも…… 気づいたら、私の方が、ずっと惹かれてた」


「あの人の、留学が決まったとき、悔しさもあったけど…… それより、会えなくなるのが一番きついと思って」 


由里子は、小さく息をつく。

「でね、夏休みに会いに行こうって思ってね、空いてる時間は、全部バイトに入れてさ」


当時を思い出すように視線を落とす。

「行かなきゃ終わるって、思ってたから…… 必死に働いて、カリフォルニアまで会いに行ったって」


由里子は、ふっと笑って美知子を見た。

「……この話、前にもしたことあったよね?」


「……ええ、覚えてるわよ」

美知子は、やわらかく微笑んだ。


その言葉に安心したように一つ頷くと、ゆっくりと息を吸い込んだ。


「ありがたいことに、母の援助もあったから、思ってたより早く会いに行けることになってさ…… その時はもう、嬉しくて……」

そう言いながら、こみ上げるものを堪えるように由里子はふっと口元を押さえ、肩を小さく震わせながら笑いを噛み殺した。


「でね、彼の姿見た瞬間、もうダメで……  気づいたら『浩ちゃ〜ん!』って抱きついちゃってて」

くすっと笑って、視線を落とす。


「でさ…… その時の第一声がね、……『結婚しよ』って言っちゃってたの」

美知子の顔をちらっと見て、はにかんだ。


「えっ? ……それって、由里ちゃん、プロポーズしたってこと?」

一瞬、言葉の意味をなぞるように、由里子の顔を見る。


「由里ちゃんがねぇ〜」

小さく息をもらして、どこか納得したように笑った。


「みっちゃん、お口、あんぐり開いちゃってるけど大丈夫?」

はっとして、美知子は慌てて口元を押さえそっと閉じた。


「良かった、顎でも外れたかと思って心配したわ」


美知子は、カチリ、とわざとらしく奥歯を鳴らしてみせてから、

「そんなことで外れるほど、柔じゃないわよ」


二人、同時に吹き出した。


笑いながら、美知子はふっと由里子の顔を覗き込み言った。

「……ほんと、由里ちゃんってすごいよ」


少しだけ間を置いて、

「私には、そこまでできないもん」


それでもどこか楽し気に、

「そういうとこ、由里ちゃんらしくて好きよ」


「まあ、向こうもだいぶびっくりして…… え、今それ言う? って驚いて…… 顎どころか、腰抜かしそうだったわ」

お腹抱えて笑い出す由里子に、つられるように美知子も笑った。


一瞬の間を置き、由里子がぽつりと口を開く。

「私ね…… あの頃、どんなに頑張っても、この人には敵わないって思ったこと、何度もあってね……」


――少しだけ視線を遠くにやりながら

「今思うと、そんな彼の才能に、惹かれていったのかもね」

由里子は、少し照れたように、クスッと笑う。


由里子は冗談を切り上げるように、すっと表情を正した。

「なんだか、話それちゃったね…… ごめん。でさ、あんなに好きでいっしょになったのに…… 私達、顔を合わせれば喧嘩ばかりするようになった。って言ったら…… みっちゃん、少しためらうように『私達だって同じよ』って、亡くなったご主人のこと、初めて話してくれた時あったじゃない」

由里子は、微笑みかけながら美知子の横顔を覗き込む。


その視線に気づいた、美知子はふっと口元をゆるめて言った。

「……覚えてる」


由里子は、くすっと笑って、その余韻を残したまま視線をグラスに落とした。


「あの時さ……」

少しだけ、声の調子がやわらぐ。


「隆さんと出会った頃のことや、結婚してからのこととか…… 話してくれたでしょ」

指先で、表面についた水滴をなぞる指が、ふっと止まる。


「『私達もよく喧嘩ばかりしてた』って、何かを思い出したみたいに、楽しそうだった」


ゆっくり顔を上げて、美知子を見た。

「……それから…… 光里ちゃんが生まれた時のこと……、隆さんとっても喜んで『光里』って名前も、ご主人が付けたんでしょ」

 

