6
バジルが床に崩れ落ちた直後、ギルド職員と衛兵が駆け寄り、バジルを担架に乗せて医療室へと搬送していった。
その時、開け放たれたままの扉から新たな人影がよろめきながら現れた。
「……誰か、聞いてくれ……」
その声は掠れ、疲労の色が濃くこびり付いていた。
現れたのはガリロルザ国の正規兵装を纏った、立派な鬣を持つ屈強な獣人であった。
だが、その姿は無残だった。鎧は半壊し、何より左肩から先が失われており、止血の包帯が赤黒く染まっていた。
「私は……ガリロルザ国近衛師団長を務める、レオナルド=バノクーラ……」
獣人の男──レオナルドは、残された右腕で柱を支えながら、ギルド内の冒険者たちを見渡した。
「現在、我が国は……未曾有の侵攻を受けている」
レオナルドは、一言一句を絞り出すように告げた。
「敵は、正体不明の鋼鉄人形の軍勢。……それを率いるのは、かつて『天下の六柱』と呼ばれた『漆黒の女王』ヒナ=ノーノン」
「ヒナ……ノーノン!?」
「あの裏切り者って言われている……!」
冒険者の間に、ざわめきが走る。
「ヒナさんって、昔とんでもない事件を起こしたって……」
「ああ、まさか、それが……」
ナユが眉をひそめたその時、焦燥に駆られたかのようにレオナルドが右腕で柱を殴りつける。
「しかし……それだけではなかった……ッ!」
レオナルドは一度言葉を切り、絶望を噛みしめるように目を閉じた。
「……大魔王グレイ直属の配下、四神魔界王の一人……『炎の使い』バリオンが……裏には存在していた……ッ」
「四神……」
「魔界王……!?」
その名が告げられた瞬間、ギルド内の空気が極寒へと移り変わった。
『四神魔界王』。それは、国家を一瞬にして灰燼に帰す力を持つ、地上界にとって薬剤と言ってもいい代名詞だ。
「嘘だろ……! 大魔王ちょくぞって言われてる魔王だよな……!」
「なんでなのよ……! ここ最近、魔界の侵攻は全然ないって聞いてたわよ! 今さらになって……」
「十年前のグランディール侵攻以来、沈黙を守っていた魔界が、なんで俺たちの国を襲い始めたんだ!」
冒険者の不安に駆られた叫びがギルドを満たしていく。
魔族はここ数年、地上界へ大きな侵攻はするこなく、沈黙を守っていたようだ。それが今になって、なぜ暴れ始めたのか。
「……ッ!」
ツルカの瞳が、驚愕と警戒で大きく見開かれる。
《バリオン。大魔王グレイに忠誠を誓う最高幹部『四神魔界王』の一角にして、『炎』の権能を司る魔王。その力は単体で一国を焦土と化す戦略兵器に匹敵します。……人間が到底相手できる相手ではありません》
ツルカは無意識のうちに拳を握りしめ、魔族の侵攻に苛立った。個人の感情はともかく、この平和な世界を侵略する魔族を許せない。
「……王都は完全に包囲され、陥落は時間の問題かと思われた。……だが……!」
レオナルドが顔を上げ、瞳に希望の光を宿す。
「我らが王、『武道覇者』ガリロルザ様が前線に立ち、敵の猛攻を食い止めているッ! さらに……援軍として駆けつけた『不朽の栄光』のメンバー、『土の使い』ノンナ殿の助力により、辛うじて戦線は拮抗している状態だ!」
『不朽の栄光』の名が出た瞬間、場がどよめいた。世界最強のギルドがすでに動いている。それは、絶望に沈んでいた冒険者たちに少なからず勇気を与えた。
「しかし、敵の数は膨大だ。鋼鉄の人形どもは痛みを知らず、無限に湧いてくる……。王とノンナ殿が敵を抑えている間に、雑兵を掃討し、戦況を覆す数が必要なのだ」
「だ、だがどうしてだ! そんな規模の戦争なら他の国が黙ってないだろ! 誰も助けに来てくれなかったってのか」
冒険者の一人が疑問を突き掛ける。
確かにその規模の戦争ならば、他国も異変を察知するはずだ。
「それは王国を覆う、謎の結界により……情報を遮断されてるせいだ……。まるで……内部の情報を包み込むかのような……壁だ。それにより、魔法通信さえもできない……最悪の状況だった……。おおよそ、三週間だ」
「な……」
何も知らずに三週間という長い期間、平穏な世界の片隅で、ガリロルザ国は魔王らと戦い続けたというのか。
「三週間……。我々は孤独な戦いを続けている。拮抗状態ではあるが……それは敵側の作戦によるものだろう……。明らかに手加減されているような……感覚だ。まるで我々で遊んでいるかのような……それとも、全滅させる気はないのか……もどかしいが、よく私にもわからぬ」
レオナルドは爪が掌に食いこむほどに拳を握り、滴る血液に意にも介さず、虚空を見上げた。
「我々は、その惨状からなんとか逃げてきた……! この惨状を伝えるため、ガリロルザ国から一番近い、この町に。もう、他国などに助けを乞う猶予はない……。ここで戦士を集め、我が国に向かわなければ……いずれ……」
