15
──────夜の帳が降りた頃。
そこは、広大な部屋だった。
石造りの床と天井は途方もない高さで、しかし光源は魔法道具と思しきランプが青白い光を点々と灯すのみだった。
空気はひんやりと冷え、奇妙な静けさに満ちている。ただ、耳を澄ませば何かが規則正しく時を刻むような微かな音と、液体が泡立つようなくぐもった音が反響していた。
ここは、何かの研究所のようだ。
ひとたび視線を壁に向ければ、そこには天井から床まで夥しい数の人形標本が壁一面に貼り付けられている。それは精巧な解剖模型のようでもあり、かつての人間や亜人の成れの果てのようでもあった。
そして、ひとたび視線を部屋の中央に向ければ、そこには巨大なガラス瓶が林立していた。緑色の不気味な培養液で満たされた瓶の中には、まるで眠るようにして、明らかに人間、あるいはエルフや獣人、鳥人とおぼしき『素体』が、無機質に浮かんでいる。
「っ。分からん」
その工房の最奥にて。
無数の計器と設計図が散乱する机の前に、一人の女が立っていた。
年の頃は二十から三十に見えるが、その実年齢は定かではない。ウルフカットにされた赤紫の髪は片目が隠れるほどに前髪が長く、その隙間から覗く瞳は、深淵のように暗く、そして冷え切ったように鋭い。
纏うのは、体に吸い付くような黒のロングコート。それは軍服を思わせる厳格なデザインでありながら、襟元や袖口には精密な銀糸の刺繍が施され、溢れんばかりの豪奢さを漂わせている。
肩には儀礼用のような銀色の肩章が輝き、胸元には複雑な模様を刻んだアメジストのブローチ。その両手は、肘までを覆う黒革の手袋に包まれていた。
そして、上腕には奇妙な生物を象ったような銀紋章が輝いている。
「……失礼します」
不意に、工房の闇から音もなく一つの影が現れた。
少女は女の前で片膝をつき、深く頭を垂れる。
それは、ツルカの命を奪わんと森で奇襲をかけた、あの感情の欠落した少女だった。
「マスター。ただいま帰還いたしました。ご報告申し上げます」
その声は、平坦で一切の抑揚を欠いていた。
「エスノルアか……。なんだ」
マスターは少女──エスノルアの方を振り向きもせず、手元の設計図に視線を落としたまま静かに返した。
その声もまた、感情の起伏を感じさせない冷静な声だった。
「全土へ派遣した……『ヴォルゾーン』隊より、定時報告を受信しました」
「成果は?」
「……なし、と。ノリマルンナ地方では私と同じく、一体のヴォルゾーンより『コード・オリジン』と思しき特異な気配を感知しましたが、やはりその後の追跡で完全に消失。接触には至らなかった、とのことです」
「……そうか」
マスターはそれだけ言うと、またしても違う資料へと目を配る。
「さすがといったところか。あいつの前では、私の最高峰たるゾーンであっても荷が重いか……」
「マスター。次の指示を」
エスノルアは姿勢を一切崩さず、次の命令を待つ。
「……ならばノリマルンナ地方での監視は継続させろ。同時に、探索網を広げていけ。全土の隅々まで探し出せ。……他は」
「はい。その、ノリマルンナ地方のナドラナ町に向かったヴォルゾーンの一人が、監視任務中に感知した特異な反応について」
「……ふん」
「現地で活動する冒険者のうち、一人の対象がヴォルゾーンによる隠密監視に気づき、こちらを観察する素振りを見せた、と」
「……なに?」
マスターは初めてその冷徹な瞳を設計図から離し、それをエスノルアに向けた。
「ヴォルゾーンの行動を現地の人間が感知しただと? 馬鹿な。ヴォルゾーンの最大の特徴は暗殺及び隠密。魔力による気配消失。それを?」
「その対象……外見的特徴……白髪、小柄な体躯。そして、常軌を逸した知覚能力。……マスター。この特徴は」
「…………」
「かつて私が奇襲した、あの人間。……あの時の対象と、酷似しています」
マスターは前髪の隙間から、その赤紫の瞳でエスノルアを射抜くように見つめる。
「……お前が仕留め損ねた、あのイレギュラーか。あれが、ナドラナに?」
「断定はできません。しかし、私が接敵した距離的にナドラナに行く可能性は大いに高い。ヴォルゾーンを欺く知覚能力を持つ個体など、そう多くは存在しません。私の奇襲すら避けきった。……同一であるほうが必然」
「……面白い」
マスターの口元に、初めて氷のような笑みが浮かんだ。
「『コード・オリジン』の気配が観測され、同時に、お前が粘着するそれもそこにいる。……やはり推測通り、それが『光の子』か……。もう、再会は果たしているらしいな……嘆かわしい」
「……?」
「しかしまあ、探す手間は省けたな」
何のことかと、エスノルアは自身のデータにはない言葉に疑問を浮かべる。
「ヴォルゾーンに対象の確保、あるいは排除を命じますか?」
「いや、禁ずる」
マスターはきっぱりと言い放つと、机に向き直り、設計図の束を無造作に払い除ける。
「ヴォルゾーンでは、あの相手は務まらんだろう。あれらは真正面からの戦闘に長けていない。返り討ちに遭い、情報をくれてやるのがオチだ」
「では、あの人間は放置を」
「そうは言っていない」