「あの時のみっちゃん、うまく言えないんだけど、すごく穏やかな顔してて…… なんか、いいなあって…… ちょっと羨ましかったわ」


由里子はそこで、一度言葉を切ると、グラスにそっと触れる手に視線を落とした。


「みっちゃん、すごく幸せそうな顔して『私たち、どこにでもいる普通の家族だった』って、……懐かしそうに話してくれたわ」

深く息を吸い込み、意を決したように続ける。


『そんな普通の生活が、ずっと続くものだと思ってたのに…… あの日、突然の事故で、夫の死を知らされた時、私の中の時間も止まってしまったみたいだった』って。


由里子は、あの夜の美知子を思い出すように、ゆっくりと言葉を継いでいく。

「それから、みっちゃん、こうも言ってた『仕事に行くときまでは、あんなに元気だったのに、あの人はもう帰ってこないんだ…… そう思っただけで、胸が張り裂けそうだった』って」

その言葉を口にした瞬間、由里子の瞳が潤み、視線が彷徨った。あの時、美知子の口からこぼれ落ちた絶望の重さを、感じ取りながら、語り続けた。

「毎日のように、夜になると、泣き疲れて眠りについて…… 朝になれば、ご主人のいない現実がまた始まって…… 毎日がその繰り返しだったって」

まるで、あの時の彼女の気持ちをそっとなぞるように。


途切れる声を紡ぎながら、

「いつも明るい彼女の…… その、奥に…… 私の知らない、深く、長い時間が流れてたこと。……その時、初めて知ったの」

そう言い終えた由里子の瞳から、ひと筋の涙が零れ落ちる。こらえきれずに、溢れ出した雫は熱を帯びて頬を伝う。唇を噛み締めると、それ以上の言葉が出てこなかった。


美知子は、グラスの中の氷を見つめたまま、黙って聞いていた。


由里子は少し息を整え、込み上げる熱を喉の奥に押し込めると、一言ずつ確かめるように、ゆっくり話を再開する。


「だからこそ」


由里子は、少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。

「娘さん、光里ちゃんの存在が、みっちゃんにとって…… 生きる力になってたんだろうなって」

指先に力がこもる。


「隆さんのご両親だって……」


一瞬、言葉が途切れる。

「大切な息子さんを亡くして、本当は、誰よりもつらかったはずなのに、それでも、ずっとみっちゃん達のこと、気にかけてくださっていたのよね」

静かに息を吐く。


そして、慈しむように目を細めて続けた。

「それからみっちゃん、ふっと思い出したように、こう呟いたのよ。……今だから言えることだけど、あの頃は、辛いことや苦しいことがあると、自分のことで精いっぱいで周りが見えなくなるのよね…… 同じように深く傷ついていたはずのご両親の悲しみや、その優しさにまで、思いを巡らす余裕すらなかったって」

一呼吸置き、美知子を見つめ、


「……覚えてる?」

と、確かめるように声をかける。


少しの沈黙。


記憶をなぞるように視線を上げ、静かに頷く美知子へ、由里子は微笑み語りかける。


「みっちゃんの言葉が、そのまま、私自身と重なって…… ハッとさせられて、胸の奥が、きゅっと掴まれたみたいだったわ」



そうして、思いの丈を打ち明けるように言葉を紡いでいく。

「……あの頃の私ね、もともと子どもができにくい身体だって言われていたの。それが、妊娠してるってわかった時は、二人でどんなに喜んだことか」



「でもね、突然の流産で一時期は神様を恨んだこともあったわ。……あんなに気をつけていたのにって」

目を伏せると、微かに声が強張る。

 

「それに、身体の回復も遅くてね。辛くて、いつも泣いてばかりだった」


「……当時の夫は、仕事に行っては、付き合いだからって遅くまで飲んで帰ってきて…… 顔を合わせれば喧嘩ばかり。そのうち外泊が増えるようになってね、まぁ、後はご覧の通りよ」

