16
夜の闇が白み始め、空が深い藍色から冷たい鋼色へと移る頃。
山岳地帯の空気はナドラナの森とは比べ物にならないほど薄く、刃物のような鋭さで肌を刺した。
「……んん……さむ……さむすぎない?」
ツルカは寒さに身を震わせながら、ゆっくりと目を開けた。
岩棚の中央で燃えていた焚き火は、昨夜の賑わいを終え、とうに灰となっている。
隣に目をやれば、ジンとマリナは健やかな寝息を立てている。
「……寒くないのかな。ってか、あれ」
ツルカは身を起こすと、仲間が一人足りないことに気づいた。
「……ナユ?」
視線を辺りに巡らせると、彼女はいた。
岩棚の端でナユが一人で座り込み、その膝の上には分厚い一冊の本が開かれていた。
ナユは白い息を吐きながら、真剣に本を繙く。
ツルカはまだ眠る二人を起こさないよう、足音を忍ばせてナユのそばへと歩み寄る。
「ナユ、おはよ。早いね」
「あ……、ツルカちゃん、おはよう」
「何してるの?」
ナユは少し恥ずかしそうに自分の膝の上にある本に視線を落とした。
それは表紙が擦り切れ、角が丸くなった、使い込まれた本だった。
「えっと、魔法の勉強。私、まだ駆け出しの魔法使いだから、毎日こうして勉強しないと、ジンやマリナの足手まといになっちゃうから。こうして魔導書を読むの」
「へえ、どれどれ」
ツルカが興味深そうに覗き込むと、ナユは本の表紙を見せてくれた。そこには『奇術級魔導典』と、少し古風な字体で記されている。
「奇術級……?」
「あ、魔法には階級があってね。下の『手品』級から始まって、私のはその一つ上の『奇術』級。もっと上には『魔導』級とか、『崩壊』級とか……ずっと上には、神話級なんて呼ばれる『神竜』級とか『神王』級とか……もう、存在してるかも分からないような古の魔法もあるんだって」
ナユの瞳が、手の届かない神話の世界に憧れるように輝いた。
「この魔導書っていうのはね、いわば魔法の教科書なんだ」
ナユは開いていたページの一節を指差した。
そこには、ツルカには意味の分からない複雑な図形と、呪文のような文字列がびっしりと並んでいる。
「この本に書かれてる『公式』……つまり、詠唱法や技術を正確に読み上げることで、術式が展開されて魔法が発動するの。これが『詠唱魔法』」
「なる……ほど。公式を読み上げるから、教科書なんだ?」
「うん。でも、これには弱点もあって……」
ナユは少しだけ表情を曇らせて肩をすくめる。
「強力な魔法になればなるほど、詠唱……公式がすごく長くなるの。そうすると、実戦では隙だらけになっちゃう。だから、熟練した魔法使いは詠唱をしなくても、イメージや感覚だけで魔法が使えるようにしていくんだって。『無詠唱魔法』って言うんだけど……まだ私にそんな高等技術は……」
「へえ……」
「しかもね、無詠唱魔法は『公式』を介さないから、術者の魔力量やイメージがそのまま威力に直結するの。詠唱魔法はどれほど強大な魔力を注ぎ込んでも、公式が定めた『結果』……例えばこの、『火球』なら『火球』の規格に、強制的に収束させられちゃう。だから安全だけど、応用が効かない。……無詠唱はその逆。だから本当に熟練した人じゃないと、逆に危険すぎて使えなかったり……ね」
「つ、つまり、無詠唱? は、イメージがそのまま結果になるんだね?」
「そう。魔法は、魔力を介して実現させる『奇跡』。つまり、術者の創造の世界。魔力を極限まで極めた人は、イメージするだけで、なんでも奇跡が実現できるって言われてる。だから、こういう魔導書ってね」
ナユが魔導書を撫でながら、憧憬の眼差しでツルカを見上げる。
「かつて偉人がイメージして使っていた魔法を詠唱っていう『公式』にして、誰でもイメージして使いやすいように作られているの。つまり、『文字のイメージ』として、理解しやすくなっているんだよ。ほらみて、魔法の題名のちょっと下に、名前書かれてるでしょ。これ、この魔法を生み出した人なんだよ」
「まるで有名人だね」
「だから、これを読んで詠唱すれば、この魔法を生み出した人のイメージを、他の人も簡単に読み取れるってわけ!」
「へえ! つまり、まだ存在しない魔法も、頑張れば作れるかもしれないんだね!」
「そうなの! 夢、あるよね……!」
ツルカは、その複雑な術式が並ぶページを覗き込んだ。
