25
「マリアネが消えただと!?」
突然、張り上げられた声が、広大な玉座の間に冷たく反響した。激情に呼応するように、その足元から絶対零度の冷気が波紋となって広がり、磨き上げられた黒曜石の床を瞬く間に凍てつかせていく。
氷河の女王──ドルナーシャの蒼い瞳は限界まで見開かれ、玉座の深淵に沈む大魔王──グレイを射抜くように見据えていた。
大魔王グレイが鎮座するその玉座付近には、主を守護するように『四神魔界王』が全員集結していた。
玉座の右翼には、炎を纏うバリオン、顔を厚い布で覆ったシバニー。
左翼には、快活そうなガインナー。そしてその隣には、眉をひそめるドマンナが控えていた。
「マリアネが……消えた……?」
普段の無防備な寝間着姿とは一変し、今のドマンナは魔王としての威厳に満ちた蒼白の戦装束を纏い、手には身の丈を超える巨大な魔杖が握られていた。
透き通るような純白の肌は、冷徹な美しさをいっそう際立たせ、幾重にも重なるフリルは、氷の刃のように鋭利な輝きを放ち、要所を覆う白銀の防具が彼女の華奢な身体を堅牢に守護している。
背後で揺れる淡い水色の長髪は、凍てつく冷気を帯びてなお、水のような滑らかさを失っていない。その双眸の上では、氷晶を象った繊細な髪飾りが、静かに魔力の脈動を伝えて輝いていた。
だが、その威厳たる姿が一瞬にして崩れるようにして、ドルナーシャの言葉を耳にした瞬間、ドマンナの表情は凍りついた。
マリアネ──誰よりも慈悲深く、そして誰よりも魔王という座に不向きであったドマンナの親友だ。
ドマンナは震える指先で魔杖の柄を強く握りしめた。
「……ああ。消えた。完全に、な」
グレイの声はどこか乾いた響きを帯びていた。
「貴様……。どういうことだ」
ドルナーシャが一歩、玉座へと歩み寄る度に、周囲の大気が軋みを上げて凍結し、微細な氷の結晶が舞い散る。
「マリアネは、グランドシオルの地下で厳重に封じていたはずだ。脱出など、物理的にも魔法的にも不可能なはず……。それが、どうして消えるなどという事態になる」
ドルナーシャの鋭い追及に、グレイは億劫そうに片手を振った。何もない空間に、魔力による映像が投影される。それは、かつてマリアネが封印されていた地下の部屋。今は天井が崩落し、無残な瓦礫の山と化した廃墟の光景だった。
「封印区画にてマリアネの反応を感知した。……我自ら駆けつけた時、そこにはやはり、解放されたマリアネと、一人の『侵入者』がいた」
「侵入者……、それが……」
「……『光の子』だ」
グレイが吐き捨てるように告げた名に、四神魔界王たちにも動揺が走る。
光の子──それは魔族にとって看過できない脅威。
「光の子は、あろうことかマリアネの封印を解き放っていた。……我は即座に排除を試みたが、奴は奇妙な術を行使した。奴の内に宿る……おそらくは『鍵』の力を用いて、マリアネを強制的に空間転移させたのだ」
「強制転移だと……。お前の目の前でか」
「……不覚を取ったのは認めよう。奴はマリアネを逃した後、単身で我に挑んできた。未熟ながらも規格外の『光』の力……。奴を仕留め損ね、地層の彼方へと逃げられた」
グレイは鬱陶しそうに玉座の肘掛けを指で叩いた。
硬質な音が、グレイの怒りを表すかのように広間に響く。
「だが、問題はその先だ。転移したマリアネの反応を追跡しようとしたが……その痕跡は、グランドシオルの地表付近で完全に消失した。……死んだのか、あるいは何らかの手段で存在を隠蔽したのか。今のところ、マリアネの生体反応は、この世のどこからも感知できん」
「それは、お前のせいでもあるのでは。なにせ、マリアネの性格だ。何らかの理由で、お前に楯突いた──────」
