第三話 そっとひとつに溶けていく
久ぶりに母と三人で囲んだ食卓。
テーブルを彩るのは、美知子と光里の大好物だ。艶やかなお刺身と、香ばしく炊き上げられた鯛のあらの煮付けが、食欲をそそる香りを漂わせている。
「お刺身、プリプリしてて新鮮! あっ、これこれ…… ん〜っ! お婆ちゃんのあら煮は、やっぱり最高!」
無邪気に笑いながら箸を伸ばす娘に、母が優しく声を掛ける。
「光里ちゃん、骨に気をつけてね」
娘にとっては、親代わりのようにいつも側で見守ってくれた、大きくて温かな存在だった。
食卓の余韻がまだ温かく残るなか、
その夜、三人で枕を並べて横になりながら、光里は留学先での出来事や、胸に抱いている未来の夢を、まるで溢れ出すように楽しそうに語り続けていた。
母は、その一つひとつに耳を傾け、まなざしに愛おしさを滲ませながら、静かに受け止めていた。
やがて、夜が深まるにつれ楽しげな声は少しずつ柔らかくなり、話の途中でふと途切れた。
遠くで漁船の汽笛が微かに響き、部屋の中に静けさが満ちていく。
「……光里?」
美知子が娘の顔を覗き込みながら……
「……あら、寝ちゃったのね」
光里はすでに静かな寝息を立てて、夢の中にいた。
美知子は、娘の額にかかった髪を優しく払いながら、その向こう側の母へ、そっと視線を送る。
「幸せそうな顔して…… この子、ずっとお母さんに会いたがっていたから、きっと安心したのね」
そして美知子は、ふと遠い日の記憶を口にした。
「ねぇ、お母さん。……覚えてる? 光里が小学校に上がる前、私が東京へ行くって言い出だした時のこと」
返事はなく、慈しむような沈黙だけがそこにあった。
「あの時、お父さん凄く反対したよね。お母さんは何も言わずに私の気持ちを汲んで…… お父さんを説得してくれたじゃない?」
母は少し息をつき、柔らかく微笑んだ。
「そうじゃなかよ…… あん時美知子の気持ちを、一番わかっとったとは、父さんばい」
懐かしむように目を細めじっと、天井を見つめる。
「美知子も聞いちょると思うけど…… 父さんは若か頃、すぐ下の弟、翔次さんば、船の事故で亡くしてね…… 一緒におったとに助けてやれんかったと…… あれが、心にずっと残っとったとよ」
言葉を探すように、母は小さく吐息を漏らした。
「船に乗るのも、ほんなこつ辛くなって、漁師をやめて…… いっそのこと知らん土地に行こうかと、何度も考えたらしか」
母はそこで一つ大きく息を吐き、身をよじるように美智子へ視線を向ける。その顔は、懐かしさと寂しさが入り交じったような、不思議な静けさを帯びていた。
「そいでん、三男の翔三さんや、まだ小さかった四男の翔太さん達がおったけん…… だからね、父さんは、長男としての責任が思いとどまらせたって、言いよった」
母は枕に頬を沈めたまま呟く。
「美知子が、この家をいつか出て行くって言い出すやろうことは…… 父さんも覚悟しとったとよ」
その声は、包み込むように少しだけ熱を帯びた。
「ここにおることで、美知子が隆さんのことば、いつまでも引きずっていくぐらいなら…… 『美知子の思うようにさせてやろう』そう、父さんは言っちょった」
諭すような響きの中に、確かな安堵をにじませる。
「そいで、こうも言っちょったとよ。『あん時のわしと違って、美知子には背負うもんは何もなかけん。わしらもついちょるし、なんたって東京には翔太もおるけん、心配はいらんばい』ってね」
かつての夫の不器用さを愛おしむように、母は目元を緩めた。
「父さんが反対したとは、美知子の気持ちを確かめたかっただけたい。『大都会で、女手ひとつで子どもを育てていくには、なまじっかなことじゃなかけん』そう言っちょったけどね」
そして、内緒話をするように声を潜めて呟く。
「本当はね、父さん、美知子と光里ちゃんと離れるのが、いちばん寂しかったんだと思うとよ」
母はその気持ちを初めから分かっていたかのように、優しく微笑んでいた。
その言葉を聞いた瞬間、ふと昔の匂いが、美知子の胸の奥を締め付けるのだった。
あの頃の私は、夫の突然の死を受け入れられず、息をするだけで胸が痛いほど苦しかった。
横浜育ちの夫にとって、海はいつも身近な存在だった。子どもの頃は両親と湘南の海へ泳ぎに行き、学生の頃には釣りやサーフィンに夢中にだった。
美知子の父の小さな漁船に初めて乗せてもらった日のことは、隆にとって忘れられない思い出になっていた。
当時、父は網元の権利を弟の翔三おじさんに譲り、近海で魚やタコを釣って細々と生計を立てていた。それでも、中小企業のサラリーマンよりよほど稼いでいた時代だったという。
湘南の海とはまた違う、静かに広がる沖の海…… 父の手際のいい舟さばきや、ゆっくりと竿を垂らす時間…… そのすべてが新鮮で、心の奥まで解き放たれるような気持ちになったらしい。
「海って、こんなに気持ちいいものなんだな」
そう言って、少年のような顔で笑っていた隆の姿を、美知子は今でも覚えている。
それ以来、連休が取れるとよくドライブを兼ねて美知子の実家へ帰り、父の船に乗せてもらって海へ出るのを、隆は楽しみにしていた。
あの頃の父と夫の姿が今でも目に焼き付いていて、夕暮れの海を見るたびに、美知子は押し寄せる寂しさに呑み込まれそうになる。
こうした美知子の心を、父も母も深く理解していた。あえて言葉を交わさずとも、娘の抱える想いを痛いほど感じ取っていたのだ。
だからこそ、父は美知子の決断に反対しながらも、こう言ってくれた。
「無理はするなよ。辛い時はいつでも帰ってこい。お前らの居場所はここにもあるんだから、忘れるなよ」
その言葉に、美知子はどれほど救われたことか……
母もまた、寄り添うように静かに背中を押してくれた。
その夜、安らぎに包まれた部屋には、光里の寝息だけが満ちていた。
幽かに響く漁船の汽笛。その余韻のなかで、かつての痛みと今の温もりとが、そっとひとつに溶けていくようだった。




