28
「ジン、右! その岩の陰から回り込んで!」
「お、おう!」
ガリロルザ領ノリマルンナ地方、そのナドラナ近郊の薄暗い森林地帯にて。
鬱蒼と茂る木々の間を巨大な影が駆け抜ける。
『フォレスト・スパイダー』。体長三メートルを超える巨大な蜘蛛型の魔物だ。鋼鉄のように硬い甲殻と、粘着質の糸を吐き出す厄介な魔物である。
だが、その獰猛な捕食者は今、完全に翻弄されていた。
「マリナ、今だよ! 関節の継ぎ目を狙って!」
「了解……!」
ツルカの指示と同時に、マリナの矢が正確無比に放たれる。矢は蜘蛛の装甲の僅かな隙間を縫い、脚の関節部に深々と突き刺さった。
「ギチチッ!」
魔物が悲鳴を上げ、バランスを崩す。
「ナユ、火炎魔法で足止めを!」
「わかった! 【燃え盛れ、紅蓮の炎】……『火球』!」
ナユの放った火球が蜘蛛の足元で炸裂し、枯葉を燃え上がらせて炎の壁を作る。魔物は熱さにたじろぎ、退路を断たれた。
「ジン、今だよ! 眉間を一突き!」
「うおおおおおっ!」
炎の壁を突き破り、待っていたと言わんばかりにジンが躍り出る。
大剣が銀閃を描き、渾身の斬撃が動揺して動きの止まった蜘蛛の眉間へと振り下ろされた。硬い甲殻が砕ける音と共に、魔物は断末魔を上げて崩れ落ちた。
「……ふぅ。やったか」
ジンが剣を振って体液を払い、呼吸を整える。
マリナとナユも駆け寄り、動かなくなった巨大蜘蛛を確認して安堵の表情を浮かべた。
「すごい……。こんなにあっさり倒せるなんて」
「いつもなら、もっと泥沼の戦いになるのに……。ツルカちゃんの指示、完璧だったよ!」
三人の称賛の声が、少し離れた場所に立つツルカに投げられる。
ツルカは腕組みをし、満足げに頷いて見せた。
「うんうん。みんな、いい動きだったよ! 僕の読み通りだねっ!」
その姿は歴戦の将軍か、熟練のギルドリーダーのような風格さえ漂わせている。
だが、その内心では─────
《マスター、ドヤ顔するのは結構ですが、私の指示をそのままオウム返ししただけですよね。なに調子乗ってんすか、気持ち悪い》
(い、いいじゃん、結果オーライだよ! それに、僕が直接戦うと手加減が難しいから、こうやって指揮するのも立派な役割でしょ?)
《はあ、ものは言いようですね……。それにしても、彼らの連携は見事ですね。個々の能力はCランク相応ですが、チームワークに関してはBランク、いやAランクにも匹敵する潜在能力を秘めています。ランクアップも、そう遠くないのかもしれません》
(へえ、そうなんだ。やっぱり僕の目は確かだったね!)
《黙っとけ》
アイナの呆れ声を聞き流し、ツルカは意気揚々と仲間たちの元へ歩み寄る。
「それにしてもツルカ、お前すげえな。魔物の動きが手に取るように分かってたみたいだ。……あそこまで的確な指示が出せるなんて、魔法だけじゃなくて戦術眼も一流なのかよ」
「えへへ、まあね。伊達に記憶喪失してないよ!」
「記憶喪失は関係ないでしょ」
マリナが苦笑しながら弓を背にかける。
「でも、本当に助かった。ツルカちゃんがいると、すごく戦いやすい。……背中を預けられるって、こういうことなんだね」
「うんうん! 私、魔法を撃つタイミング、いつも迷っちゃうんだけど、ツルカちゃんが言ってくれるから迷わずに済んだよ!」
ナユが愛用の杖を抱きしめ、嬉しそうに破顔する。
「ささっ、素材を回収して帰ろう! 今日のご飯になりそうなものはあるかな~?」
「また飯の話かよ……」
ジンは呆れつつも、お金になりそうな蜘蛛の牙や毒腺を手際よく切り出し始めたのだった。
黄昏が迫るナドラナの町は、一日の労働を終えた人々の安堵感と、夜の帳が下りることへの期待感で活気を帯びていた。
そこへ四人──青嵐の翼がやってくる。石畳の道を歩きながら、ツルカたちは本日の成果について語り合う。
「フォレスト・スパイダーの素材、結構いい値がついたな。それに、クエスト達成の報酬もなかなかにいい。これでまた、しばらくは食い扶持に困らねえ」
「道具も買えるし、私の矢の補充もできる。ツルカちゃんのおかげだね」
「そんなことないよ~。みんなが頑張ったからさ!」
