26
ドルナーシャが吹雪のように去り、さらに大魔王グレイも闇の深淵へと溶けるように姿を消した後、主を失った玉座の間には四神魔界王たちだけが取り残された。
張り詰めた緊張感が霧散し、重苦しい空気が四人の間に漂っている。
「……はぁ。やっと、空気が吸える」
真っ先に沈黙を破ったのはガインナーだった。
大げさに息を吐き出し、緊張で凝り固まっていた肩を回す。
「大魔王様とドルナーシャ様の威圧合戦……。寿命が縮むかと思ったよ。ねえ、ドマンナ」
ガインナーは隣に立つドマンナに視線を向ける。
ドマンナは魔杖を支えにしながら俯いていた。先ほどのマリアネ消失の凶報を聞いた瞬間から、ドマンナの表情は凍りついたままである。
「……マリアネ」
ドマンナが消え入るような声で呟く。
「……消えたって、どういうことなの。……マリアネは、深淵の狭間に監禁されたはずなのに……命は、助かったはずなのに……」
「……ふん。光の子の仕業だろ。殺されたなら、手間が省けていいじゃねえか」
バリオンが苛立ちを隠そうともせずに吐き捨てる。バリオンの全身からは未だ熱波が止まず、ドルナーシャへの鬱憤が燻り続けていた。
「あの出来損ないが。魔界王第二位なんて大層な座にいながら、何一つ役に立たなかったゴミだ。消えたのなら好都合。最初から最後まで、魔界の面汚しだったってことだろ」
その心ない言葉が、ドマンナの琴線に触れた。握りしめていた巨大な杖が、ミシリと音を立てて凍結していく。
ドマンナの足元から広がる怒りの冷気は、ドルナーシャのものとは異なり、静かで、どこまでも深く沈んでいくような陰湿な冷たさを帯びていた。
「……光の子」
ドマンナが呪詛のようにその名を反芻する。
「……その『光の子』が、マリアネを……殺したの? あの子を……奪ったの?」
うつむいた顔。前髪の隙間から覗く瞳には、昏い憎悪が渦巻いていた。普段の穏やかな書庫の司書のような雰囲気は消え失せ、そこには親友を奪われた魔王としての、計り知れない殺意だけが存在していた。
「……許さない。もし本当にそうなら……私が、この手で……」
ドマンナの周囲の大気が凍りつき、瞳が妖しく光る。
「……その魂ごと、永遠の氷獄に閉じ込めて、砕いてやる」
「おいおい、怖いねぇ」
バリオンは鼻で嘲笑するが、ドマンナの威圧に少し肩をすくめた。
「まあ、マリアネが消えた事実は変わらねえ。優しさだの何だの言っていたが、結局は弱かったから死んだんだ。……知らねえけど。戦えねえ魔王なんざ、ただの飾り以下だ」
「……なんてこと言うの」
ドマンナは涙を流しながらバリオンを睨み上げる。
「……バリオンは、何も分かってない。マリアネが、どれだけ苦しんでたか。……人間を殺せと命じられた時、あの子がどれだけ自分を責めていたか……」
「だ か ら、それが甘えだって言ってんだよッ!」
バリオンが声を荒らげ、足元の石床を焦がす。
「人間なんざ、餌か玩具だろ。殺して何が悪い。……マリアネの奴は、その根本的なところで狂ってやがったんだ。人間と仲良くしたいだの、共存したいだの……反吐が出るぜ」
「そこらで黙れ」
その言葉に、それまで彫像のように沈黙を守っていたシバニーが割って入る。
「個人の感情論はそこまでだ。今は、現状の分析が先決だろう」
シバニーは腕を組み、顔を覆う布越しに鋭利な視線を巡らせる。
「マリアネの消失。そして、ドルナーシャの離反。……そして光の子。この三つは、我々にとっても看過できない事態だ」
「……確かにねぇ」
ガインナーが、軽い調子で同意を示す。
「ドルナーシャの怒りっぷり、マジだったし。……あの様子じゃ、本当に反乱起こしかねないよ」
「起こさせればいい。その時は、俺がこの手で灰にしてやる」
バリオンが拳を打ち合わせ、乾いた音を鳴らす。
「問題は、その引き金になった『ヒナ=ノーノン』だ」
シバニーが首を回しながら、忌々しげにその名を口にした。
「……元『天下の六柱』。人間側の最強戦力の一角。……それが、なぜ大魔王様の直轄下で動いている? しかも、あの魔法人形を率いて」
