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ガリロルザ国の王城内は、かつてない混沌が渦巻いていた。
最後の砦となったこの城には、逃げ場を失った避難民と、前線から運び込まれた無数の負傷兵が雪崩れ込んでいる。大理石の回廊は、今や鮮血と泥濘、そして包帯の白で埋め尽くされ、絶え間ない呻き声と慟哭が反響していた。
「おかぁさんっ……」
「大丈夫、大丈夫よ……」
「くそっ、なんでこんなことに!」
「道を空けろ! 怪我人だ!」
しかし、黒煙に覆われた城下町では、未だ希望の灯火は消えていない。
逃げ遅れた民を守るため、そしてこの国を守るため、ガリロルザに滞在していた多くの冒険者たちが武器を取り、敵軍勢に対し、果敢な抵抗を続けていた。
だが、その健闘すらも遥か上空から見下ろす存在にとっては、単なる余興に過ぎなかった。
「っぁあ。さっさと滅ぼしちまおうぜ、こんな国。なんたって、こんな回りくどいことを」
城下町を見下ろす時計塔の頂き。そこに、紅蓮の炎を纏う影があった。
四神魔界王の一人──バリオン。
「にしても、哀れだよなぁ。勝ち目のない戦いに必死になってよ」
バリオンは自ら手を下すことなく、眼下で繰り広げられる殺戮の饗宴を、まるで特等席で観劇するかのように眺めていた。時折、退屈しのぎのように指先から炎弾を放っては、抵抗する冒険者の小隊を建屋ごと吹き飛ばし、上がる悲鳴を肴に笑う。バリオンにとって、城が落ちるまでの時間は、ただの暇つぶしでしかなかった。
一方、城内にて陣頭指揮を執る『不朽の栄光』の土の使い──ノンナの表情は険しかった。
ノンナは極められた土魔法で即席の隔壁や石造りの寝台を作り出し、避難民の居住スペースを確保しつつ、同時に負傷兵の搬送ルートを的確に指示していた。もはやその顔には、いつもの軽薄な笑みはなく、まるで別人のような風格さえ漂わせていた。
「おい、そこの! 南側の回廊が崩落しかけてるッス。土壁で補強しておくから、今のうちに怪我人を奥の大広間へ!」
「はっ、はい! ありがとうございます、ノンナ様!」
「礼はいいッス! 動ける奴は水と食料の配給を手伝うッス! 子どもたちを優先するのを忘れないように!」
その惨状の中、ガリロルザ国が誇る国家最高位の回復魔法使いたちが、必死の救命活動にあたっていた。それは皆、卓越した魔力と医学的知識を兼ね備えた、大魔法協会の精鋭である。
本来であれば、切断された四肢すら繋ぎ止める奇跡の魔法を行使できる者たちだ。
しかしながら、余裕はなかった。次々と運び込まれる重傷者の数は、その処理能力を遥かに超えていた。魔力枯渇による眩暈に耐え、己の生命力すら削りながら癒やしの光を放ち続けるが、その神聖な輝きも、この圧倒的な量の前では、焼け石に水でしかなかった。
ノンナは指示を飛ばしながら、懐から『不朽の栄光』専用の通信用魔法道具を取り出した。それは、掌に収まる大きさの、複雑な紋様が刻まれた銀板である。
ノンナは魔力を込め、本部への緊急回線を開こうと試みる。
「……クソッ、まだ繋がらないッスか……!」
だが、銀板から返ってくるのは、鼓膜を刺すようなノイズのみであった。何度試みても結果は同じ。外部への通信は、何者かによって完全に遮断されていた。
(……完全に孤立無援。アタシがここに来た時には、もう手遅れだったってことッスか……)
ノンナがガリロルザに到着した時、すでに戦況は壊滅的だった。謎の敵群を蹴散らし、なんとか王城への道を切り開いたものの、そこでノンナは遭遇した。空を焦がす紅蓮の業火と、それを操る天災のような存在──四神魔界王バリオンに──────
「なかなかやるようだなぁ!? てめえ、いわゆる、Sランク冒険者ってやつか? 俺とここまで張り合えるなんてよ、面白えじゃねえかッ!」
「くっ……、こいつ、デタラメかよ……っ!」
一合、二合と魔法を交わしただけで理解した。
その時の感触は、今も両手に残っている。
おそらく、力は、互角かもしれない。
「……ん、お前の、その……勲章……」
「このままじゃ、埒が明かないッスね……!」
「おいッ!? てめぇ、どこ行きやがる……!」
不朽の栄光として、人類最強格の実力を持つノンナの魔法と、バリオンの炎は拮抗し、一進一退の攻防を繰り広げた。
もしかすると、勝てない相手ではないかもしれない。
だが、ノンナは撤退を選んだ。
「逃がすかッ!」
「くうっ……、あんたみたいなやつと、遊んでる暇はないッスよ!」
「くおっ!?」
ノンナは地面を強く踏みしめると同時に、ノンナとバリオンの間に巨大な岩壁が地面から生えるように生成された。その間に、ノンナは逃走する。
「小賢しいことしやがって……!」
「……今は、避難民を助けるッス……!」