マスターが資料を流し読みし、やがてそれをくしゃくしゃに丸める。
「だが、優先順位が違う。お前が仕留め損ねた人間より、我々の包囲網を掻い潜って逃げ出した『オリジン』。どちらが我々の任務の根幹を揺るがすか……理解できているな?」
「はい。全ては『コード・オリジン』の確保のために」
エスノルアは、感情のない声で即答した。
「ならば、思考を戻せ。私の傑作らの目は、事実しか報告せん。故に、お前に問う」
マスターは席を立ち、工房の中央に林立する巨大なガラス瓶群へと、ゆっくりと歩を進めた。
「この際、『光の子』などもういい。肝心なのは……エスノルア。……なぜ、『コード・オリジン』はここから消えたと考える?」
それは問いの形をしていながら、答えを求めているようには聞こえない、冷たい響きだった。
「地下施設からの脱走は、物理的に不可能です。私が確認した時点で、封印区画は一切の損傷なく機能していました」
「……うむ」
「外部からの侵入の痕跡も、『ヴォルゾーン』や『スカイゾーン』、『バルゴゾーン』の目の監視網では感知されていません」
「つまり、外からも内からも、破られてはいない……か」
マスターはひときわ巨大なシリンダーの前で足を止めた。その中には人間の、異様に美しい『何か』が、目を閉じて浮かんでいる。
マスターはその冷たいガラス面に掌をそっと当てると、シリンダーの中の液体がまるで意思を持ったかのように、くぷりと泡を立てる。
「では、可能性は二つだ」
ガラスに映る自分の冷徹な顔を見つめながら、彼女は考える。
「一つ。我々の組織内部……この工房の管理体制を知る、ごく一部の者の手引き。この封印を内側から解いた」
彼女の脳裏に、数人の同胞の顔が浮かんだが、それをエスノルアに明かすことはなかった。
「そして、もう一つ。我々の知覚や技術体系を根本から超越した外部からの干渉。……例えば、あの忌々しい『七星』の老いぼれどもが、『光の子』を復活させるために、何か予測不能な手段で抜き取った、とかな」
「………」
エスノルアは七星、光の子という単語にも反応を示さず、ただ黙してマスターの言葉を聞いている。
「お前はどう思う、エスノルア。お前は、『ゾーン』系統の『目』とは違う。ただの道具ではない。お前の『感覚』で判断しろ」
「………」
エスノルアは、わずかに沈黙した。
それは機械的な応答ではなく、彼女自身の思考が稼働している証だった。
「裏切り、が最も有力と、エスノルアは推測します」
「ほう」
「他者による干渉なら、封印区画の厳重な警備に反応が残るはず。しかし、魔法による損傷も干渉も、ましてや物理的な破壊もない。痕跡を残さず開閉できるのは、内部権限を持つ者のみ。ですが、管理体制を知る者はごくわずかであり、かつ、魔力監視網にも侵入者の痕跡はなし。我々の技術に遥かに上回る方法で侵入されたか……と」
「確かに。ここへたどり着くまでは、ゾーンだけでなく、多く監視網がある。それを全て掻い潜ったとなると……信じられんな」
「マスターと関わりのある人物データを解析。いずれも、虚偽に塗れた表情が見て取れる。失礼を承知で申し上げますが、私が推理するに、マスターの同胞は信用なりません」
マスターはその赤紫の瞳をわずかに細めた。
「……我が同胞、『夜魔将官』を疑うか。情けない限りだ」
しかしマスターは、エスノルアの無機質な顔を満足そうに見つめた。
「まあいい。いずれにせよナドラナは、『オリジン』の気配が最後に観測され、同時にあの人間が潜む、特異点となった。しかし、ヴォルゾーンの情報収集では限界だな」
マスターは再び机に戻ると、肘を突いて深く考え込む。
「同胞を疑う時が来るとはな。一体誰だ」
「お茶、淹れますか」
「いらん」
エスノルアが少し頬を膨らませたように見えた。
「まさか、『壮大なる計画』が、こうも早足になるとは。また、グレイとも話をせねばなるまい」
頭を抱えて、マスターは長嘆息する。
「ダマユナセールの任務に就いて、早数千年。しかし、夜魔将官の任務は一貫して、魔界王第二位が持つ『四封の暗黒』の完全覚醒が最重要項目。加え、『時の力』の研究と、四女神の『神器』の捜索。そして、『七光玉』の収集……。ふん、この『魔操使』を欺く事があれば、承知はせんぞ。全ては我らが絶対神のためにあるのだからな」
エスノルアはますます分からなくなったかのように、マスター──『魔操使』に疑問の表情を形作る。
「エスノルア。そろそろ、お前には『調整』が必要だ。ゾーンの連中が受ける『メンテナンス』ではない。お前の『感覚』と『思考』を、次の段階へ研ぎ澄ますための……格別な調整が」
「拝命いたしました」
すぐさまエスノルアは音もなく闇の中へと溶けて消えた。
一人残された魔操使は、工房に響く駆動音に耳を傾けながら頬杖をつく。
「七星……裏切り者の内部犯……そしてエスノルアが追う光の子。……もし、エスノルアの推論通り、夜魔将官までが盤上に加わるのなら……」
魔操使の口元に、初めて笑みが浮かんだ。
「ふふ……面白い。私に楯突くと言うなら、問答無用で標本にしてやる」
魔操使の瞳が、工房の薄暗い闇の中で妖しく光った。