謙遜するツルカだが、その足取りは非常に軽かった。
「さて、と。ツルカ、今日は俺たちの根城……ギルドハウスに来てもらうぜ」
「待ってましたギルドハウス!」
気絶してからのツルカの容態が分からなかったため、ジンたちは念のため一週間分の部屋を借りていたらしい。その間はずっと宿暮らしだったため、ジンたちのギルドハウスに訪れることはなかった。
しかし、本日で貸し部屋の期間は終了し、ついにそのギルドハウスへ行くことになったのである。
「まあ、大層なもんじゃねえけどな。貧乏パーティなりの拠点さ」
ジンが案内したのは町の中心部から少し外れた、下町の一角だった。入り組んだ路地を抜け、古びた木造の集合住宅のような建物の前で足が止まる。二階建ての長屋で、外壁の塗装は所々剥げ落ちているが、入り口には綺麗に手入れされた花壇があり、生活感が漂っていた。
「ここが、『青嵐の翼』の本拠だ!」
ジンが誇らしげに親指で建物を指す。
「へえ~! なんか秘密基地みたいで楽しそう!」
「ふふ、中は狭いけど、落ち着くよ」
マリナが鍵を開け、中へと招き入れる。
室内は想像していたよりもずっと小奇麗だった。年季の入った床板は磨き込まれており、古びた家具も大切に使われていることが分かる。中央には四人が座れる大きさの木のテーブルがあり、奥には小さなキッチンが見えた。
「お邪魔しまーす!」
「どうぞどうぞ。適当に座ってて」
ナユが上着を脱ぎ、慣れた手つきでエプロンを着け始めた。
「今日は歓迎会も兼ねて、私が腕によりをかけちゃうからね!」
「おお! ナユの手料理! 楽しみ!」
「これでもナユは料理がうまいんだぜっ」
「へへっ、期待してて!」
ナユは台所へと向かい、あらかじめ市場で調達していた食材を並べ始めた。リズミカルな包丁の音が響き始めると、やがて食材が加熱される芳醇な香りが室内に充満していく。
リビングではジンとマリナ、そしてツルカがテーブルを囲んで座っていた。
「ふぅ……。落ち着くなぁ」
ツルカは背もたれに体を預け、天井を見上げる。
地下洞窟での過酷な日々、そして地上に出てからの怒涛の展開。こうして屋根の下で、仲間たちと何気ない時間を過ごすことが、どれほど贅沢なことか。
「ツルカ。お前、本当に記憶がないのか」
ジンが改めてツルカのことについて尋ねてきた。
「な、なんだよう。そんなに僕のこと聞いてどうするの」
「仲間だろ。お前のこと、まだそんなに知らねえしよ」
「うんうん。ツルカちゃんのこと、ちゃんと知っときたいし」
「……そうなんだ。うん、記憶は、ない……。昔のこととか、以前何してたのかも全く。気づいたら、よく分からない洞窟にいて……。自分の名前と……ちょっとした魔法の使い方くらいしか覚えてなくて」
「ふうん……」
ジンは気遣うように口出ししないが、マリナは興味深そうに身を乗り出す。
「でもさ、あの魔法……? 光の力だっけ。あれは本当に凄かったよ。ナユも言ってたけど、普通の魔法とは根本的に違う気がする」
「そう、かな。僕にはよく分かんないんだけど……」
《マスター。あまり詳細を語るのは得策ではありません。適当に誤魔化してください》
「……うん、なんかこう、ピンチになると勝手に出ちゃうんだよね! 火事場の馬鹿力みたいな?」
「……火事場の馬鹿力であの竜を消し飛ばす人間がいるかよ。実際に見たことねーけどよ、Sランク冒険者並みの威力あるんじゃねえか」
「んなわけ〜」
「……気楽だな」
ジンが頬杖をしながら、呆れたように突っ込む。
「でもまあ、お前がその力で俺たちを守ってくれたのは事実だ。……改めて、ありがとな、ツルカ」
「えへへ、どういたしまして!」
照れくさそうに鼻の下を擦るツルカを見て、マリナも穏やかな微笑を浮かべた。
「これからどうする。ツルカちゃんがギルドに入ってくれたおかげで、私たちもっと難しいクエストにも挑戦できると思うんだけど」
「そうだなぁ……だけど、死んだら元も子もないよね」
「それはそうだけど」
「うーん」
ツルカは腕組みをし、わざとらしく思索にふけるポーズをとった。
