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人間界の夕闇が夜の闇へと移ろうとする頃には、魔界は常しえの宵闇に包まれていた。
ここは魔界全土を統べる大魔王の領域であった。
その広大な領域は、中央大陸ドリバルクと呼ばれ、生物を拒絶する瘴気が大地を覆い、空は分厚い魔力の雲によって光が差すことを決して許さない。そのドリバルク大陸、アビス地方の中心に、大魔王が主──ユリシーレ大魔城国は存在した。
天を突くのではなく、むしろ大地の裂け目の、奈落の底へと向かって築かれたかのような巨大な城塞都市だった。街路を照らすのは、人間の世界にあるような温かな灯火ではなく、青白く揺らめく鬼火のような魔力光だけだ。
ユリシーレ魔城国の最深部、大魔王が鎮座する『奈落の玉座』。そこは不気味なほどの静寂と、凝縮された魔力が支配する空間だった。
その玉座に、影そのものが形を成したかのような存在が座していた。
大魔王グレイ。
その姿は玉座に深く沈み込み、明確な風貌を視認することさえできないが、ただそこに在るという、絶対的な圧力だけは顕在している。
玉座の傍らには、一人の魔族が膝をつかずに直立していた。
人型を保ってはいるが、その肌は陽光を知らぬ褐色に染まり、硬質な鱗が首筋や腕の一部を覆っている。後頭部からは猛々しい二本の角が湾曲しながら伸び、背中からは爬虫類を思わせる長い尻尾が不機嫌そうに床を叩いていた。
四神魔界王の一人──バリオン。その目は、獲物を狙うトカゲのように鋭かった。
「大魔王様。夜魔将官『エージェント』がお見えです」
バリオンが低く重い声でグレイに告げると、玉座に沈む影が、わずかに身じろぎしたように見えた。
「……通せ」
それは空気を震わせる、地鳴りのような声だった。
バリオンは頷くと、玉座の間の入り口に目を向けた。
何十メートルもある黒曜石の扉が魔力によって音もなく滑るように開き、やがて一人の男が姿を現した。静寂な玉座の間に、その男の靴音だけがやけに大きく響き渡る。
男は極めて豪奢な軍服風のロングコートを身にまとっていた。金糸や魔石があしらわれた装飾は、彼の地位の高さを物語っている。しかし、その顔は深くフードを被っているため窺い知れない。
唯一、フードの影から覗く髪だけが異様だった。まるで光と闇を意図的に混ぜ合わせたかのように、半分が漆黒、もう半分が純白に分かたれていた。
夜魔将官『エージェント』。彼は玉座の眼前に迫り、臣下が跪拝すべき距離まで来ても歩みを止めなかった。エージェントは玉座の間近であるバリオンの真横まで来ると、ようやく足を止めるが、彼は膝をつくどころか、フードすら取ろうとしない。
「いやはや、ご健勝そうで何よりです、大魔王グレイ様。この闇の底は、相変わらず退屈……いえ、居心地がよろしいようで」
その声は、年齢不詳の若々くも渋い男のものだった。だが、その口調には、魔界の頂点に立つ者への敬意が欠片も感じられない。
「てめぇ……!」
バリオンの全身から、殺意のこもった灼熱の魔力が一気に噴き出した。
焦げ茶色だった髪が瞬時に燃え上がり、逆立つ業炎の鬣と化す。トカゲのようだった瞳孔が、怒りで針のように細く尖った。
「大魔王様の御前だぞッ! その不敬極まりねえ態度、今すぐ改めやがれ! 首が胴から離れたいのか、エージェントッ!」
バリオンの右手がエージェントの首元へと伸びる。
だが、バリオンの灼熱の爪がエージェントのコートに触れる、その寸前。
「バリオン。控えよ」
玉座からの絶対的な命令が静かに響いた。
バリオンの動きが、まるで時が止められたかのようにピタリと静止する。髪を燃え上がらせていた業炎がバリオンの意思とは無関係に、水をかけられたかのよ不承不承といった様子で消えていく。
「……はい」
バリオンは煮え切らない怒りを露わにしながらも腕を下ろし、その場から一歩下がった。
一方、エージェントは全く意に介していない様子だった。わざとらしく肩をすくめると、ようやくフードの奥から玉座のグレイを見上げた。
「……エージェント。貴様がここに来るということは、光の子の一件について……そうか?」
「その通り」
「説明せよ。我々の計画の『鍵』がすでにあの身に宿っている。どうなっている」
グレイがバリオンの怒りを引き継ぐかのように、低い声で問う。
しかし、エージェントは白黒の髪をかき混ぜるようにフードに手をかけ、くつくつと喉の奥で笑った。
「怒りを鎮めてくれたまえ。それは私も、分かりかねる。まあ、そのせいか、今のダマユナセールは混乱しているようだ。へデットリーナには同情する。裏で任務の鍵を保守していたというのに、いきなり消えてしまってはな」
「無駄口をたたくな」
グレイの瞳が紅に光った。
その殺意の渦中にあっても、エージェントは肩をすくめるだけだ。
「何度も言うが、私には分からん。私は私の使命……段取りがあるゆえ。どうやらヘデットリーナも焦っているようだ。エスノルアを中心に『ヴォルゾーン』をあちこちに飛び回らしている。……総司令を探すべくな」
エージェントは、バリオンから未だ燻る熱気と、グレイから放たれる冷たい圧力を意にも介さず、芝居がかったように両手を広げた。その口調は、まるで他人事の顛末を語る吟遊詩人のように軽い。
「……ふざけたことを。貴様ら……我々を騙しているとでも言うまいな」
グレイの言葉と共に、玉座の間の空気が握り潰されるかのように軋んだ。
玉座に沈む影が明確な怒りによって膨張し、その輪郭が大きく揺らめく。凝縮された魔力がエージェントの足元の床に音もなく亀裂を走らせた。
傍らのバリオンは思わず息を呑み、肌の鱗を逆立たせながらグレイの様子を窺う。
「決してそのようなことはない。私が言い切ろう。今は─────光の子を放っておけ」
エージェントは足元に走る亀裂を一瞥すると、再びくつくつと喉の奥で笑いを漏らした。その不遜な態度は、大魔王の怒りさえも楽しんでいるかのようだった。
「それより私は、有益な情報を伝えに来た次第。七光玉……」
「……ふん」
玉座の間は再び静寂に包まれ、グレイの影から漏れ出す計り知れない不快感のオーラだけが、空間を渦巻いていた。




