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第六話 夜風が吹き抜け、髪をそっと揺らした

光里が留学先へ戻ってから一週間後のことだった。

ちょうどアメリカ出張から帰国した父の弟、翔太に誘われ、美知子は麻布のステーキハウスにいた。


カウンターで隣合う翔太は、美知子の父の弟にあたる。

大きく年の離れた末っ子の四男ということもあり、姪である美知子との年齢差は、叔父と呼ぶにはどこか近しいものだった。

実年齢よりも若々しく見える佇まいは、美知子と並んでも年上の兄のような親しみやすさを感じさせる。

叔父と姪というよりは、気の置けない兄妹のような距離感で、二人はゆっくりとグラスを傾けた。


落とされた照明の中、ジューッという小気味よい音が響き、香ばしい匂いがふわりと鼻をくすぐる。

目の前の鉄板はライトに照らされ、シェフが熟練の手つきでコテとナイフを操り、鮮やかなリズムで極上の肉をサイコロ状に切り分けていく。


「叔父さん、さすがだね! こんなお洒落なお店、よく知ってるよね」

美知子が感嘆すると、翔太は軽く肩をすくめ、苦笑いした。


「取引先の人に教えてもらってね。料理もサービスも良くて気に入ってるんだ。光里ちゃんも一緒に連れてきてあげたかったけど、ちょっとタイミングが合わなくて残念だったよ」


光里が留学した後も、翔太がたびたび彼女の元へ足を運んでいたことを、美知子は知っていた。

こうして久しぶりに、カウンターに隣り合って腰を下ろし、ゆっくり話す時間――

二人は自然と故郷の話、母や姉たちの近況へと話題を広げていた。


ワインを一口含んだ翔太は、余韻を楽しみながらグラスを置くと、優しい表情を浮かべる。

「光里ちゃん、背が伸びて、綺麗になってて……義姉さんも、驚いたんじゃないか?」


「ええ…… 隆さんに見せてあげたかったって、言って涙ぐんでたわ」

美知子が答えると、翔太は静かに頷きながら、深く納得したように言葉を継いだ。

「義姉さんらしいよ。一月前になるかなぁ、光里ちゃんに会いに行ったとき、あいつ、急に大人びて俺も驚いたよ」


手元のグラスを軽く揺らし、亡き義理の甥、隆の面影を追うように視線を落とす。

「誰よりも隆くんが、光里ちゃんの成長を喜んでるはずだよ。……義姉さんの気持ち、よく分かるな」


その言葉を聞きながら、美知子の胸の奥に、叔父と両親の姿が重なった。



九州の小さな漁師町から東大へ進学するなど、あの頃は翔太叔父さんが初めての快挙だったそうで、合格の(しら)せが届いた日の騒ぎようといったら……

それはまさに、町を挙げたお祭り騒ぎだったという。

『おらが町から、東大生が出た!』

町中がそんな歓喜の声で溢れ、地方紙の紙面を飾るほどの熱狂ぶりだった。


翔太自身、最初は東大どころか、進学するという発想すら持っていなかった。

海と共に生き、漁師として家を継ぐのが当たり前だと思っていた。

そんな翔太に『挑戦してみろ』と強く押したのが、兄夫婦である美知子の父と母だった。


当時、この町には塾も予備校もなく、勉強できる環境などほとんどなかった。

だからこそ、翔太が合格したときの衝撃は大きかったようだ。

町の人々は『天才が出た』と口々に言い、ヒーローのように祝福したという。

 

翔太は今でも、親代わりになって面倒を見てくれた、年の離れた兄夫婦のおかげで今の自分がある。……だからこそ、美知子が光里を連れて東京に出てきたときは、出世頭となった翔太が真っ先に手を差しのべ、二人を支えてきた。