記憶にはないはずなのに、その文字列と図形が、ただの記号ではなく、明確な意味を持った情報として脳に流れ込んでくる。まるで、呼吸の仕方を思い出すかのように、自然と。
「……でも、これ。誰でも読めば使えるの?」
「ううん」
ナユは首を大きく横に振った。
「『魔力』っていうのはね、神様に認められた人が『生まれつき』持ってる、すごく特別な力って言われてる。だから、魔力を持ってない人がいくら読み上げても、何も起こらないの」
「生まれつき、かぁ……」
ツルカは頭をかきながら、あたかも不思議そうな表情で空を見上げる。
(神様に認められた力。……記憶はないけど、僕にも魔力があるって事は、だよねぇ)
こんな自分も神に認められてたんだ、と、ツルカは口をあんぐりさせていた。
「それにね。魔力があっても、最初は失敗ばっかりで……。その魔力の上限……強さは、その人の精神力とか、生命力の高さで決まるって言われてるんだけど、最初の制御はみんな苦労するの。この『灯火』の魔法一つ覚えるのにも、私、三日もかかったんだから」
ナユが苦笑しながら指差したのは、『灯火』という魔法の項目だった。
この魔法は暗闇を照らすために編み出された、灯りの魔法のようだ。
「……ちょっと、試してみていい?」
「え?」
「この、『灯火』ってやつ」
「え、ええ? いいけど……ツルカちゃん、魔力を持ってるの? 魔力を持つ人って何となく分かるんだけど、ツルカちゃんは分からなくて……」
ナユは戸惑いながらも、魔導書をツルカの方に向けた。
ツルカはその公式をゆっくりと目で追う。そして目の前の空間に向かって、魔導書に書かれた通りの公式をその唇で紡ぎ始めた。
「──────【集え、源素。我が指先に、小さき光を灯せ】……『灯火』……!」
「……はは、そんな簡単には──────」
その時、ナユは魔力を持つ者として、それを明確に感じ取った。
詠唱を終えた瞬間、ツルカ自身の『内側』から、底なしの魔力が呼び覚まされたのだ。
それはナユが知る、いかなる魔力とも次元が違った。
魔力の上限は、その者の精神力、意志力、生命力の総量。
ナユは恐怖で息が詰まった。
目の前の少女は、どれほど強靭な『魂』と、どれほどの『生命』をその小さな体に宿しているというのか。
深海の水圧に押し潰されるかのような、途方もない魔力の圧。ナユの感覚では、そのエネルギーはこの山岳地帯はおろか、ナドラナ町、いや一つの大国すら吹き飛ばしかねない規模のものだった。
だが、その膨大な魔力はツルカが紡いだ『奇術級魔導典』の公式によって、強制的に型枠へと押し込まれた。荒れ狂う魔力は詠唱された公式によって無理やりねじ伏せられ、圧縮され、奇術級というあまりにも小さな規格へと導かれる。
結果───ツルカが突き出した人差し指の先端に、小さな光点が生まれ、まるでロウソクに火が灯ったかのように、炎となって静かに揺らめき始めた。
「…………お」
ツルカはどれほどの魔力が荒れ狂ったのか、全く自覚していなかった。
ただ、指先に生まれた温かい炎をきょとんとした顔で見つめている。
「本当についちゃった。やっぱり僕、魔力あったんだね」
「…………ひっ」
ナユは喉に何かを詰まらせたかのように、声が出なかった。
ありえないほどの膨大な魔力。これを神に認められたとか、才能と呼ぶのは、あまりにも現象を理解していない。言葉で片付けられる領域ではない。これは、そもそも次元が違う。
「えぇぇぇ~~~~~っ!?」
ナユの絶叫が、ようやく白み始めた朝の空に突き刺さった。
「────な、なんだぁ!?」
「て、敵襲!? 魔物!?」
ナユの悲鳴が響き渡ると同時に、ジンは跳ね起きて剣に手をかけ、マリナは音もなく滑るように起き上がって弓を構えた。
「どうした、ナユ! ……って、あれ?」
「……火?」
飛び起きた二人の目に映ったのは敵の姿ではなく、自分の指先で燃える炎を不思議そうに眺めるツルカと、そのツルカを指差して腰を抜かさんばかりに震えるナユの姿だけだった。
二人は魔力を持たざる者として、魔力を感知できなかった。
「じ、じじじじ、ジン! ま、まままま、まま、マリナ! い、いま、つ、ツルカちゃんが! ツルカちゃんが、魔法、使ったの!」
「「…………は?」」
ジンとマリナの呆気にとられた声が、虚しく響いた。




