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──────そこは、グランドシオルとは異なる次元。
空は鉛色塗りつぶされたかのように閉ざされ、地平線の彼方まで続く大地は、黒い岩肌と凍土に覆われている。生命の息吹を拒絶するようなこの大地には、光の代わりに灰色の雪が吹雪のように絶え間なく降り積もっていた。
そんな過酷な場所にも、文明は存在した。
荒れ果てた大地に、まるで巨大な墓標のようにそびえ立つ、黒曜石と氷で築かれた城。
魔族の大国──氷河の都、ドルネジチア。
その城の中を一人の青年が、やや気だるげな足取りで進んでいた。
腰まで届くほどの長い黄土色の髪を無造作に後ろで一つに束ね、その顔立ちは一見すると女性と見紛うほど整っている。その両耳にはいくつもの黒いピアスが輝き、瞳には全てを見透かすような鋭さと、同時に全てを面倒がるような怠惰さが同居していた。
その風貌は、かなりの高官であることを示す豪奢な軍服風のロングコート。しかし、彼はそれを意図的に着崩し、まるでファッションのようにラフに羽織っている。そのコートの左腕にはドルネジチア魔国の正式な紋章ではなく、異質で奇妙な紋章が縫い付けられていた。
青年は玉座の間へと続く巨大な扉の前で一つ大きなあくびをすると、重々しい扉をこともなげに押し開いた。玉座の間は、天井が存在しないのではないかと思うほどに広大で、静寂に満ちていた。
その最奥。数十段の階段の上にある巨大な玉座に、この国の主が座していた。
「────信じられぬ」
青年が片膝をつくよりも先に、玉座から厳かだが、明らかに動揺を含んだ声が響いた。
「……まさかあの偽善者が解放するとは思えぬ。大いなる母が残したかつての遺物……。それを封じ込めるのが、やつの役目であるはず……いや、まさかな」
玉座に座すのは、このドルネジチアを統べる女王。
魔界広しといえども、大魔王グレイに次ぐ実力者と噂される魔王の一人、『氷河の女王』その人であった。
その姿は一見すると『ただの女性』にしか見えず、魔族特有の角も翼も、異形の鱗さえ持たない。
だが、その存在感は尋常ではなかった。
肌は降り積もるドルネジチアの雪よりもさらに白い、陶磁器のような白肌。玉座に流れる髪は、まるで時が凍り付いた純白の滝のようだった。一本一本が冷気を纏い、魔界の淀んだ光の中でさえダイヤモンドダストのように微細な輝きを放つ長髪。その一部は、まるで氷の王冠を編み込むかのように、複雑かつ優雅に結い上げられていた。
身に纏うのは魔王の正装たる、絶対零度の威厳を体現したかのような氷青色のエンペラードレス。その胸元は白銀の装飾甲と一体化しており、装飾甲の中央にはドルネジチア魔国の国章である『永劫の氷河』を模した紋章が冷たく刻まれていた。
重厚な生地には、まるで氷の結晶そのものを縫い付けたかのような精密な銀糸の刺繍が施され、ドレスの各所を彩る宝玉は極地のオーロラを封じ込めたかのように淡く明滅している。また、彼女の耳元では星々のような氷晶の耳飾りが、冷気を受けて微かに揺れていた。
しかし、何よりも見る者を圧倒するのは、その瞳。
全てを見透かし、全てを凍てつかせる冷徹な蒼い眼差しは、彼女が女性である前に、圧倒的な『強者』であることを示唆していた。
その抜きん出た実力と、万物を停止させる冷酷なまでの統治から、彼女は『氷河の女王』と畏怖されている。
「脱走はあり得ぬ。ならば人為的なものか……。実際、もうあれは主と接触……」
青年はやれやれと言わんばかりに肩をすくめ、片膝をついたまま顔を上げた。
その態度は、女王に対するものとしてはあまりに不敬であったが、女王はそれを咎めない。
「やっぱり、女王陛下にも観測できました? グランドシオルで観測された、あの力。さすが 、感知能力がズバ抜けてるっ」
