20
ツルカの全身から放たれた不可視の何かが、大気を揺るがした。
魔力を持たないジンとマリナには、それが何なのか理解できないだろう。
「なっ……なんだよ、あいつ……」
まるで嵐の中心にいるかのような、ツルカの圧倒的な威圧感。
それは目の前にいる特級種の竜が放つ、絶望的な存在感と、奇妙なほど似通っていた。
「ツルカ……ちゃん……!」
唯一、魔力を感知できるナユは、その圧倒的なエネルギーの顕現を前に、再び恐怖に膝が震えだす。
しかしそれはもう、未知の物を見るような疑心な目ではなく、ツルカを本気で信用した上での、心配の目であった。
「ツルカちゃん……あなたは、一体……」
生涯、未だ感じたことのないツルカの魔力量に、ナユはどこか憧れにも似た気持ちでいた。
「一戦いきますか……! 君も僕も、存在して欲しくない『種類』同士でしょ?」
ツルカは振り返らず、ただ真っ直ぐに竜を見据えていた。
「グルァァァァッ!」
それはもはや威嚇や怒りではなく、突如として現れた天敵に対する拒絶だった。
「さあっ!」
先に動いたのはツルカだった。
ツルカの体が陽炎のように揺らぎ、次の瞬間にはその場から消えていた。
「速っ……!」
マリナの優れた動体視力が、かろうじてその軌跡を捉える。
ツルカは地面を爆発的な脚力で蹴りつけ、ソニックブームにも似た轟音を置き去りにして、竜の懐へと神速で突貫していた。
「シャアアアッ!」
竜も即座に反応し、その巨大な顎をツルカに向けて叩きつけた。
しかし、ツルカはすでにそこにいない。竜の顎がツルカに到達するよりも早く、ツルカは飛翔して竜の頭に着地し、その背中を滑り降りる。
「グルルッ!?」
ツルカは先ほど炎槍で穿った脇腹の生々しい傷口へと肉薄する。
「ここだっ!」
魔力が凝縮された拳が、剥き出しの肉へと容赦なくめり込んだ。
「ギャアアアアアアッ!!」
鱗の上からでは通じなかった衝撃が内部で爆発し、体液を撒き散らす。
「またまだぁ!」
「グギャァァァァッ!」
だが、ツルカが追撃に移る直前、竜の全身から、おぞましい『穢れ』が黒い稲妻のように迸った。
《マスター、竜が全身に瘴気を展開しています。離れて!》
「くっ……!」
おぞましいほどの魔力が、背中に張り付いたツルカを甚振る。
ツルカは咄嗟に腕で顔を庇うが、魔力の威圧に弾き飛ばされ、クレーターの斜面へと激しく叩きつけられた。
「……痛っ……!」
ツルカの服の一部が瘴気に触れて焼け焦げ、チリチリと痛みが押し寄せてくる。
「グルオオオッ!」
ツルカが体勢を立て直すよりも早く、竜による第二波の攻撃が迫った。
竜が大きく息を吸い込むと、その開かれた顎の奥に、まるで星々を詰め込んだかのような、無数の小さな光が覗き見えた。
《連続で来ます。注意を》
「もちろん……!」
アイナの警告と同時に、竜の顎から数百発にも及ぶ魔力弾が、機関銃のようにツルカ目掛けて放たれた。
「くっ!」
ツルカは右へ跳び、左へ転がり、岩の影に身を隠す。
だが、瘴気を帯びた魔力弾は着弾した全てを溶解させた。
隠れ場所は瞬時に泡を吹く液体へと変わり、ツルカは再び開けた場所へと飛び出した。
(まるでグレイが使っていた魔法の性質と似てる……。でも、ちょっとちがう……。まるで闇の性質が……なんだ、思い出せない……! ひとまず、余計なことは考えるな。回避に専念しなきゃ……!)