「黙れ、下人の分際で」
玉座の間を重苦しい沈黙が支配した。その中で、ドマンナの小さく息を呑む音が、痛いほど響いた。
ドルナーシャはグレイの言葉を咀嚼し、そして口元を冷ややかに歪めた。
「……傑作だな、グレイ」
その声音には、隠しきれない嘲笑の色が滲んでいた。
「お前が長い時をかけて準備し、その器としてマリアネを選び、育て上げ、そして管理していた『四封の暗黒』……。異例の接近、異例の接触。それを、まんまと覚醒したばかりの光の子に掠め取られ、行方知れずになったというわけか」
ドルナーシャは内心で快哉を叫んでいた。
これは、好機だった。
グレイの計画の根幹である『四封の暗黒』。それが失われたとなれば、『壮大なる計画』の進行は大きく揺らぐ。
マリアネの安否は不明だが、少なくともグレイの手元にはない。それは反逆の機会を虎視眈々と狙うドルナーシャにとって、願ってもない盤面の乱れであった。
「……何の笑みだ、ドルナーシャ」
グレイの瞳が赤く明滅し、空間の重力が増大した。
バリオンが舌打ちし、シバニーが眉をひそめる中、ドルナーシャだけはその圧力を涼しい顔で受け流す。
「笑わずにはいられぬだろう。全知全能を気取る大魔王様が、目覚めたばかりの『光の子』ごときに足元を掬われたのだからな。……それで、計画はどうするつもりだ? 『鍵』を失ったままでは、『壮大なる計画』の進行など……ましてや、貴様の悲願である『絶対神』様の見返りなど夢のまた夢だろう」
挑発的なドルナーシャの言葉に、グレイは静かに視線を逸らした。
「計画に修正は必要だが、破綻したわけではない。我々には、まだやるべきことがある」
「ほう?」
「『七光玉』だ」
グレイの口から出た単語に、ドルナーシャの目が細められる。
大いなる母が残した遺物であり、強大な神力の結晶。
「マリアネの暗黒が失われた今、計画は別視点から始める。いずれにせよ、計画にはあの宝玉の力が不可欠。それから集める。そして、その所在の一つはすでに判明している」
グレイは玉座から立ち上がり、虚空にグランドシオル全図を投影した。
それは東の大陸の北端、獣人が治める大国──『ガリロルザ』を示していた。
「ガリロルザ。あの獣人どもの王城に、七光玉の一つが秘匿されている。まずは、そこを攻め落とす」
「……それで」
ドルナーシャは訝しげに問う。
ガリロルザ領は、本来ならば四神魔界王バリオンの監視下領域だ。
「すでに手は打ってある。……『夜魔将官』との協力のもと、別動隊を派遣した」
「夜魔将官……か」
ドルナーシャは協力者の顔を思い浮かべながら、あえて侮蔑を込めてグレイを見上げる。
「奴らを信用しているのか。あの中には、我々に従順でない輩も多いと聞くがな」
「ふん、信用などしていない。利用しているだけだ。……奴らの一人『魔操使』が繰り出す兵器と、そして我が配下の精鋭……、それらを指揮する幹部として、適任者を送った」
グレイはドルナーシャの蒼い瞳を真っ直ぐに見据え、不敵な笑みを浮かべた。
「ヒナ=ノーノンだ」
その名が告げられた刹那、ドルナーシャの思考は空白に染め上げられた。
「……ヒナを、ガリロルザへの戦争へか」
ドルナーシャの声は驚くほどに静謐であった。
だが、その静けさは嵐の前の無風状態に似て、触れれば凍りつくように、危険な冷気を孕んでいた。
「なるほど、随分と余裕がないようだな、グレイ」
「……なに」
「マリアネという器を失った穴埋めに、私の娘を使い潰すつもりか。大魔王ともあろう者が、随分と安直で浅ましい手を打つものだ」
ドルナーシャは口端を吊り上げて冷笑した。
それは明確な侮蔑を孕んだ挑発だった。
「貴様ッ……!」