相手は大魔王直属、伝説に語られる『四神』そのもの力を有したと言われる炎の使い。
「……あれが……世界の敵……!」
生涯で一度も魔王を見たことのないノンナであっても、その底知れぬ魔力量と、人間離れした威圧感、そして何より『炎』という概念そのものを操るような力を見せつけられれば、理解せざるを得なかった。
あれこそが、お伽噺に出てくる『魔王』なのだと──────
バリオンと戦いながら守るべき市民を背負うのは、流石のノンナでも難しい。ノンナは苦渋の決断で城内への撤退を選び、結界による持久戦へと持ち込んだのだ。
(……アタシ一人ならなんとでもなる。でも、守りながらじゃ分が悪いッス……。それに、通信も遮断されたまま……)
しかし、城内での防衛と、外敵を防ぐ結界の維持に回った以来、状況は悪化の一途を辿っていた。
腹の底に響くような爆撃が外から轟く。そのたびに、城全体が地震のように揺れ、天井からパラパラと砂塵が落ちてくる。避難民たちは悲鳴を上げ、身を寄せ合って震える。
(……城が落ちるのも、時間の問題ッスね。ガリロルザ王が前線で踏ん張ってくれてるけど、相手は無限大の軍団。あの数は異常ッス……)
ノンナは唇を噛み締め、必死に思考を巡らせる。
(情けない……。魔王が目先にいるのに……全ての元凶がいるのに……ウチはなにもできず、親の仇すら……!)
悔しさに涙目になるノンナ。胸元に手を当てると、服の内側に隠したペンダントを布越しに強く握りしめた。
『不朽の栄光』の仲間たちが集まっていれば、戦局を覆せるかもしれない。だが、援軍を呼ぶ手段はない。自身が結界を破って外に出れば、間違いなく城は落ちる。
かといって、ここに留まっていてもじり貧だ。このままでは避難民もろとも生き埋めになる未来しか見えない。
「……どうする、ウチ……。ここで一か八か、バリオンに特攻かけるか? 市民を犠牲にして……」
選択肢のない葛藤が、ノンナの思考を鈍らせた、その時だ。
「………?」
堅く閉ざされていたはずの城脇の通用口から、一人の男が音もなく入ってきた。警備の兵士たちが気づく様子もない。まるで影そのもののように、男は混沌とした城内を悠然と歩いてくる。
腰まで届く長い黄土色の髪を後ろで無造作に束ね、耳にはいくつもの黒いピアスが揺れている。
そして何より目を引くのは、その服装だった。
上質なシャツの上に羽織った、重厚な趣を感じさせる革製の漆黒のロングコート。襟元や袖口には銀糸による複雑な刺繍が施され、上腕には軍の高官を示す、どこか奇妙な紋章が刺繍されていた。それはある種の『組織』における正装であることを堂々と主張している。
男の整った顔立ちと気だるげな瞳は、この場所において、異様なほどの清潔感と違和感を放っていた。
「……おやまあ。随分と散らかったパーティ会場ですねぇ」
男──チルノーヤは、悲惨な光景を見渡しながら、軽薄な口調で嘯いた。
同時にノンナの全身の毛が逆立った。
直感が、本能が、完全に男の存在を拒否している。
こいつはただ者ではない。そして、決して味方ではない。
「……誰ッスか、アンタ」
そう呟いた途端、周囲の視線が男に釘付けになる。
ノンナは即座に周囲の避難民たちを手で制し、後ろに下がらせた。
ところが男は、ノンナの警戒を意に介さず、芝居がかった仕草で肩をすくめる。
「通りすがりの『紳士』ですよ。……まあ、見るに見かねて、少しばかり手助けをしてやろうかと思いましてね」
「手助け……?」
その瞬間、ノンナの瞳が鋭く細められた。
男から漂う気配。それは、さきほどの魔王バリオンとと違う、もっと根源的で、激しい嫌悪感を催させる『闇』の匂いだった。
不朽の栄光──『土の使い』としての経験が告げていた。そして、『光の使者』として手の痣が疼く。
────こいつは、敵だ。それも、とびきり厄介で、本能から嫌う気配を感じる。
「……悪いッスけど、ウチは怪しいセールスマンの話を聞く趣味はないんッスよ。特に、こんな状況でヘラヘラ笑ってるような奴の話はねッ!」
ノンナが床を強く踏み抜いた刹那、床の石畳が隆起し、鋭利な石の槍となって男の喉元へと突き出された。
警告なしの攻撃。人類最強格が放つ、必殺の奇襲だった。
「ふうむ」
だが、直後に乾いた音が城内に響いた。
チルノーヤは表情一つ変えず、突き出された石の槍の穂先を素手で受け止めていた───いや、受け止めたのではない。軽く掌で触れただけで、ノンナが込めた膨大な魔力ごと、あろうことか完全に殺し、静止させたのだ。
「……なッ!?」
驚愕のあまり言葉を失ったノンナは、喉元まで出かかった追撃の詠唱を飲み込み、ただ呆然とチルノーヤを睨むことしかできなかった。
(なんッスか、今の……。アタシの魔法に触れただけで、構成してる魔力ごと完全に打ち消された……?)