魔力弾の一発がツルカの頬を薄く灼き、焦げるような痛みが走った。
回避を続けるツルカを追うように、闇の弾丸は執拗に肩と腕、そして脚を掠めていった。その度に服は無残に引き裂かれ、ツルカの肌に赤黒い擦過傷が次々と刻まれていく。
「くっ、避けきれないよ!」
ツルカは迫り来る数発の瘴気弾に対し、拳を構えた
「ええいっ!」
右腕に魔力を集中させ、飛来する魔力弾を正面から殴りつけた。
魔力弾がツルカの魔力と衝突し、小さな爆発を起こす。腕に痺れが走るが、なんとか相殺に成功する。
《他者との魔力は、反発し合います。それを活かせば、防御にもなります》
「うん、これなら……!」
ツルカは体に魔力を張り巡らせた。
すると、迫りくる弾幕の中をあえて前進し、飛来する魔力弾を避け、弾き、時には蹴り飛ばしながら、再び竜へと肉薄していく。
「……おい、夢でも見てるのか……? あいつ、今……」
「弾幕を……殴って……弾いてる……?」
「すごい……!」
「グルルル……!」
小細工が通じないと悟ったのか、竜は魔力弾の放射を停止し、クレーターの地面を四肢で強く踏みしめる。大顎を開口した途端、三十メートル近い巨体が、信じ難い速度でツルカへと肉薄する。
「いやいやっ!?」
ツルカは真上へと高く跳躍し、間一髪で突進を回避する。
だが、竜は突進の勢いのまま、長大な尾をしならして、空中のツルカを叩き落とそうと、横殴りの大鎌となって襲いかかった。
《避けなきゃ全身骨折ですよ!》
「当たるもんかぁ!」
ツルカは死に物狂いで風をイメージしてみると、強引に体が突風によって高く舞い、迫りくる尾を回避した。
「もう一回食らわしてやるぞ!」
ツルカは落下速度と全体重を乗せ、先ほどの『スーパーマジカルかかとブレイク』を繰り出そうとした。
「グルアアアッ!」
だが、竜は頭部を寸前で傾け、ツルカの踵を全身で最も硬い側頭部の鱗で受け止めた。
「硬……っ!」
ツルカの足首に凄まじい衝撃が駆けた。
竜は間髪入れず、空中で体の制御を失ったツルカを、頭部と岩壁で叩き潰そうと構えた。
「……ッ!」
ツルカは咄嗟に風を生み出して横に飛び退く。
しかし、竜の頭が岩壁に激突するした瞬間、甚大な衝撃波に巻き込まれ、ツルカの小さな体は地面を何度も跳ねながら瓦礫の山へと吹き飛ばされた。
「ツルカ……!」
ジンは無意識に、剣の柄を砕けそうなほど強く握りしめた。
「ツルカ……ちゃん……!」
「大丈夫……」
マリナが、心配に眉をひそめるナユの手を握る。
「……ただ者じゃないし、Cランク冒険者なわけない……。何者か……分からないけど、あの人は、私たちを守るために、必死に戦ってる」
「なのに……俺たちはこんなとこで黙ってていいのかよっ……」
「でも、私たちじゃ勝てるわけ……」
「だけど見ろよッ! あいつの姿……」
もうもうと立ち込める砂埃の中、ツルカがゆっくりと立ち上がる。
その姿はもはや満身創痍だった。
服は至る所が裂け、瘴気で焼け焦げている。額からは血が流れ、左目を赤く染めていた。
全身には無数の切り傷と打撲痕が浮かび、その息は荒く、激しく肩で喘いでいる。
《無理して……。マスターはまだ戦い方をあまり知らない……。魔法も、武術も、剣技もなにもかもが半端者。故に、S ランク級の相手をするのはハードルが高すぎる……! 強靭な体といえども、限度が……》
「……はぁ……っ、んっ、ふふっ。アイナってば……僕はいつだって負ける気で戦ってないからね。アイナも知ってるはずでしょ?」
《………いつもそんなこと言って……》
「僕は負けない。戦い方は、実際に学んでいくもんさ……!」
ツルカは左目の血を袖で乱暴に拭った。
対する竜も無傷ではない。脇腹の傷からは未だに夥しい量の体液が流れ出し、ツルカの執拗な抵抗に、竜の呼吸も明らかに荒くなっている。
両者は互いの出方を伺い、再び睨み合った。
もはや両者は、楽しんでいる雰囲気ですらあった。
「……ツルカちゃん……」
ナユは祈るように両手を胸の前で組んでいた。
対して、ジンはただ、腰の剣の柄を指が白くなるほど強く握りしめている。
「さぁ……やろう! どっちが先に果てるか勝負だっ!」
「グルオオオオッ!」
竜は再びその身に魔力を集束させる。
だが、今度は先ほどまでのものとは次元が違った。
空気が淀み、陽光が遮られたかのように辺りが暗くなると、竜の全身の鱗が不気味に蠢き始め、その隙間からどす黒い瘴気が噴き出し始めたのだ。