自嘲気味に笑い、短く溜息をつく。


「あの頃は、暗い顔して泣いてばかりいたわ。 まるで、自分だけが悲しい思いをしてるみたいに、やり場のない怒りを全部、彼にぶつけてたんだもの。……そりゃあ、あの人だって逃げたくもなるわよね」

かつての自分に呆れたように、鼻先で笑ってみせた。


グラスを傾け、ひとくち分だけ喉を潤すと、真っ直ぐに美知子を見据える。

「でも、みっちゃんの言葉のおかげで、今はこう思えるのよ。赤ちゃんを亡くした悲しみは、彼も、……ううん、浩ちゃんも、私と同じくらい辛かったんだって」


「あの時、何も見えて無かったのは、私だったのよね」

そう言って、気恥ずかしそうに笑顔を作る。


その想いを噛みしめるように、美知子は穏やかに笑い返し、口を開いた。


「私もね、留学先から戻って来た光里を見て、ハッとしたの…… また背が伸びていて、目元なんか、もうそっくり、 成長するたび、隆さんに似てきて、 ああ、やっぱり親子なんだなぁって」

美知子は、どこか照れたように小さく笑った。胸の奥にあった重たいものが、すっと軽くなっていくのを感じながら……


そう思った瞬間、ふいに、娘の笑った顔が胸に浮かぶ。 あの人に似た、あの表情。「あの人が生きていた証は、ちゃんと娘の中に受け継がれているんだとね」

美知子は、そっと宙を見つめると、迷いがほどけたように由里子へ視線を戻し、やわらかく微笑んだ。


「その時、胸の奥でずっと固まっていたものが、ふっと軽くなるのを感じたの、気づけば、楽になっている自分がいて……」

グラスに視線を落とし、指先でそっと縁をなぞりながら

「だからかもね。由里ちゃんと飲んだあの夜は、自然と隆さんの話をしちゃってたのよね。自分でも驚きだったわ」



じっと聞き入っていた由里子は、嬉しそうに笑みをこぼす美知子の横顔を見つめながら、

(……隆さんを失った傷が、消えたわけじゃないでしょうけど…… それはもう、言葉にできる思い出や、記憶に変わってきてるのね)

そう独りごちる小さな呟きは、氷とシェイカーが織りなす響きへ溶けていった。


バーカウンターでは、氷を砕く音、シャカシャカとアルコールが混ざり合うリズムが打ち解け合い、二人の間を緩やかに流れていく。


由里子は、グラスの中に揺れる氷をぼんやり見つめながら、遠い時間をたぐり寄せるようにささやいた。


「みっちゃんさぁ…… 不思議と、結婚してた頃よりも今のほうが、浩ちゃんと、ちゃんと向き合えてるような気がして、……楽なの」

グラスを口に運ぶと、残りのカクテルを飲み干し、美知子に顔を近づける。


「ねぇ、カクテル、リクエストしてみない?」


「えっ? どういうこと?」

美知子が目を丸くする。


「マスターにお願いして、イメージで作ってもらうの。たまにやってくれるのよ」

由里子は、少し得意げに声を弾ませた。


「テーマは何が良いかしら? ……みっちゃん、やっと隆さんのこと話せるようになったし。私も、あなたのおかげでいろいろ気づかされて、お陰で、浩ちゃんとまた、会えるようになったし……」

