17
早朝の騒動は、結局のところ魔力を持たないジンとマリナにとっては『ツルカも魔法が使えたらしい』という、事実確認以上のものにはならなかった。
当のツルカ本人も、指先に火が灯ったことには少し驚いたものの、すぐに興味を失っていた。
「ほら、ナユ、ぐずぐずするな! 日が高くなる前に谷に着くぞ」
一行はすでにあの岩棚を出発し、本格的な山岳地帯の尾根を歩いていた。
もはや道と呼べるものはなく、ただの岩肌を歩き続けた。木々はとうに途切れ、視界を遮るものは何もない。
「ちぇっ、思ったより険しいな。マリナ、足元気をつけろよ!」
「言われなくても。ジンこそ、地図ばっか見てて滑り落ちないでよね」
「うるせえ!」
そんな二人のやり取りを後ろから聞きながら、ツルカは眼下に広がる絶景に目を奪われていた。
「おい、ツルカ、お前もだ! 岩の端に寄るな! 滑ったらどうするんだ!」
「えーだってジンさん、景色がこんなにもいいんだもん。あ、あそこに変な形の雲があるよ!」
「雲なんかどうでもいい! 警戒を怠るな!」
「はーい。……お腹すいてきた」
そんなやり取りをしていると、ふと最後尾を歩くナユが妙に静かなことにツルカは気づいた。
振り返るとナユはツルカ達から少し遅れ、幽霊のように青ざめた顔で、とぼとぼと岩肌を登っている。
だがその時、ナユは意を決したようにこちらへと早足で近づいてくる。
「……ねえ、ジン、マリナ……」
その声は、朝とは違ってひどくか細く、追い詰められたように響いた。
「やっぱり、今朝のツルカちゃんの、あの魔法のことなんだけど……」
「あ? まだその話かよ」
ジンは心底うんざりしたという顔で振り返る。
「き、聞いて! あの時、私が感じた魔力は、本当に……本当に普通じゃなかったの!」
「なにがなの」
「まず、魔力の『量』がおかしいの! 私が知ってるどんな魔法使いよりも、たぶん、何十倍、何百倍も……。あれは、『灯火』一つに使うようなエネルギーじゃなかったの!」
ジンとマリナに次いで、ツルカもナユの剣幕に少し戸惑っている。
「でも、ナユ」
マリナが冷静にナユを諭す。
「結果として、ツルカちゃんが使ったのは『小さな灯火』だった。それは私たちも見た。エネルギーがどれだけ多くても、結果がそれなら、ちゃんと『制御できた』ってことじゃない?」
「それが、一番怖いところなの!」
ナユの声が裏返り、恐怖で足が絡まりそうになる。
「ツルカちゃんは制御なんてしてない……! してたのは、魔導書に書かれた『公式』! ツルカちゃんがあの膨大な魔力を……あの公式という名の『枠』に無理やり流し込んだから、結果的に『灯火』になっただけなの! 言いたいこと分かる!?」
ナユは魔力を持たない二人に、必死にその恐ろしさを伝えようとしていた。
だが、ジンとマリナの反応はやはり芳しくない。
「……ナユ。お前、疲れてるんだ」
ジンは同情するような目でナユを見ると、肩に手を置いて慰めた。
「エネルギーがどうとか、公式がどうとか……難しいことは分からねえけどよ。要は、ツルカはスゲえ魔力を持ってるけど、ちゃんと『灯火』しか出なかったんだろ? なら、問題ないじゃん」
「問題ない、って……」
「そうだよ、ナユ」
マリナも同意し、ツルカをふいと見る。
「私たちは魔力なんて分からないけど、現象が全て。ツルカちゃんは危険なことを何もしていない。むしろ、そんな凄い力があるなら、ポイズンドラゴンなんて楽勝かもしれないよ?」
「ああもう!」
ナユはその場にしゃがみ込み、癇癪を起こしたかのように声を上げた。
その時だった。
「─────グルルルッ!」
「なっ」
周囲から低い獣の唸り声が響き渡った。
ジンが即座に剣を抜き、マリナが矢をつがえる。
「……魔物か。ツルカ、下がってろ。ナユは後方から支援だ」
ジンの視線の先にある岩陰から、血走った赤い目をした魔物が次々と姿を現した。
それは野ウサギの姿をしていながら、その大きさは大型犬ほどもあり、口からは不釣り合いなほど鋭い牙が突き出ている。
山岳地帯に生息する『山牙兎』の群れだった。昨晩、ツルカが捕まえてきたそれだ。
「五匹……六匹! ジン、来るよ!」
「おう!」
ジンが先陣を切って突進する。
一匹目が飛びかかってくるのをジンは体捌きでいなし、すれ違いざまに剣を横薙ぎに振るった。
「ナイス、ジン。そっちは任せて」
マリナが、ジンをすり抜けようとした別の個体の眉間に、正確無比な矢を叩き込む。
「私も……!」
ナユも恐怖を振り払うように杖を構え、魔導書を片手に詠唱を始めた。