《これは……自己強化魔法! 自身の『穢れ』を触媒に、身体能力と魔力を強制的に引き上げています!》
「さすが、只者じゃないってわけだ……!」
黒いオーラを纏った竜の巨体が、一回り膨張したかのように見える。大きな瞳孔が、赤黒く染まっていく。
「─────はっ!?」
ふとした瞬間、先ほどの突進とは比べ物にならない速度で、竜がツルカへと肉薄していた。
「くっ……!」
まるで転移したかのような素早さだった。
ツルカは全力で横に跳躍するが、竜は突進の軌道を強引に変更し、開かれた巨大な顎がツルカに襲いかかる。
「しまっ──────」
ツルカは迫りくる竜の顎に対し、逃げるのではなく真っ向から踏み込んだ。
直後、凄まじい衝撃がツルカの全身を突き抜けた。上下から迫る竜の牙をツルカは両手と両足で突っ張るようにして受け止めたのだ。
みしみしと、骨が軋むような音を立てながら、ツルカの体は竜の口内に釘付けされた。
「くっ……!」
身体にかなりの重圧がかかるせいか、ありとあらゆる傷から血が流れてくる。
「押し返さなきゃ……!」
しかし竜は、顎でツルカの動きを封じた隙に、空いていた巨大な前肢で、ツルカの体を鷲掴みにした。
「グルルルル……!」
竜は掴んだツルカを万力のように締め上げた。
しかし、ツルカの体が常軌を逸した耐久性を誇っていたおかげか、辛うじて、完全に潰されるようなことはなかった。
「ぐっ……あ……!」
かといって抜け出せるわけでなく、ツルカは呼吸を奪われ、全身の骨が悲鳴を上げる。
竜は掌中で抵抗を失ったツルカを一瞥すると、次の瞬間、腕を横薙ぎに振り抜いた。投石器から放たれた石の如く、ツルカの体は抗う術なく、凄まじい速度で岩壁へと向かって飛翔する。
「──────ッ」
景色が一条の光となって流れ去った刹那、鈍い衝撃音と共に壁に激突し、巨大なクモの巣状の亀裂が走った。
「ガハッ……!」
ツルカの口から血の交じった呼気がこぼれた。
視界が明滅し、全身が激しく打ち付けられた痛みで痙攣を起こしている。
《マスター! 気を確かに!》
(……まずい……。今のは、効いた……)
決してツルカは油断していなかった。ただ、パワーで押し切られたのだ。
ツルカが岩壁からずり落ち、片膝をついたまま動けずにいた。口の端から、再び血が滴り落ちる。
「グルルル……」
竜は勝利の余興を楽しむかのように、ゆっくりとツルカへと歩み寄る。その距離、わずか十数メートル。
そして、巨大な顎を再び開く。その奥に収束していくのは、この空間ごと全てを消滅させかねない、凝縮された『穢れ』のエネルギー。
まさに、とどめの一撃だった。
《マスター、マスター! 立ちなさい、早く!》
アイナのものとは思えぬ絶叫が、ツルカの思考を貫いた。
だが、ツルカの体は動かない。完全に限界が来ていた。まだ、Sランク相手には、荷が重い身体のようだった。
「……くそ……」
ツルカは迫り来る死の光を霞む視界で睨みつけることしかできなかった。
《──────駄目だ》
すると、アイナが凄まじい演算をツルカの脳内で繰り出していく。
《主の守護を最優先。自己蘇生開始》
ツルカを守るかのように、突如として神聖な光の結界がツルカを覆い囲んだ。
その結界に、うっすらと、膨大な量の複雑な文字が、泳ぐように浮かび上がっていく。
《回復より、神王級神聖魔法『神雨』の実行。及び耐性より、神竜級神聖魔法『七星結界』の実行》
ツルカを囲う結界が一段と輝きを増す。
《……一度使えば、私が長期間機能停止してしまう……。ですが、ここで終わるわけには…──────なっ!?》
その時だった。アイナが淡々と言葉を紡いでいく、それよりも早く、通路から影が一つ飛び出した。
その拍子で、唱えかけていた魔法が崩れるように解除される。
「──────うおおおおおおおおおっ!」
その無謀な突進者はジンだった。
何を思ったのか、ボロボロの剣を両手に握りしめ、竜の脚部に向かって全力で突進していた。
「バケモノがァァァッ!? 仲間の……俺たちのツルカに、何しやがんだァァァァ!」
ジンは勢いよく跳躍し、ありったけの力を込めて、剣を竜の鱗に叩きつけた。
鱗は傷一つついていなだが、竜は僅かにジンの方へと一瞬だけ意識を向けた。
「グルル……?」
その一瞬。それこそが、命を賭した陽動だった。