周囲の避難民や兵士たちも、信じられない光景に目を剥く。
最高位魔法使いであるノンナの一撃をこうも容易く、しかも無傷で防ぐなどあり得ない。
「……おやおや。随分と血の気が多いお嬢さんだ。挨拶代わりにしては、少々手荒すぎやしませんか?」
チルノーヤは石の槍を指先で軽く弾いた。すると、強固な岩石の槍は砂となってさらさらと崩れ落ちる。
「……化け物かよ」
ノンナは冷や汗を流しながら、恐る恐る距離を取った。
勝てないとは思わない。だが、底が見えない。この男の実力は、自分と同格、あるいはそれ以上かもしれない。
「……アンタ、何者ッスか。ただの人間じゃない……」
ノンナの問いに、チルノーヤは自身のロングコートの裾を払い、ニヤリと笑みを深めた。
「ご想像にお任せしますよ。……ただ、今は敵対しに来たわけじゃありません。言ったでしょう? 手助けに来たと」
「……信用できるわけないでしょ。アンタみたいな胡散臭い男、アタシが一番嫌いなタイプなんッスよ」
「おや、奇遇ですね。私も、貴女のような直情的なタイプは苦手なんですよ」
チルノーヤはノンナの敵意をのらりくらりとかわす。
「……で? アンタは何が望みなんッスか。ボランティア精神で助けてくれるような顔じゃ、ないッスよね」
「ええ、もちろん。……利害の一致、というやつです」
チルノーヤは不快そうに眉を寄せた。その表情だけは、演技ではない本心からの嫌悪に見えた。
「……仲間割れッスか」
「仲間? よしてください。あんな品のない連中と一緒にしないでいただきたい」
チルノーヤは肩をすくめ、ノンナに手を差し伸べた。
「ひとまず、貴女に力を貸しましょう。まずは……この国を包囲している通信妨害結界の解除からやります?」
「……結界? ああ。この国を覆っているやつの話ですか。あれのせいで、通信ができないッスね。あれを解除できるんスか」
「まあ、……非常に時間はかかるかもしれませんが……、何とかなるでしょう。……それに、あと数日耐えれば、きっと戦況は変わりますよ」
チルノーヤは壁越しに南の空を見通すかのように視線を向けた。
「風の噂ですがね……。ナドラナの方角から、援軍がこちらに向かっているそうですよ」
「援軍……? まさか、レオナルド団長がナドラナに到着したッスか……! そうしたら、他国にも連絡が……!」
「さあ、それは知りませんが。ですが、その中には少々……『面白い存在』も混ざっているとか」
「面白い存在……?」
チルノーヤは意味深に笑うだけで、それ以上は語らなかった。
「援軍が到着すれば、戦場の盤面はひっくり返る、かもしれません。まあ、それまでの間、この城が持ちこたえられれば、の話ですがね」
「……チッ」
ノンナは奥歯を噛み締めた。
毒を以て毒を制す。この男が何者であれ、その力が本物であることは疑いようがない。今は、悪魔の手でも借りるしかなかった。
「……いい。乗ったッス」
ノンナは警戒を解かず、やむなくチルノーヤに告げる。
「ただし、もし裏切ったり、ガリロルザの民に手を出したりしたら……その時はアタシの命と引き換えにしてでも、アンタを道連れにするッスよ」
「怖い、怖い。……安心してください。私は『紳士』ですから、レディとの契約は守りますよ」
チルノーヤは優雅に一礼し、ノンナの方へと歩を進める。
「契約、成立ですね。……では、お嬢さん。まず、私の作戦を聞いてもらいたい」
「……その呼び方、やめてほしいッスね」
ノンナは不機嫌そうに鼻を鳴らすと、その不気味な男は自身の横を通り過ぎ、角にある個室の扉前で優雅に一礼し、ノンナを部屋の中に招くような仕草をする。
「……気に入らないッス」
最悪の状況下で結ばれた、奇妙な共闘関係。
二人はやがて、部屋の中へ消えていった。




