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第七話 同じ景色を見て、同じ道を歩き

秋晴れの休日。


美知子は、いつものウォーキングから戻り、

玄関でシューズを揃えて置いた、まさにその時だった。


携帯に届いた、一件のLINE

久しぶりに目にする名前に、思わず小さく息をのむ。


――杉下 亮。

北海道への出張が決まった日から、季節はひとつ進んでいた。


『やっと戻ってきました。元気ですか?』

その一文が、止まっていた時間を静かに動かし始めた。



杉下亮とは、もう十年以上の付き合いになる。


光里がまだ小学生のあの春のことだ。


春休みに親友の由里子と三人で訪れた熱海で、偶然、亮と出会った。

彼もまた休暇を利用して、学生時代からの写真部仲間、澤田と、ウォーキング旅行で熱海を訪れていた。


電車の中で、たまたま隣り合わせになった亮たちの会話が耳に入る。

当時の二人は、まだ現役の大学生だと言われても疑わないほど、瑞々しい若さに溢れていた。


爽やかな語り口、会話の合間にこぼれる笑い声までが、

まるで春風に溶け込んでいるように見えた。

熱海の話題が出たその瞬間、由里子が迷いなく声をかけた。

「私たちも熱海に行くんですけど、どこかおすすめの場所ってありますか?」


東京で生まれ、育った由里子は、

都会の空気の中で、人との距離を測る感覚を自然に身につけていた。

相手の懐へ躊躇いなく飛び込める天性の明るさが、亮たちとの会話の扉を、いとも簡単に開いていった。


それが、すべての始まりだった。


亮たちは熱海の常連らしく、慣れ親しんだ道を確かな足取りで、軽快にたどっていく。


亮が熱海に、そしてウォーキングにすっかりはまったのは、遡ること大学一年の夏休みのことだった。

当時、写真部の仲間と立てた旅行の計画で、関東近県のいくつかの候補の中から、多数決により選ばれたのが熱海だったという。

学生だった彼らは、できるだけ予算を抑えようと、現地での移動をすべて徒歩にする旅を選んだ。

それが、後に亮が熱海という土地に深く親しみ、何度も足を運ぶようになる原点となった。


今回の熱海ウォーキング旅行も、亮の声かけである。

澤田にとっても、初めて賞をもらった作品が、熱海で撮った一枚だったのだ。


海と波の煌めきが織りなす、あの清らかな風景。その一瞬を切り取った記憶は、今も色褪せることなく彼の胸に刻まれている。

それだけに思い入れも強く、熱海は特別な場所だった。


「もし時間があったら、初島にも行ってみるといい。フェリーですぐだし、魚が本当に新鮮なんだ」

そう言って振り返る亮に、美知子は思わず感心したように頷いた。


「それとね、せっかく熱海に来たなら、ちょっと足を延ばして網代(あじろ)もおすすめだよ。熱海と違って静かな町だけど、海岸沿いに漁師さんがやってる店があってね、朝獲れの魚をそのまま出してくれるんだ」


まるで自分の町を案内するかのような口ぶりだった。


「俺たち、熱海に来たら必ず網代に足を伸ばしてから帰るんだ。……よかったら、明日一緒に行ってみる?」


初めての熱海で勝手も分からずにいた美知子たちにとって、その言葉は心強かった。

行き当たりばったりだった旅は、

亮たちのおかげで、初めての熱海を心から満喫できるものになった。


なによりも美知子が嬉しかったのは、

人見知りだった光里が、写真部の部長を務めていたという澤田と、すっかり打ち解けていったことだった。


「それ、光里ちゃんが撮ったの?」

澤田にそう声をかけられ、差し出されたカメラの液晶を覗き込みながら、最初こそ戸惑っていたものの、教え上手な彼のペースに引き込まれ、いつの間にか屈託のない笑顔で、ケラケラと声を立てて笑っていた。