「【鋭き風よ、彼の者を切り裂け】っ! 『風刃』!」
不可視の風の刃が生まれ、側面から回り込もうとしていた一匹の胴体を正確に切り裂いた。
ツルカはその光景を後方から目を丸くして見ていた。
ジンが前衛として敵を引き受け、マリナが的確な射撃で数を減らし、ナユが魔法で確実に仕留める。昨日出会ったばかりの、まだCランクの駆け出しだと自嘲していた三人が、見事な連携であっという間に山牙兎の群れを制圧していく。
数分後。最後の一匹をジンが突き刺し、戦闘は終わった。
「ふぅ……。大したことなかったな」
ジンが剣の血を払い、マリナが矢を回収しに戻る。ナユも魔力を使った消耗で、少し息を整えていた。
「いいね、ナユ。魔法、安定してきたんじゃない?」
「そ、そうかな」
「おう。かなり定着してるな。実戦でも役に立つようになってきた」
「えへへ」
強敵ではないとはいえ、三人の間に安堵の空気が流れる。
「ふふふ~ん」
その時、ツルカが何事もなかったかのようジンたちの横を通り過ぎた。そして今しがた倒された山牙兎の亡骸の一つを掴むと、おもむろに人差し指を構えた。
「つ、ツルカちゃん?」
ナユが訝しげに声をかける。
「おいしくなーれ」
ツルカは魔導書も開いていない。詠唱もしない。ただ、獲物に向かって指を向け、小さく呟いた。
直後。
ツルカの指先からオレンジ色の火線が勢いよく放射され、山牙兎の亡骸を包み込んだ。
ツルカは数秒間、その炎を浴びせ続けると、ぴたりと炎を止めた。毛皮が綺麗に焼け落ち、完璧な丸焼きとなった山牙兎が出来上がった。
「……あ、ちょっと焦げたかな」
ツルカはそう呟くと、熱気も気にせずにこんがりと焼けた兎の足をちぎり取った。そして、その場で豪快にかぶりついていく。
「んー、おいしい! やっぱり獲れたては違うねっ」
ジンは剣を構えたままの姿勢で凍りつき、マリナは回収しようとしていた矢を手から落とす。
だが、ナユの驚きはジンやマリナとは根本的に異なっていた。
今朝、あれほど熱弁した熟練者のみが扱える高等技術。魔導書の『公式』を使わず、イメージだけで魔法を発動させる、あの無詠式の魔法。それをツルカがいとも簡単に使ってみせた。
あれは恐らく、『灯火』を無詠唱で発動し、対象を焼くだけにイメージし応用したものだ。
だが、ナユが戦慄したのはそこではない。
詠唱魔法を使った時は、その規格を破壊しかけるほど魔力を暴走させたのにも関わらず、無詠唱魔法を使った今は、獲物を丸焦げにすらしない完璧な火力制御をやってのけた。
訳がわからない、このおかしな矛盾。
公式を使えば枠に収めてくれるから、粗雑に魔力操作をしたとでも言うのか。それか、灯火の詠唱によって、魔力操作ができるようになったとでも言うのか。
いや、そもそも魔力量がおかしいというのに。
「……怖い……」
ナユは顔を真っ青にして口元を押さえた。
ツルカはそんなナユの視線に気づくと、人懐っこく笑いかける。
「あ、ナユも食べる? みんなも。まだ四匹いるよ?」
「ひっ……」
「あ、あはは……」
「いやぁ、俺は……」
三人が返答に窮していると。
「───────グォォォォォォォッ」
「なっ!?」
これから向かうはずだった谷の奥深くから、地を揺るがすほどの咆哮が響き渡った。
「ひぇぇぇっ!?」
「な、なに?」
それは音というよりも衝撃そのものだった。先ほど倒した山牙兎の亡骸が、その音圧だけでわずかに跳ねる。
「……なんなの……!」
「もしかして……ポイズンドラゴン……?」
「……いや、違うだろ……! Cランクのポイズンドラゴンが、山を震わすような、あんな鳴き声を出すわけがねえ!」
「じゃあ、今の声は……」
「この谷の奥に……格が違う『何か』が、いるってこと……?」
「すごい声だったね」
ツルカだけがまだ熱い兎の足を持ったまま、感心したように呟いた。
「なんだろ、お腹すいてるのかな?」
「うるせえ、もう食うなッ!」
腑抜けたツルカにジンが一喝するが、ツルカが纏う能天気な空気は消えない。
「……どっちにしろ、ポイズンドラゴンもこの谷にいるはずだ。何が潜んでいようと、俺たちのやることは変わらねえ! ……だが、確認だ。ポイズンドラゴンじゃねえと分かったら即撤退する。いいな。気を引き締めて行くぞ!」
ジンはそう吐き捨てると、パーティの先頭に立ち、再び足を踏み出した。
ツルカは慌てて残りの兎肉を口に押し込むと、どこか楽しそうな表情でその後を追った。
「だから、食うなって言ってんだろ!?」
「怒らないで! 食べたいなら譲ってあげるから」
「いらねぇ!?」