人差し指をそっと唇に当て、手元のグラスをじっと見つめながら考えを巡らせる。


ふいに何か閃いたように顔を上げると、瞳をパッと輝かせた。

「ねぇ! ……『再生』ってどう?」


美知子は呆気にとられながらも、その明るさに頬を緩めた。

「なんだかよくわからないけど…… 由里ちゃんに任せるわ」


由里子はカウンターの向こうを見て声をかける。

「マスター! カクテル、リクエストしてもいい?」


美知子は、この場の雰囲気にそっと便乗するような、ふと気になったことを遠慮がちに尋ねた。

「ねぇ〜由里ちゃん…… 前は復縁を考えてないって言ってたけどさ。その…… お互い、また一緒に、って思ったりしないの?」


由里子は、即答する。


「復縁は絶対に無いわね」

迷いのない、晴れやかな声。


「それに、今さら一緒に住んだところで、お互い面倒臭いだけだわ。これまでのように連絡取り合って、会いたい時に会えれば、それで十分よ」

吹っ切れたような、清々しい笑顔だった。


「ほら、みっちゃんと亮ちゃんみたいな距離感。

私たちも、これくらいが丁度いいのよ。……もしも、お互い老後も一人だったら、その時は一緒に住もうか、なんて冗談交じりに言ったりするけどね」

そう言って、由里子は愛おしそうに瞳を和ませ、ふわりと表情を緩める。


そして、自嘲気味に、けれどどこか温かく

「腐れ縁ってやつかな」

と呟いた。


その言葉に、

「……由里ちゃんらしいね」

と優しく目尻を下げる。


「そうそう。今度、その浩ちゃん、正確な名前、なんて言うの?」

美知子は何気ない風を装いながらも、ちらりと由里子の様子をうかがう。


「えっ?」

由里子は一瞬だけ目を丸くしてから、すぐに可笑しそうに笑った。

「あ〜、数字の一で、浩一って言うの」


「浩一、さんか……」

美知子は、わざとらしく間を取る。

「今度その浩一さんに、私も紹介してよね」

にやりと口角を上げてみせた。 


由里子は、ふっと笑う。

「いいわよ。クリスマスも近いことだし、一緒にどう?」


その応えに意表を突かれ、言葉を詰まらせる。

「クリスマスって…… そんな特別な時期にお邪魔したら悪いわよ。もう少し時期をずらさない? 年明けとかさ」


由里子は美知子の遠慮を吹き飛ばすように、あっけらかんと手を振った。

「なに気を使ってるのよ。今さら、二人きりでロマンチックな聖夜って柄でもないし。むしろ、みっちゃんがいてくれた方が、浩ちゃんだって絶対に喜ぶわ」


そこでふっと、何か思いついたように目を細める。

「……あ、そうだ」

少し身を乗り出し、美知子の顔を覗き込む。


「亮ちゃんも、誘ってみたら?」


その一言に、美知子は一瞬きょとんとする。

「え?」

すぐに意味を察して、ふっと視線を逸らした。

「どうしようかなぁ……」

美知子は、照れたように、そっとグラスに口をつける。


「……もう、調子いいんだから」

由里子は思わず吹き出した。


一拍おいて――


「ま、楽しみにしてるね」

にゃっと口元を緩めて、いたずらっぽくウインクした。


そのいたずらの余韻が、まだ空気に溶けきらないまま――

静かに、氷の触れ合うかすかな音が近づいてくる。

二つのグラスが、磨き上げられたカウンターの上を滑り、二人の前で止まった。


「お待たせいたしました。『再生』でございます。……長い夜が明け、再び光が世界を染め上げていく、朝の空をイメージしてお作りしました」


マスターの静かな声とともに目の前に置かれたのは、すらりとした背の高いグラス。

底に沈むのは、太陽のような力強い赤。上へ向かうにつれて、温かみのあるオレンジ、そして光を孕んだ鮮やかな黄色へと滑らかに溶け合い、天頂の夜空を宿す深い青へと移り行く。夜明け前の夜空を閉じ込めた、鮮やかなグラデーションだった。


クリスタルガラスの表面に結露した滴が、一筋だけゆっくりと流れ落ちる。

二人は吸い寄せられるようにグラスを持ち上げ、ごく自然に、祈りを捧げるようにそれを合わせた。


かつての傷跡が、もう二人を縛る鎖ではないことを確かめ合い、過ぎ去った暗い日々を、これからは糧として抱いていける。

その穏やかな覚悟が、グラスの中で美しく層を成す夜明けの色彩へ、鮮やかに溶け込んでいくようであった。


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