主への冒涜に激昂したバリオンが踏み出すよりも早く、玉座の間全体が震えを上げた。
「ッ!」
岩盤が砕けるような轟音が鳴り響くと、ドルナーシャの足元から、冷気が爆発的に膨張する。
対して、グレイも無言のまま魔力を解放した。玉座から溢れ出したのは、万物を圧し潰すかのような漆黒の重力波。
互いの極大魔力が、玉座と回廊の中心で正面から衝突した。凄まじい衝撃波とともに、強固な黒曜石の床が、いとも簡単に砕け散る。
空間そのものが歪曲し、ドマンナやガインナーですらその余波だけで吹き飛ばされそうになり、必死に柱にしがみついて耐えるしかない。
「……口を慎め、ドルナーシャ。我の前で、その減らず口がいつまで利けると思うなよ」
グレイの瞳が赤く発光し、重圧が一層強まる。
だが、ドルナーシャはその圧力を正面から受け止め、防壁すら展開することなく、ただ冷ややかな笑みで対抗した。
「なら、塞いでみせろ。ヒナの管轄が貴様にあることは認めよう。だが、私になんの報告もなく、国家規模の戦争に投入するなど、許し難いな。随分と、私を軽く見てくれたものだ。ただでさえ、難航中である血液サンプルの任務があるというのに……何を考えている」
「当たり前だろう。お前に関係がないものな。おお、そういえば。ちょうどガリロルザには、お前が娘呼ばわりしているヒナの仲間であった『天下の六柱』が、一人いるらしいが。一体、どうなるのだろうな」
「ふざけるなよ」
ドルナーシャの背後に、数千にも及ぶ氷の槍が出現する。それらは全て、殺意を持ってグレイへと切っ先を向けていた。
「……いい加減にしろよ、ドルナーシャァッ!」
二人の魔力が拮抗するその僅かな隙間に、爆発的な熱波が割り込んだ。
バリオンである。
二人の威圧に肌を焼かれながらも、全身から紅蓮の業火を噴き上げ、ドルナーシャの前に立ちはだかった。その焦げ茶色の髪は逆立ち、瞳孔は針のように細まり、氷河の女王を激しく睨み据えている。
「大魔王様の御前だぞッ! その切っ先をどこに向けてやがる。万死に値する狼藉だッ!」
「どけ、バリオン。飼い犬ごときが、会話に割り込むな」
「テメェ……ッ! 主に牙を剥く反逆者は、この俺が骨の髄まで焼き尽くしてやる!」
バリオンが咆哮すると、渦巻く炎が巨大な龍の顎の形を成し、ドルナーシャへと食らいつこうとする。
だが、ドルナーシャは視線すら向けない。ただ指先を軽く振るっただけで、絶対零度の冷気が炎の龍を瞬時に凍結させ、跡形もなく粉砕した。
「邪魔だと言っている」
「ぐ……ッ!?」
格の違いを見せつけられ、バリオンが後退る。
ドルナーシャは再びグレイと対峙するが、グレイはどこか気だるそうだ。
「……ふん。興が削がれた」
グレイはふいに魔力を霧散させ、つまらなそうに頬杖をついた。
「やめよ。……城が崩れる」
その一言で、玉座の間を支配していた圧力が消え失せた。
ドルナーシャもまた、氷の槍を霧散させる。
今ここで本気でやり合えば、ヒナを救うどころか魔界そのものが消し飛びかねない。
「……くだらぬ。貴様、何を考えている」
「ヒナは優秀だ。だからこそ使った。……それに、彼女自身も承諾したことだ」
「嘘を吐くな。あの子がそんな任務を望むわけがない。……私を理由に、あの子が断れぬ何かを吹き込んだのだろう」
図星を突かれ、グレイは密かに口角を上げた。
「……彼女は賢い。そして、なによりもお前を慕っている。……だからこそ、お前のために自ら泥を被る道を選んだのだ。美しい親子愛ではないか」
「……下衆が」
ドルナーシャは短く吐き捨て、こめかみに指を当てて、凍てつく吐息を一つ漏らした。
ここで感情を爆発させるのは得策ではない。ドルナーシャは奥歯を噛み締め、その屈辱を腹の底に押し込めた。