実のところ、アイナからは「目立ちすぎる行動は控えるように」と釘を刺されている。だが、冒険者として活動する以上、実績を積み重ねてランクを昇格させなければ、いつまでもCランクのままであり、報酬も上がらない。
「……とりあえずさ、目指せBランク! ってのはどう?」
「Bランク……か」
「ほーう。ジン、いいかもね」
「……悪くねえな! 俺たちの当面の目標はそこだったしな。ツルカがいれば、昇格も夢じゃねえかも」
「でしょ? Bランクになれば、報酬も増えるし、もっと美味しいもの食べられるし!」
「結局そこかよ!」
三人の間に笑い声が弾ける。
「でも、真面目な話、ツルカちゃんの指揮能力と戦闘力があれば、私たちはもっと上に行けると思う。……私、もっと色んな景色が見てみたい」
マリナが遠くの空を見つめるような眼差しで、両手を組みながら呟く。
「俺もだ。……いつかは、あの『不朽の栄光』みたいに、最強のギルドになってやるんだ」
ジンが拳を握りしめ、熱っぽく語る。
だが、ツルカはその言葉を聞いても、きょとんと首を傾げるだけであった。
「……ふきゅうの、えいこう? なにそれ、新しいお肉の部位?」
「「は?」」
ジンとマリナの声が完全に重なった。二人は完全に言葉を失い、目の前の少女を凝視する。
このグランドシオルにおいてその名を知らぬ者は、赤子か、よほどの世捨て人くらいのものだ。
「お前……本気で言ってるのか? 記憶喪失とはいえ……『不朽の栄光』すら知らねえのかよ!?」
「うん。初めて聞いた」
ツルカが悪びれもせず頷くと、ジンは頭を抱えて天を仰いだ。
《実際に一回、会ってますのにね》
(……うん?)
何のことかとツルカは本気で首をかしげる。
「マジかよ……。常識が欠落してやがる」
「悪口? 悪口か! 喧嘩かっ!?」
「ちげーよ! そう聞こえたんなら悪かったな!」
ツルカとジンの間に割り込むようにして、マリナは手で制した。
「ツルカちゃん。えっとね、『不朽の栄光』っていうのはグランドシオルの覇権国家、宗主国グランディール王国が公認する、世界最強の冒険者ギルドのことだよ」
マリナは呆れつつも、その常識を知らないツルカに、丁寧に解説を始める。
「メンバーはたった五人。リーダーである『光の使い』を筆頭に、五神の力を受け継ぐ聖人たちが集まっているの。数々の伝説的なクエストを達成し、世界の平和を守る象徴として、誰もが憧れる存在なんだよ。まさに、勇者パーティみたいな?」
「へぇ~、そうなんだ! すごい人たちなんだね!」
ツルカは感心したように手を叩くが、その反応はどこか他人事のようだ。
「すごいなんてもんじゃねえよ。……俺たち冒険者にとっちゃ、雲の上の存在だ。あいつらの足元に及ぶことさえ、一生かかっても無理かもしれねえ。……だが、目標は高く持つべきだろ?」
ジンは少し自嘲気味だったが、熱意だけは認められた。
ツルカはそんなジンの横顔をじっと見つめ、そしてニカっと笑った。
「大きく出たなー。でも、いいじゃん! なろうよ、世界一!」
「え?」
「その『不朽の栄光』って人たちが一番なら、僕たちがそれを追い越せばいいんだよ。世界一番のギルドになっちゃおう!」
あまりにも無邪気で、根拠のない自信。
だが、ツルカが言うと、それが本当に実現可能な未来のように思えて不思議だった。
「世界一ね~。ツルカちゃん、前向きだね~」
ナユも密かに料理をしながら、ツルカたちの話を聞いていた。
「世界一って……お前な」
呆れつつも、ジンの表情は満更でもなさそうだった。
「……へっ、言うだけならタダか。よし、決まりだ! まずは実績を積んで、ギルドの信用を勝ち取る。晴れてBランク冒険者になる! これが俺たち『青嵐の翼』の新たなる目標だ!」
「おー!」
三人が拳を突き上げ、気勢を上げたその時、大きなお盆を持ってナユがリビングに戻ってくる。
「お待たせー。ご飯できたよー!」
「まってましたー!」
湯気を立てる大皿料理が所狭しと並べられた。
厚切りの肉と野菜を煮込んだシチュー、香草をまぶして焼き上げた鶏肉、新鮮なサラダ、そして焼きたてのパン。
「わあぁぁっ! すっごい!」