その様子を、少し離れたところから眺めていた由里子も、

娘の弾けるような笑い声につられるように言った。


「光里ちゃん、本当に楽しそう…… 見てるこっちまで、笑い出しそうだわ。うふふ……」


「由里ちゃんほんと… 子供好きだからね」


遠くで微かに見える、初島を眺めながら……

由里子は、消え入るような声で、呟いた。

「あの時の、お腹の赤ちゃんが、もし生きていたら… 光里ちゃんくらいかなぁ……」


返す言葉が見つからない美知子は、寄り添うように、そっと手を肩に置いていた。


気がつけば、亮も加わり、「ダルマさんが転んだ」を夢中で楽しむ光里だった。


「光里ちゃ〜ん! 楽しそうねぇ… 由里子おばちゃんも仲間に入れてほしいなぁ」


「うん! いいよ」

光里は顔をぱっと輝かせ、大きく両手を振った。


由里子は、胸に残る思いを振り払うように小さく息を吐き、

それから笑顔をつくって、光里のほうへ歩き出した。


「ねぇ、ママも一緒にやろうよ! 楽しいよ」

知らない場所、知らない人たちの中で

人見知りの激しい光里がこんなふうに笑えて溶け込んでいる。

それだけで、もう十分だった。

美知子は、その声を聞きながら、

胸の奥に長く溜まっていたものが、

自然とほどけていくのを感じていた。

それ以来、亮とも連絡を取り合うようになり、

休日が合えば声を掛け合って歩いた。


時には由里子や、澤田も加わり、

皆で連れ立って歩くこともあった。


最初の頃、亮はあくまで気の合うウォーキング仲間の一人で、

特別に意識することもなく、ただ同じ景色を見て、同じ道を歩き、笑い合う。

そんな自然体でいられる時間が、いつしか美知子にとってかけがえのない楽しみの一つになっていった。


二人は次第に顔を合わせる時間を、少しずつ重ねていったのだった。

亮は美知子にとって一回り年下でありながら、年齢差を感じさせないほど頼れる存在になっていた。


光里が中学に入学した、最初の夏休みのことだった。

「おばあちゃんに会いたい」

そう言って、美知子を珍しく困らせてしまった時、

やむを得ず光里を故郷の母のもとへ送り出したその夜… いつもは物音に満ちていた部屋が、息を潜めたように静まり返っていた。

娘の成長を喜びながらも、

光里と自分の距離が少しずつ離れていくような不安にかられた時も、亮がそばに寄り添っていてくれた。


今では笑い話だが、

二人で梯子酒(はしござけ)をし、挙げ句の果てに美知子の部屋の玄関先で酔いつぶれていたことも。


美知子にとって、

その存在が、どれほど心強かったのか

亮は、信頼できる大切な友人。

それ以上でも、それ以下でもない。

ずっと、そう思っていた。


……つい、さっきまでは。


会えない時間が続くうちに、

ただの友人では済まされない何かが、

いつの間にか心の奥に根を下ろしていた。


電話で声を聞くだけでは満たされない

そんな空白があることを、初めて知った。

かと言って、……恋とも呼べず、

燃え上がるような情熱とも違う


それでも――

会いたい時に会い、同じ空気を吸い、

同じ景色を見て、

ただそこにいてくれるだけで、

それがどれほど尊く、かけがえのないことなのか――

亮は、美知子にとって

いつの間にか「なくてはならない存在」になっていた。


(亮が、帰ってきてる)

美知子の胸はざわめいた。

「少し話したいな」

そんな思いにかられて、気づけば亮の名前をタップしていた。

発信音が、耳の奥に規則正しく響いた。


――ツー…… ツー……


聞きながら…

「…メールにすれば良かったかな……」

一瞬、後悔の念が胸をよぎる。

指先が通話を切ろうと、画面に触れかけた


――その時だった。


――カチリ。


『よう……みっちゃん?』

少し低くて、穏やかな、聞き慣れた声。


『どうした? 生きてたか?』

それは、いつもの亮の、美知子への第一声だった。


「………しつこく生きてるわよ」


そのやり取りだけで、

張りつめていた胸の奥が、ふっと緩んでいくのがわかった。

説明はいらない。

互いに無事を確かめるには、それで十分だった。


『どう? 久しぶりに、熱海か伊豆あたりでも歩いてみない?』

亮の思いがけない誘いに、嬉しさで胸が弾ける一方で、


(急に連休が取れるだろうか?)

そんな不安を悟られまいとするように、一拍おいて答える。


「そうね、今月は無理だけど…… 来月の後半なら、一泊くらいなら行ける」


『よかった。北海道じゃ、ほとんど車移動だったからさ、無性に歩きたくてね』


「たぶん来月の後半になると思うけど、亮ちゃんは大丈夫?」


『俺は大丈夫、みっちゃんに合わせるよ』


「解った。じゃあ、詳しい日程はまた後で連絡するね」


『了解。久しぶりだな』


美知子は、ゆっくりと携帯を下ろし、深く息を吐いた。


これまで何度も一緒に歩いてきた。

ただ並んで、同じ景色を眺め、

他愛もない会話を交わし、

ふざけて笑いながら……

同じ距離を進むだけ。


けれど、その時間が、

二人、それぞれが抱えてきた暗い記憶を、

いつの間にかほどいてくれる――

そんな、静かで満たされた特別なひとときだった。


『合わせるよ』


それだけのやり取りなのに、

二人の間に流れる時間は、

昔のまま、何ひとつ変わっていなかった。


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