「今だぁッ!」
通路の入り口から、マリナが研ぎ澄まされた集中力で矢を放つ。
狙うのはただ一点、ジンの捨て身の陽動によって、僅かにツルカから逸れた、竜の左目。放たれた矢は風を切り裂き、正確無比な軌道を描いて眼球へと迫る。
「グル……!」
竜は咄嗟に瞼を閉じようとしたが、マリナの一射は竜の反射速度を僅かに上回った。瞼が閉じる寸前、その隙間を縫うようにして、矢は巨大な眼球へと深々と突き刺さったのだ。
「グギャァァァァッ!」
竜は頭部を激しく振り乱し、その巨体は明確にたたらを踏んだ。
そして、その激痛で竜の集中は完全に途切れた。
「グルァァァァッ!」
「ま、負けないッ!」
ツルカと竜の間。そこにはいつの間にか、ナユが立っていた。
恐怖で涙を流し、足はガクガクと震え、今にもその場に崩れ落ちそうだった。それでもナユは杖を固く握りしめ、その切っ先を竜に向けていた。
「わ、わわわ私だって! ツルカちゃんを守る……! な……な……っ……! 仲間、だもん!」
ナユは魔導書を開く余裕もなく、ただ必死に習ったばかりの防御魔法のイメージを紡ぐ。
「【守れ、源素! 堅牢なる盾となれ】……! 『プロテクション』!」
ナユの全身から絞り出された魔力が、杖の先から放たれる。それはツルカの前にかろうじて展開された、薄くて頼りない光の壁だった。
「グギャァァァァッ!」
片目を潰された激痛に狂った竜が、喉の奥深くを鳴動させ、照準も構わず口内に溜め込んだ『穢れ』を帯びた魔力弾を四方八方に解き放った。
「マリナ、しゃがめ!」
「う、うん!」
ジンは何とか大きな岩陰に隠れ、竜の猛攻を回避する。
「……くぅっ!」
その時、隙だらけのナユとツルカに向かって、一部の魔力弾がナユの『プロテクション』に直撃した。そして、軌道が変わり、ツルカの背後で爆散する。
「きゃっ!?」
光の壁は、一瞬。本当に、瞬きする間も持たずに、ガラスのように粉々に砕け散った。同時に、ナユは恐怖に喉をひきつらせ、糸が切れたように倒れ込む。
だが、その一瞬。ナユの未熟な魔法が、魔力弾をほんのわずかでも減衰させた。その薄い壁がなければ、魔力弾は確実に二人へと命中していた。
そして何より、マリナの矢によって片目を潰されたことで、その照準は致命的に狂っていた。
他の魔力弾は、動けないツルカのほんの数センチ脇を通り抜けては、背後の岩壁へと着弾していく。接触した岩盤は瞬時に黒く変色し、泡を立てながら溶解、蒸発していく。
もし直撃でもしていれば、ツルカは跡形もなく消滅していただろう。
《これが人間……。そう……決して、生きることをやめない……。かつて『大いなる母』が愛した──────》
アイナはか弱くも、勇気ある三人の人間をツルカの瞳からしっかりと見据えた。
《──────勇敢で、諦めを知らない、希望の存在》
ジンたちはCランク冒険者。
だが、確かに三人はツルカを救ったのだ。
ツルカは目の前で起きた光景をただ呆然と見つめていた。
自分を怖がっていたはずのナユが、自分の前に立った。勝てるわけがないと絶望していたジンとマリナが、自分を助けるために、あの竜に立ち向かった。
「……あ……」
ツルカはゆっくりと顔を上げた。
自分を守るために前に立った三人の姿が、血に濡れた瞳に映る。
(……仲間……)
その言葉の意味をツルカは初めて、魂で理解した気がした。
「……そう、か。ありがとう、みんな」
ツルカは小さく呟くと、再び立ち上がった。
「つ、ツルカ!? 立てるのか……!」
「む、無理しちゃ……え……?」
ツルカの蒼い瞳には、先ほどまでの焦りも、絶望もない。ただ守るべき『モノ』を見つけ、静かで冷徹な闘志が燃えていた。
「そうさ……。僕は、『守るため』に生まれた。そう……だったはずだ」
《…………》
アイナの沈黙が、ツルカの内部で起きた変革を肯定しているようだった。
その瞬間、ツルカの内側で蓋をされていた何かが、堰を切ったように解き放たれる。
それは魔力とは似て非なる、純粋で温かい『光』の力だった。
「今なら……使いこなせる気がする……僕の力……ッ!」
ツルカは両の拳を固く握りしめる。制御不能だった熱の塊が、今は意志のままに脈動する気がした。
「グルルル……!?」
竜は矢が突き刺さった片目を血走らせ、未だ倒れぬ少女を睨み据え、再び『穢れ』を帯びた魔力を高め始める。
戦いは、まだ終わっていない。