光里の留学を勧めたのも、翔太である。

それはかつて、美知子の両親である兄夫婦が、自分にしてくれたことの恩返しでもあった。


年の離れた弟だった翔太に、親のように寄り添い、東大受験へと背中を押してくれた兄と義姉。挑戦する勇気をくれたのは、あの二人だった。


漁師の家に生まれ大人になった兄達が当たり前のように漁師になったように、大人になったら自分も漁師になるものと思って育ってきたのだった。


ふと、翔太の胸に昔の記憶がよみがえる。

もしあの時、兄夫婦が手を差し伸べてくれなければ、自分は今頃、故郷の海で漁師として生きていたに違いない。そんな、幾度となく繰り返してきた確信が、改めて深く胸をよぎった。


『翔太、お前は東大を受けてみればよか。お前には、それだけの頭脳があっとけん』


兄にそう言われたとき、翔太の胸には嬉しさや誇らしさと共に、現実味のない戸惑いが広がっていた。

彼自身、漁師以外の道を歩む未来など、それまで一度として想像したことがなかったからだ。


そのとき、横で義姉が静かに言った。

『結果はともかく、まずは挑戦してみらんね。先が見えんでもよかとよ。最初の一歩を踏み出せば、この町におっては見られん景色が、きっと見えてくるけん』


その言葉は、翔太の胸に深く沈み込んだ。

もし本当に、違う景色が見られるのなら。


あの瞬間ほんの小さな勇気が芽生えた。

一歩踏み出してみようと。


そして、その一歩が翔太の人生を大きく変えた。

兄夫婦は、翔太の可能性を誰より信じてくれていたのだ。

『こんな小さな町で終わらせるには、もったいない』


その強い思いは、今も翔太の胸に生きている。

 

「ごちそうさま…… ほんと、美味しかった!」


店を出た瞬間、美知子はふっと頬をゆるめた。

ほのかな酔いに頬を染めながらも、その微笑みは満ち足りた温かさにあふれている。

久しぶりに心から笑い、語り合えたひとときであった。


「いやぁ…… 今夜は飲んだな」

翔太は軽く肩を回しながら、くつくつと笑った。


「みっちゃんと飲んでると楽しくて、時間を忘れるよ」

そう言いながら、火照った顔で、隣を涼しげに歩く美智子の顔をまじまじと見つめる。


「しかしみっちゃん、相変わらず強いね。顔に出ないのは、兄貴に似たのかな」

そう自分で言いながら苦笑する。


店の扉を押して外へ出ると、麻布の夜気がひんやりと頬を撫でた。

通りの向こうには、呼んでおいたタクシーが静かにライトを灯して待っている。


翔太の歩みには、わずかな酔いの揺らぎが見えるが、その隣を歩く美知子の足取りは、まるで素面(しらふ)のようにしっかりとしていた。


夜の通りには、食事を終えた人々の笑い声や、遠くを走る車の音がかすかに混じっていた。

先にタクシーのドアが静かに開く。

翔太は後部座席のドアに手を添え、先に美知子を乗るように促した。

美知子が静かに乗り込むのを見届けてから、翔太もそのあとに身体を滑り込ませる。

ドアが閉まり、タクシーは静かに夜の通りへと走り出した。窓の外を、街の灯りが帯のように流れていく。

しばらくして車はゆっくりと速度を落とし、美知子の住むマンションの前へと滑るように停まった。


「じゃあ、また」

短く告げて後部座席から翔太が、窓越しに軽く手を上げる。


さりげない別れの挨拶を、そっと見送りながら、小さく手を振り返した。


タクシーがゆっくりと走り出し、尾灯の赤が夜道に滲んでいく。

その光が角を曲がって完全に見えなくなるまで、

美知子はしばらく立ち尽くしていた。


――叔父さん、貴方はすごいよ……

日本を飛び回り、海外にも拠点を置き、

滅多に会えなくなった叔父と。

久しぶりに向かい合ったその姿は、


誇らしい――

なのに、どこか遠い。


夜風が吹き抜け、美知子の髪をそっと揺らした。


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