「……この借りは、必ず返してやる。……ヒナに何かあれば、その時は魔界全土を凍てつかせてでも償わせるぞ」
ドルナーシャは鋭い瞳でグレイを睨みつけると、素早く踵を返した。
「……失礼する」
それだけを言い残し、ドルナーシャは雪のようにその場から消散した。
「……くそがッ。目に余る態度だ……」
バリオンが苛立ちながら、ドルナーシャが消えていく姿を一瞥する。その体には凍傷の痕が残り、まるで自身の灼熱に焼かれたかのように染みた。
「大魔王様。よろしかったのですか。あそこまで増長させて。奴の反逆心は、もはや隠そうともしていない」
「構わん……」
グレイは再び玉座に深く沈み込み、全身から力を抜いた。
「反逆するならすればいい。それもまた一興。……それに、ヒナがガリロルザにいる限り、ドルナーシャは動けん。飼い犬の首輪は、きつく締めておくものだ」
グレイは虚空を見つめる。
その瞳にはドルナーシャへの興味などなく、遥か彼方───見えざる『光の子』の影を追っているようだった。
「ふん、面白くなってきたではないか。いつまで逃げられるか、『光の子』。いずれ、必ずこの手で始末してやる」
大魔王の低く、昏い笑い声が、四神魔界王たちが傅く玉座の間にいつまでも反響していた。
一方、玉座の間を出たドルナーシャは、怒りで震える体を必死に抑えながら廊下を歩いていた。すれ違う魔族の兵士たちが、ドルナーシャの放つ殺気じみた冷気に怯え、道を開けていく。
「……おのれ、グレイ……! ヒナを……私の大事な娘を……手駒扱いしおって……!」
ドルナーシャの脳裏に、ヒナの笑顔が浮かぶ。
血の繋がりこそないが、誰よりも大切に育ててきた娘。その彼女が今、たった一人で過酷な戦場に立たされている。それも、自分のことを思って。
「ヒナ……私はお前に戦ってほしいわけじゃない……。お前がグレイの命令を聞いて命を削っても、嬉しくない。私は……お前にただ笑っていてほしいだけなんだ……!」
ドルナーシャは回廊の窓辺で歩みを止め、硝子越しに広がる鉛色の虚空をただ静かに見上げた。
(……チルノーヤ。聞こえているか)
ドルナーシャは魔力によって自身の精神領域を拡張する。物理的な距離を無視し、思考を伝達する心話魔法を介して、遥か彼方の協力者の意識へと呼びかけた。
『───おや、どうされました? 女王陛下。随分とご立腹のようですが』
すぐに、あの軽薄な青年の声が脳内に響いた。
(……ガリロルザへ向かう。力を貸せ)
『ほう……。というと、そちらでもヒナの事を』
(……七星賢者から聞いたか)
『ええ、昨日に賢者セレスからお聞きしました』
(なら話は早い。これ以上、ヒナに負担をさせるわけにはいかぬ)
『……へえ。まあ、俺としてもあの『魔操使』が好き放題するのは癪ですし。……承知しました。微力ながら、手を貸しましょう』
チルノーヤの言葉に、ドルナーシャは少しだけ表情を緩めた。
(……ガリロルザに集合だ。まずは様子見する。お前は、そのまま徒歩でいけ。ナドラナからはまだ近いだろう。私も転移ゲートを通って、ガリロルザ領に近いところまで行く)
『そんな殺生な。歩くって……一週間はかかりますよ。馬車でも──────』
ドルナーシャは聞く耳を持たずに、チルノーヤとの会話を止めた。そして、遥か彼方の空を射抜くように、その蒼穹の瞳を鋭く細める。
「ヒナ……お前を苦しめて、本当にすまない。私が、お前を育てなければ……」
娘を護り抜くためならば、魔界の全てを敵に回しても構わない。ドルナーシャが唯一、命を賭けても守りたい存在だった。
「待っていろ、ヒナ。……出来損ないの母が、必ずいつか、お前を笑わせる人生にしてみせる」