ツルカは目を輝かせ、身を乗り出した。まるで獲物を狙う肉食獣のように、料理に釘付けになっている。先ほどの壮大な目標など、すでに湯気の向こうへと霞んでいるようだ。
「これ、全部ナユが作ったの!?」
「うん。今日は特別だから、ちょっと頑張っちゃった!」
「すげえな。店の料理より美味そうだ」
「さあさあ、冷めないうちに召し上がれ!」
四人は感謝を込めて手を合わせた。
「「「「いただきます!」」」」
同時に、ツルカは真っ先にシチューを一口啜った。
濃厚なミルクと野菜の甘み、そして肉の旨味が口いっぱいに広がる。冷えた体に染み渡るような、優しい味わいだった。
「……んん~っ! 美味しいぃぃぃ!」
ツルカは感嘆の声を上げ、スプーンを動かす手が止まらなくなっていた。
「このお肉も! 皮がパリパリで中はジューシー! ナユ、君は天才だっ! 僕の専属料理人にしよう」
「えへへ、そんなに褒められると照れちゃうなぁ」
ナユはくすぐったそうに身をよじり、エプロンの裾を指先でいじりながら、隠しきれない嬉しさをその顔いっぱいに広げた。
「ナユの料理は、俺たちの数少ない自慢の一つだからな。冒険先での野営飯も美味いが、やっぱこうして家で食うのが一番だ」
「そうだね。……ツルカちゃんも、これからは毎日食べられるよ」
「やったー! 僕、このギルドに入って本当によかった!」
ツルカは口いっぱいに頬張りながら、幸せそうに笑う。
《よかったですね、マスター。栄養バランスも完璧です。専属シェフを確保できたことは、戦略的にも大きな利益と言えるでしょう》
(アイナさん、言い方……。でも、本当に美味しい!)
食事の間も、会話は尽きない。
ジンが過去に失敗したドジなエピソードをマリナが暴露し、ナユが慌ててフォローし、ツルカがそれを聞いて大笑いする。
ツルカもかつて地下で巨兵と戦った時の話を披露し、三人を驚かせた。
「へえ、そんな強そうなゴーレムをワンパンで!?」
「うん! こう、ドーンって」
「さすがツルカちゃん……。私たちの常識が通用しないね」
夜は刻々と更けていく。窓の外からは、虫の音が聞こえてくる。質素なギルドハウスの灯りは、夜の闇の中で小さく輝いていた。
「ごちそうさまでした!」
ツルカが満足げに手を合わせ、ナユに大きく笑いかけた。皿の上は、ソースの一滴まで綺麗に平らげられていた。
「お粗末さまでした! いっぱい食べてくれて嬉しかったよ」
「片付けは俺たちがやるから、ナユは休んでてくれ」
ジンとマリナが食器を片付け始める。
ツルカも手伝おうとしたが、今日は主役だからと止められ、言葉に甘えて、椅子に座ってお腹をさすっていた。
「ねえ、みんな」
ツルカは仲間の顔を交互に見つめながら、真剣な表情で立ち上がった。
「ん?」
「これから、よろしくね。……僕、頑張るから」
「ああ。こちらこそな」
「頼りにしてるよ、ツルカちゃん」
「一緒に頑張ろうね!」
豪快な笑みを浮かべて頷くジン、慈愛に満ちた眼差しを向けるマリナ、そして花が咲いたような無邪気な破顔を見せるナユ。三者三様の等しく温かな笑顔が、ランプの揺らめく灯火に照らされて浮かび上がった。
だが、ツルカの脳裏を過るのは、マリアネだった。
大切にしたかった存在を失ってしまったこと。そして、自身の中で軋み合う、光と闇という相反する二律背反の力。列挙すれば枚挙にいとまがないほどの懸念が、ツルカの心に澱のように沈殿していた。
しかし今だけは、ツルカは雑念を意識の外へと追いやった。今はただ、この温もりあるジンたちの空間に、全存在を委ねていたいと切に希求したのである。
─────こうして弱小ギルド『青嵐の翼』に、運命を変える新たな風が吹き込んだ。
現時点においては、それは路地裏を吹き抜ける一陣のつむじ風に過ぎないだろう。しかし、その風がやがて世界を巻き込み、歴史さえも改変するほどの巨大な嵐へと成長していく未来を……この場にいる誰一人として予見できてはいなかった。
「幸せになれ、光の子」
それはギルドハウスの外。窓明りを見つめて優しく微笑む老人──ホレイだけが、ツルカの人生を見透かしているようだった。