「魔法人形、か……。さあな。その任務を聞いた俺は、ただ大魔王様の命令に従っただけだ」
瞬時に、バリオンの顔面が露骨な不快感に塗れた。
「あの『魔操使』が作った、気色の悪い人形兵器ども。……大魔王様は、どうしてあんな得体の知れない夜魔将官連中を重用なさるんだ? 俺たち四神魔界王がいれば、人間界の制圧など造作もないだろうに」
「……同感だ」
シバニーが重々しく頷き、思考を巡らせる。
「夜魔将官……。奴らは、我々魔王とは違う。奴らは……別の『理』で動いているように見える。……その一つとして、あの『魔操使』。奴は表では良いように見せているが……」
「……うん、確かに」
ガインナーが心底嫌そうに顔をしかめ、吐き気を催したような仕草を見せた。
「────あの偽善者」
その単語が玉座の間の冷たい空気に重く澱む。
「奴の表の顔は、人間界の魔法大国『ダマユナセール』における、魔法道具最高研究者。……便利な生活魔道具を次々と発明し、人々の生活を豊かにする『聖人』として崇められている。だが、その裏では……拉致した人間や亜人を素材に、生体兵器やらを製造している。人々の笑顔を守るふりをしながら、その陰で人々を切り刻み、魂を冒涜する実験を繰り返す……。さらには人間の味方につくような所業……『対魔王兵器』とやらにも、手を付けているのだとか。まさに『偽善者』の名に相応しい外道だ」
「……気に入らねえ」
バリオンが床を焦がすほどの熱気を放ちながら唸る。
「俺たちは魔族だ。人間を殺す時は、正面から堂々と殺す。……だが、あいつらは違う。仮面を被り、信頼させてから背中を刺す。……あんな陰湿なやり口、俺たちの美学に反するぜ」
「美学……そんなのあるんだ」
四神魔界王たちは夜魔将官という組織に対して、一様に不信感と嫌悪感を抱いていた。
夜魔将官は魔族ですらない。根本から得体のしれない存在。だからこそ、搦手や欺瞞、そして倫理を逸脱した歪な目的で動く夜魔将官を本能的に忌避していた。
「……それに、ヒナだ」
バリオンがさらに声を低くし、嫌悪感を露わにする。
「……強いとて、あいつは人間だ。いくらドルナーシャの養子だからって、人間を魔王軍の幹部扱いなんて、俺は認めねえ。……人間は、殺すか、従わせるかだ。仲間になんざ、なりえねえんだよ」
「……でも、大魔王様が認めてるんだから、仕方ないじゃない」
ドマンナが涙を拭いながら、消え入りそうな声で呟く。
人間と関わりを持ってはならない。その掟を破るかのようなグレーな位置で、ヒナは魔族と共存している。
「ヒナちゃんの強さは本物だよ。……ヒナちゃんと本気でやり合ったら、怪我じゃ済まないかも」
「強さは知ってんだよ。気に入らねえ」
バリオンは舌打ちし、話題を変えるように視線を玉座のあった場所へと向ける。
「……それより、だ。大魔王様が言っていた『鍵』。……あれは、何だ?」
その問いに、場が再び静まり返る。
誰も、明確な答えを持ち合わせていなかった。
「……光の子の中に宿る『何か』。聞いたところ、光の子に力を貸している存在……か?」
シバニーが断片的な情報から推測を立てる。
「『鍵』……。大魔王様や夜魔将官たちは、その言葉を頻繁に口にする。……だが、我々にはその詳細は一切知らされていない」
「……私たちは、信頼されていないのかな」
ガインナーが珍しく真面目な顔で疑問を浮かべていた。
「……きっと違うよ」
ドマンナが緩やかに首を振り、ガインナーを見つめる。
「信頼とか、そういう次元の話じゃないと思う。……大魔王様が見ているのは、もっと先……。私たち魔王ですら理解できない、遥か高みの『計画』……」
ドマンナの脳裏に、先ほどグレイが放った言葉が蘇る。『マリアネの闇』、『光の子』、『七光玉』。
それらが揃った時、何が起きるのか。四神魔界王には、その壮大すぎる全体像が全く見えていなかった。
「……計画、か。俺たちに隠して、夜魔将官とコソコソ進めている何か」