レオナルドは、深々と頭を下げた。一国の師団長が、見苦しくも庶民に跪く。
「我々はしばしの休養後、再びガリロルザへと応戦へ向かう。……頼む。……力を貸してくれ。我々と共に戦ってくれる勇気ある者は、二日後、この町の中央広場に集まってほしい。……報酬と名誉は、我が王の名において確約する。だが……生きて帰れる保証は、ない」
レオナルドは顔を上げ、血走った目で一同を見据える。
「……待っている」
それだけを言い残し、レオナルドはよろめく足取りで、片隅にある医療室の方角へと消えていった。
残されたギルド内には、鉛のように重い沈黙が広がっていた。誰もが視線を落とし、震える手で拳を握りしめている。
冒険者。それは国や、弱き庶民のために依頼をこなす勇敢なる存在。しかし、国家規模の戦争、それも魔王が相手となれば、それはただの自殺行為に近い。
「……帰るぞ」
ジンが短く告げ、踵を返した。
四人は無言のままギルドを出て、ギルドハウスへと戻った。
夜まで、各自は無言の時を過ごした。
ジンは一人でふて寝し、ナユは落ち着かない様子で魔導書を紡ぐ。マリナに至っては一度別れた後、夜までギルドハウスに戻ってこなかった。
その夜、いつもの温かな夕食の席には、鉛を飲み込んだような重苦しい空気が漂っていた。カトラリーが皿に当たる質素な音だけが響き、誰も口を開こうとしない。ナユが作った自慢の料理も、今日ばかりは砂を噛むような味気なさを感じさせていた。
しかしツルカは、半分も減っていない皿を見つめながら、決然と口を開いた。
「……僕、行くよ」
「はぁ!?」
その一言で、張り詰めていた空気が弾け飛んだ。
思わずジンが椅子を蹴って立ち上がる。
「お前、正気か!? 相手は伝説上の……あの、『四神魔界王』だぞ!? 国一つを相手にする戦争だ! 俺たちみたいな……昇格したばかりのBランク風情が足を踏み入れていい場所じゃねえ!」
「……ジンの言う通りだよ、ツルカちゃん」
ジンの言葉を受け、俯いていたナユが、顔面を蒼白に染めながら、震える唇を開いた。
「『四神魔界王』……。それは、単なる魔王じゃない。大魔王によって力と地位を与えられた……大魔王軍の最高戦力であり、『神』に等しい存在なの」
ナユの言葉に、ジンとマリナが息を呑む。
「このグランドシオルを創造した大いなる母。それを統治することを任された、母の子である四柱の神々……炎、水・氷、風、土の女神。伝説では、その女神様の力そのものを奪い取り、顕現したのが、四神魔界王だと言われているわ。あくまで、伝説ね……」
「神の……力……?」
「うん。だから四神魔界王は、魔法という理を超越した、純粋な『現象』を操る。……人間がどれだけ修行を積んでも到達できない……、そう、属性っていう概念を操るかのような存在だよ」
「そんなのを冒険者が相手だなんて……。Sランク冒険者ならともかく……いや、それでも単独での討伐はきっと不可能。不朽の栄光でも、太刀打ちできるか……それくらい強い魔族」
「そんな相手に、私たちが……勝てるわけがないよ……」
ナユの声が消え入るように小さくなる。
重苦しい沈黙が、食卓を支配した。
「なら、その上の大魔王はお話にならねえってことだな……」
「うん……。もはや、人類が相手できるわけないんだよ……」
「しかしよ、一体魔族は何を考えているんだ。いきなり、ガリロルザ国を攻め落とそうなんざ……」
「でも、地上との戦争は膠着していただけでしょ……。いつ暴れたっておかしくないし……」
「……大魔王グレイ。なぜ、魔界を統べる『大魔王軍』だけが、執拗に地上を襲うんだろう」
「確かにね……。他の魔王軍による地上侵略は、稀にしか聞かないよね」
考えても出てこない答え。魔族の考えることなど、人間に理解できるはずもなかった。
「……どちらにしても、行かなきゃいけない」
しかしツルカは、真っ直ぐに三人を見返す。その碧眼に迷いはなかった。
「何度も言うけど……僕には、記憶がない。自分が何者かも分からない。でも、心に残ってる『約束』があるんだ」
ツルカは胸に手を当てる。
そこには、マリアネから託された力と思いが静かに脈打っていた。
「……ある人がいたんだ。僕を暗闇から救い出してくれて、この世界を誰よりも愛していた人。……その人は、誰もが笑って暮らせる平和を望んでいた。……それなのに、あいつらが……魔王たちが、その想いを踏みにじろうとしてる」
ツルカの脳裏に、マリアネの寂しげな笑顔が浮かぶ。
「これは僕の勝手な事情だよ。……だから、みんなはここにいていい」
ツルカは、ジン、マリナ、ナユの顔を順に見つめ、意を決して告げた。
