22
ナドラナ町の中心部。ギルド通りの喧騒から一本外れた石畳の路地に、その古風な喫茶店はひっそりと存在していた。
使い込まれたオーク材の扉を開ければ、来客を告げる真鍮の鈴が澄んだ音を立てる。店内は昼下がりの喧騒が嘘のように、上品な紅茶の香りと振り子時計の穏やかな音だけが流れていた。空間そのものにかけられた魔法か、魔力によって外界の雑音を完全に遮断し、クラシック音楽だけが、この場を満たしていた。
陽光がレースのカーテン越しに柔らかく差し込む窓際の特等席にて、二人の人物がチェス盤を挟んで向かい合っていた。
一人は先日、ツルカに金貨を渡したあのまん丸の老人。
星と月の刺繍が施された派手な紫色のローブを纏い、その球体のような体躯に不釣り合いなほどの巨大な杖を傍らに立てかけている。
そして、その向かいに座る男──チルノーヤだった。
魔城国での軍服姿とは異なり、グランドシオルの貴族が身につけているような仕立ての良い黒いシャツとベストという、場をわきまえた姿をしていた。黄土色の長髪は、今は解かれて背中に流されている。
「ふぅむ」
チルノーヤが白いナイトの駒を優雅につまみ上げる。その指先は、まるでピアニストのようにしなやかだった。
駒が盤に着地し、乾いた音を立てる。
「……これでチェックメイト、ですよ。ホレイ様。あなたのキングは、もうどこにも逃げられません」
チルノーヤは冷徹な笑みを老人──ホレイに浮かべた。
「ホー、ホッホ。そう急くものではないぞ、『紳士』殿。油断は禁物。夜魔将官らはそんな甘い戦いをするのかえ?」
「言ってくれるねぇ」
チルノーヤ──いや、夜魔将官の一人『紳士』は、未だ不敵な笑みを貼り付けている。
「盤上の戦いというのは、いつだって、最後の最後まで分からぬものじゃ」
ホレイはそう言うと、持っていた白のビショップの駒を盤には置かず、ふと、窓の外──ナドラナの北西に位置する山岳地帯の方角へと視線を向けた。その人懐っこい瞳が一瞬だけ、この世の全てを見通すかのように細められた。ホレイの視線は喫茶店の壁も、ナドラナの町並みも、その先の森や山々さえも透過し、遥か彼方で起きた事象を正確に捉えていた。
「……おや」
ホレイは満足そうに、その丸い頬を緩ませた。
「……ホー、ホッホ。見事、見事。……あの『穢れ』の塊を自らの意志で制御した『光』で浄化するとは。……いやはや、わしらの『光の子』は、想像を遥かに超える速度で成長しておられるわい」
その言葉に、チルノーヤは先ほどまでの余裕の笑みを消し、鋭い視線でホレイを見る。
「……というと、今しがた話していた、あの竜を打ち倒した、と」
「戦の全ては見えぬが……ただ、結果だけははっきりと見えましたぞ。……あの竜もいずれ『危険種』入りになるところじゃった。わしらの仕事が増えるところじゃったわい。世に知れ渡る前に倒せてよかったぞ」
ホレイは楽しそうに、紅茶を一口味わう。
「……しかしのぉ。厄災の主は計り知れん。まだこうして、ほんの僅かな因子がグランドシオル全土に散らばっておる。いつ新たな危険種が生まれるか……全く、この世界は何が起こるか分からぬものじゃ」
チルノーヤの瞳が、侮蔑とも取れるほど冷たく細められた。
「……相変わらず。まあ、興味ないですけど」
「ホー、ホッホ。ここまで率直だともはや笑えてくるわい」
「まあ、ともかく」
チルノーヤは話を切り替えるように、チェス盤に視線を戻した。
「『光の子』が順調に育っているのは結構なことですが、ホレイ殿。……例の件、本当によろしいのですかな?」
「ホー? 例の件とは」
「とぼけないでください。……『魔操使』を放って置く件ですよ。ダマユナセールのあの人形……ナドラナの町にも蔓延っている。あの偽善者は……未だ光の子を監視している。まあ、人形はともかく」
チルノーヤの瞳に、先ほどの怠惰さとは異なる、冷たい光が宿る。