「……だが、命令は絶対だ」
シバニーが冷徹に告げ、改めて四神魔界王としての立場を自覚する。
「我々は四神魔界王。大魔王様の手足となり、敵を滅ぼす矛だ。……理由など、知る必要はないのかもしれん」
「……つまんないの」
ガインナーが口を尖らせ、大きく背伸びする。
「まあ、いいや。……それで。光の子って、そんなにヤバいの?」
話題は最大の懸念事項へと移る。
『光の子』。魔族にとって、それは忌むべき伝承の中の存在だった。
「……『光の使者』。人間界の英雄たち」
シバニーが教科書を読み上げるように語る。
「奴らは神々の加護を受け、我ら闇の種族──魔族に対抗する力を与えられた者たちと言われている。……だが、『光の子』は違う。奴は……神そのものの『力』を宿したとされる、完璧たる神性。伝承では、いつしかグランドシオルに降り立つその光は、いずれ蔓延る全ての闇を払拭すると、な」
「……へぇ。面白え」
バリオンが獰猛に笑いながら、殺意が帯びた瞳を光らせる。
「マリアネの封印を解き、大魔王様から逃げ延びたってことは、それなりにやるんだろうな。……俺が、消し炭にしてやるよ」
「……油断は禁物だよ、バリオン。光の力は、私たちの根本的な力である闇を浄化する。……相性が最悪なの。真正面からぶつかれば、いくらバリオンでも……」
「はんっ。俺の炎で焼き尽くせねえもんなどねえよ。光だろうが何だろうが、燃やし尽くしてやる」
バリオンの全身から再び炎が噴き上がる。
「それに、俺には任務がある」
「……『七光玉』、だったな」
シバニーがため息混じりにそう言うと、バリオンは表情を歪めて拳を握る。
「ガリロルザ国。……あそこは、俺の獲物だ。ヒナなんぞに横取りさせてたまるか」
「大魔王様が欲している、伝説の宝玉。……それが、ガリロルザにあるとな」
「ああ。……俺たちの認識じゃ、七光玉はただの強大な魔力の塊だ。……だが、大魔王様があそこまで執着するってことは、何か別の使い道があるんだろうぜ」
「……強大な力の源」
ガインナーが目を輝かせながら、虚空を見上げる。
「へえ、なんか凄そう! それがあれば、私たち、もっと強くなれるのかな?」
「……かもしれん。あるいは、世界の理にも干渉する、とんでもない代物か……」
シバニーの言葉に、全員が黙り込む。
大魔王の計画。神器。光の子。そして七光玉。全てのピースが、不気味な絵を描き出そうとしている。
「……考えるのはやめだ」
バリオンが思考を止め、玉座の出口へと踵を返す。
「俺は、ガリロルザへ戻る。ヒナの好きにはさせねえし、魔操使の実験場にされるのも気に食わねえ。……あそこを俺の支配下に変え、七光玉を手に入れ、大魔王様に献上する。それが俺の仕事だ」
「……気をつけてね、バリオン」
ドマンナが心配そうにバリオンを見据える。
「ガリロルザ国には魔操使の厳重な結界が張られてるって聞いてる。情報を遮断しているらしいけど、もしかしたらすでに不朽の栄光も、動いているかもしれないよ。……特に、あの国には」
「分かってる。……『武道覇者』ガリロルザ王だろ。どんなもんか相手してやるよ」
「うん……。現代の地上人は凄まじい成長を遂げているらしい。いつしか、魔族を凌ぐのかも……」
「ははっ、馬鹿らしい。あり得ん」
バリオンは不敵な笑みを残し、徐に歩き出す。
「……さて。俺たちも戻るとしよう」
シバニーが、ガインナーとドマンナを促す。
「それぞれの領地で、備えをしておく必要がある。……世界が、大きく動き出す予感がする」
「うん……。そうだね」
ドマンナはもう一度だけ、マリアネがいたはずの虚空を見つめた。
本来なら玉座の真横に佇んでいたはずのマリアネ。今となっては、虚無そのものだった。
「マリアネ……。あなたは今、どこにいるの……。生きているのなら……どうか、無事でいて……」
祈りにも似た思いを胸に、ドマンナは玉座の間を後にした。
後に残されたのは、冷え切った空気と、深淵なる闇の沈黙だけであった。