仲間を信じていないわけではない。ただ、今回ばかりは無責任な発言はできない。
「僕一人で行くよ。……みんなを、死なせたくないから」
そう言って、ツルカは席を立とうとしたその瞬間、ジンの拳がテーブルに叩きつけられた。
「……ふざけんな」
ジンは震える手でテーブルの端を握りしめていた。
凄まじい葛藤がそこにはあった。
行ってはいけない。関わってはいけない。
相手は古来より人類の敵、天災ごとき魔王だ。
行けば死ぬ。確実に死ぬ。
自分たちはまだ、ようやくBランクに手が届いたばかりの凡庸な冒険者に過ぎないのだから。
ここでツルカを見送れば、自分たちは助かる。平穏な日常に戻れる。
だが─────
「……一人で行かせるわけ、ねえだろ……」
ジンは顔を歪め、恐怖で頭がどうにかなりそうだった。
「怖いさ……っ。当たり前だろ。足が震えて止まらねえよ。……だけどな、ここで『はいそうですか』って見送って……もし後で、お前が死んだなんて聞かされたら、俺は一生、のうのうと生きた自分を呪うことになる……仲間を見殺しにしたことに……なる」
ジンは顔を上げ、ツルカを睨みつけた。その満面には、かつてない確固たる決意が込められていた。
「仲間が命懸けで行くって言ってんのに、尻尾巻いて逃げるような奴が……リーダーなんて名乗れるかよッ! 俺たちは『青嵐の翼』だ! 死ぬ時も一緒じゃなきゃ、チーム組んだ意味がねえだろうがッ! それが、『冒険者』ってやつだろ!?」
「……なら私も、行く」
マリナが静かに立ち上がり、大きく息を呑んだ。微かに手が震えているが、表情は努めて晴れやかだった。
「正直、足手まといになる確率の方が高いかも。……でも、ツルカちゃんの背中を守るくらいはできるはず。仲間を一人で行かせて自分だけ安全圏にいるなんて、嫌だから……!」
「わ、わわわ私も……!」
ナユも涙目で立ち上がり、恐怖で顔色は蒼白にしながらも、その瞳には強い意志が宿っていた。
「怖いけど……でも、ツルカちゃんがいなくなる方がもっとイヤ! 私、もっと強くなるって決めたもん! 少しでも……ツルカちゃんの力になりたい!」
三人の想いが言葉となって、ツルカの胸を打つ。
ジンたちは、まだ自分たちが無力であることをしっかりと自覚していた。それでもなお、仲間のために死地へ踏み込むことを選んだのだ。
これが、仲間。計算や損得を超えた、魂の結びつきだった。
《これが、生きることをやめない、諦めの悪い人間ですよ、マスター》
「……みんな……」
ツルカは唇を噛み締め、溢れそうになる涙をこらえた。
わがままだ。そんなわがままを仲間は受け入れようとしている。命すら天秤にかかっているというのに。
「……ありがとう……分かった! 一緒に行こう、僕たち『青嵐の翼』で……!」
ツルカは深く頷き、三人に向けて拳を突き出した。そして、互いに拳を突き合わせ、決断した。死にに行くのではない。生き残るために、冒険者として人々を守るために行くのだ。
────その翌日、ナドラナの町は早朝から異様な熱気に包まれていたが、『青嵐の翼』の面々はその喧騒を他所に、粛々と準備に奔走していた。先日昇格したばかりのBランク報酬や、これまでの冒険で蓄えた全財産を惜しげもなく放出していく。
武具店では、ジンが装備や愛剣のメンテナンス用品に加え、予備の短剣を複数購入していた。金貨が減ることへの未練など微塵もなく、ただ己と仲間の命を繋ぐための戦士の顔が、そこにはあった。
マリナは矢師の元を訪れ、通常の矢のみならず、ミスリル合金製の貫通矢など限界まで買い込んでいた。矢筒に入りきらない分は、布に包んで背嚢に詰め込む。
ナユは魔道具店にて、普段ならばショーケース越しに眺めることしか叶わなかった最高級の魔力回復薬や、即効性の治癒薬を棚の端から端まで指差して購入していた。
全ては、生き残るため。そして、勝ち残るために。死地へ赴くための備えを万全にした皆の背中には、もはや迷いなど存在しなかった。
前日の夜。
ジンが夜遅くまで剣を磨くが、その手元はいつまでたっても震えていた。
ナユは怖くて眠れず、気を紛らわせるかのように魔導書を開く。
マリナは矢を一本ずつ確認し、手入れを怠らなかった。
(……寝れないな)
ナユが魔導書を開く隣で、ツルカは静かにマリアネを思い出していた。
あの悲劇を二度と繰り返さない。大切なものを奪われたりはしない。
《おそらく……仲間の生存確率は低い。マスター、心の準備だけは……》
本当は置いていきたい。でも、仲間の覚悟を踏みにじることもできない。
アイナの静かな呟きに、ツルカは不安に駆られながらいつの間にか眠りについていた。