「……チルノーヤ。そなたか」
女王は青年──チルノーヤのチャラついた口調を意に介さず、鋭い視線を彼に向ける。
「グレイがなぜ自ら人間界へ赴いたのか……そうか。『光の子』……やはり 目覚めてしまったのだな」
「ええ」
チルノーヤは先ほどまでの怠惰な雰囲気を消し、冷徹な笑みを浮かべた。
「ご明察です、女王。……私たちの計画の『鍵』は今しがた、地上で旅をしているようです。……やはり、ダマユナセールから逃亡した『それ』が、目覚めさせたのでしょうかね?」
彼は真面目そうだが、どこか楽しげに言葉を紡ぐ。
「────光の子は、完全に覚醒しました」
その整った唇が、残酷なほど美しい三日月の形に吊り上がる。
「……どうやら、俺たちの想像より、随分と景気の良い目覚めだったみたいですよ。グランドシオルの山が二つほど吹き飛んだようですから」
「……力を制御できていないのだろうな。だが、やはり解せぬ。魔界王第二位もその能力を完全に発揮できていないというのに……。マリアネの暗黒もまだおぼつかぬ。グレイもそれを分かっているはず。なぜ、やつらの……『壮大なる計画』の鍵を解いた?」
「それに、『光の使者』の血液サンプルも全く取れてないでしょ。そもそも不朽の栄光のメンバーとの接近も少ない。挙句の果てにはどこにもあるか分からない、大いなる母の子……四神の神器。何にも素材が集まってないというのに、何を考えているんだか」
チルノーヤは肩をすくめ、皮肉な笑みを浮かべた。彼の言葉は女王への報告でありながら、同時に大魔王グレイへの嘲笑を含んでいた。
「……いずれ光の子の力はグレイと『夜魔将官』の計画に支障が出る。ダマユナセールは何を考えている……? あれを解放すれば、その巧妙な手口によって牽制されるだろう。逃げられるという危惧を考慮しなかったのか」
女王は訳も分からぬ様子で、その美しい眉根に深くシワを寄せていた。
「もしくは……わざわざ逃して、光の子を目覚めさせたのか? やつらは先に、計画の危惧となる光の子を始末しようと……いや、グレイとて、少しは苦戦するだろう。……なんせ……」
「ともかく、光の子はまだ生きている。我々の計画が潰れる心配はまだないってことです。七星賢者に言われた通り、我々はいつしかグレイよりも先に四神の神器を手に入れなければならない。まあ……骨は折れますけど」
「……世話になる。お前にも苦労をかけてすまないな」
女王からの珍しく率直な労いの言葉にチルノーヤは一瞬、その怠惰な目を細めた。だが、すぐにいつもの軽薄な調子に戻り、わざとらしく胸に手を当てる。
「そういえば、ヒナは何をしているんです? まだ、大魔王の命令を?」
その名が出た瞬間、玉座を支配していた絶対零度の空気が微かに揺らいだ。女王の蒼い瞳に一瞬だけ、魔王としてではなく、一人の個人としての苦悩の色がよぎる。
「あいつを苦しめたこと……私はひどく後悔している。だがこの道を進んでしまった以上、あいつには任務をしてもらわなければ困る。ひとまず、大魔王の命令には従えとは言っているが……」
「……辛かったでしょうねヒナにとって。仲間を裏切り、混乱をもたらした……」
チルノーヤの淡々とした指摘が、女王の心を抉る。
玉座の肘掛けを握る女王の白い指先に、悔恨の力が込められた。
「私が育て親でなければ……な」
女王はそう吐き捨てると、自らの感情を振り切るように瞳を閉じた。
「……チルノーヤ。退がってよい。引き続き地上の監視を行え。お前の上長らと話を合わせながら、この計画が漏洩することなく続けろ。そして、『光の子』の監視を」
「はい。……ああ、それとドルナーシャ陛下」
チルノーヤは立ち上がり、踵を返す。
「風の噂ですが……魔界王第二位、マリアネはもう生きていないかもしれません」
「……は?」
その言葉に氷河の女王──ドルナーシャは、時が止まったかのように唖然とした。