「……あの光の子は、まだ完全に自分の力を制御できていない。もし、へデットリーナと本格的に衝突すれば、最悪、光の子を失うこともあり得る。それは、まさに大いなる母の結末が物語っている」
「ふむ」
「さらには、その制御できない力で、幾度も地形を壊した。彼女の内にいる『神器』がいくら優秀でも、器である光の子自身があれほど未熟では……ねえ」
「ホー、ホッホ。……心配性じゃのう、『紳士』殿は」
ホレイは紅茶を味わいながら、その鋭い指摘を柔らかな笑いでのらりくらりとかわす。
「問題ない。……光の子はまだ自らの『使命』も、その力の正しい『戦い方』さえも理解しておらん。赤子同然じゃ」
「だからこそ、危険だと申しているのですが。聞いてます?」
「だからこそ、なのじゃよ」
ホレイの瞳がただの陽気な老人のものではなく、遥かな時を見つめてきた賢者のそれへと変わる。
「あの子は『学ぶ』ために今、『ツルカ=ハーラン』としてあの地に生まれている。記憶を失い、覚束ない力だけを持って生まれたのには、深い訳がある。……出会ったばかりの仲間たちとの絆も、今日の『穢れ』との戦いも、そして『紳士』殿が心配する強敵との遭遇さえも……」
ホレイは慈しむように言葉を続け、紅茶を再び口含む。
「……全ては彼女が『光の子』である前に、『ツルカ=ハーラン』という一個として、人の喜びを、悲しみを、仲間を守るという意志を知り、力の制御を学ぶための必要な『試練』であり……『ミライ』を救う主の考えなのじゃ」
ホレイは先ほどまで手に持っていたビショップの駒を盤上に着地させた。それは、チルノーヤが仕掛けたチェックメイトの筋を完璧に塞ぐ一手だった。
「……!」
「……わしら傍観者は、盤上の駒が正しく動くよう、ほんの少しだけ『助言』をするのが仕事での。……『神器』も、その役目をよく理解しておる。光の子はまだ力を完全に取り戻していない。さらには、その膨大な力を持ってしても、通用しない世界を知るじゃろう。それを……わしらが助けてやらねばならん」
チルノーヤは、塞がれた盤面を忌々しげに一瞥した。
「にしても、不思議じゃの」
「どうしました」
「『光の子』の解放。お主ら『夜魔将官』も異例の事態らしいの」
「ええ。ヘデットリーナの報告では、『不明』と。どうやら、我々の知らない何者かが、解放したとしか言えませんね。実際、大魔王様ってやつも、お怒りですわ」
チルノーヤがあくびをしながら、うんと背を伸ばす。
「どういうことじゃ。『壮大なる計画』が進んだわけでもなく、光の子を解き放つなど。障害になるのは理解できるだろうて」
その時だった。
店の扉についた真鍮の鈴が鋭く、澄んだ音を立てて開かれた。
二人が視線を向けると、そこに一人の女性が立っていた。
歳の頃は二十代半ばほど。その表情は今、喫茶店の穏やかな空気とは不釣り合いのようなほど、不穏で威圧的だった。
春の陽光を浴びた草原を思わせる、鮮やかで澄んだ若草色の髪を腰まで伸ばし、その肌は健康的な血色を宿しながらも、滑らかで瑞々しい。
瞳は一点の曇りもない青空を映し込んだかのように、明るく澄んだ輝きを湛えていた。
身に纏うのは、七星賢者の正装たる法衣。だが、それはホレイが纏う重厚な紫紺ではなく、高空の天光をそのまま織り上げたような、清々しい空色のローブだった。
襟元や袖口には、白銀に煌めく繊細な銀糸の刺繍が施されており、胸元で鈍く光る留め具には、賢者の証である星紋が刻まれた蒼玉が嵌め込まれている。
歩むたびに、長丈のローブは微かな衣擦れの音と共に、風を孕んで軽やかに翻る。
その佇まいは、世界を優しく包み込む空の慈愛を体現しているかのようだった──が、やはり今はそんなことなく、怒りにも似た渋い顔だった。
彼女はチェスに興じる二人を認めると、床を鳴らさぬ滑らかな動きでテーブルまで歩み寄り、ホレイとチルノーヤに、まるで路傍の石でも見るかのように軽く一瞥した。
「ホレイ……そして、夜魔将官『紳士』。……このような場所で密会とは、随分と楽しそうで。ええ?」
その声は冬の湖面のように静かで、一切の感情が読めなかった。
「ホー、ホッホ。これはこれは、セレス殿。堅いことは言いなさるな。ただのチェス遊びじゃよ」
「……遊び、ですか」
七星賢者の一人──セレスは、その冷たい視線をチルノーヤ一人に向ける。
「あなた方の組織の者が大きく動いたというのに、随分と余裕ですね、『紳士』」
「おっと、初耳だ」
チルノーヤはセレスの刺すような視線を軽く肩をすくめて受け流した。その仕草は余裕を装ってはいるが、チルノーヤの表情にわずかに警戒の色が滲む。
「これは手厳しい。……で、何があったんです? わざわざ、あなたが出向いてくるほどの事件とは」
セレスはチルノーヤの挑発には乗らず、平静を装った。
「……先ほど、ノリマルンナ最北端、ガリロルザ国にて、大規模な暴動が発生したと、仲間から報告を受けました」
「暴動?」
「首謀者は、かつて『天下の六柱』が一人と呼ばれた女──『漆黒の女王』ヒナ=ノーノンです」
その名を聞いたチルノーヤの目から、怠惰な色が消えた。
「……ヒナが? ヒナは現在、大魔王グレイの管轄下にあるはず。……それで、状況は」
「その彼女が、ガリロルザ国の王城に向け進軍中。同時に、おびただしい数の『バルゴゾーン』が、城下町で破壊の限りを尽くしている、と」
「バルゴゾーンか……」
チルノーヤは楽しんでいたチェス盤から突然興味を失ったように、ふいと視線を逸らした。
「……夜魔将官『魔操使』の管轄下にある魔法道具人形兵器。……それをヒナが? グレイが指示したのか。それとも、『魔操使』本人の独断か……」
「任務は不明。……ですが、報告によれば現場にはヒナの他に、強大な魔力が確認されています」
「他に……?」
「……大魔王グレイに仕える四神魔界王、バリオンです」
「……ほう」
チルノーヤはその名を聞いて、瞬時にこの異常事態の裏にある意図を分析し始める。
「バリオン。そしてヒナ。なんとも趣味の悪い組み合わせだ。……ガリロルザ国は、ノリマルンナ地方の北端。あそこは確か、バリオンの監視下にあり、将来的に侵略を担当する領域でしたね」
「その通りですね。魔王バリオンが支配する予定の領土です」
「しかし、今さらながらガリロルザを攻める理由はなんだ。国家規模の戦争を引き起こすとなると、他国も黙っていない。下手すれば、Sランク冒険者の接敵だってあり得る。現代のSランク冒険者は、一線を画す。そんな危険を犯してまで何になる……」
チルノーヤは冷静に状況を分析し、その意図を探る。しかし、チルノーヤが本当に気にしているのは、この動きが魔王ドルナーシャにどう影響するか、だった。
チルノーヤが思考を巡らせていると、それまで黙っていたホレイが小さく笑い出した。
「ホー、ホッホ……。『紳士』殿。そなたの分析はいつも冷徹で良いが、少々的が外れておるようじゃな」
「……と、言いますと?」
「グレイがバリオンという手札を切り、さらにはヒナまで動かしたのじゃ。ただの示威行動や、忠誠を試すためだけでは割に合わん」
ホレイは先ほど置いたビショップの駒をその丸い指で軽く撫でた。
「勘付かれたのだろうな……。しかし、いったい誰がそれを突き止めたのか」
「ホレイ……やはり、やつらの目的は」
セレスの反応に、ホレイは静かに頷く。
「ガリロルザ国の王城……。あそこには古より、ある『秘宝』が隠されておる」
ホレイの瞳が、この世の理を知り尽くした賢者の光を帯びる。
「……グレイの狙いは、それじゃろう。……『大いなる母』が残した遺物の一つにして、夜魔将官らの狙いでもある七つの宝玉」
「な!? ……まさか、その一つがガリロルザにあるというのか!」
「────『七光玉』の存在が知られたようじゃ」




