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《……なら、マスター。今すぐ、全力でその場から離脱してください。最低でも一キロは……》
「え……あ、うん! 分かった……!」
ただ事ではないアイナの声色に、ツルカは本能的な危険を感じ取り、ただひたすら険しい山道を駆ける。
自分が今、何をしでかしたのか。それを正確に理解したのは、脳内に響き渡るアイナの、もはや怒りというより疲労困憊といった叱責が始まってからだった。
《まず、クエストの達成条件を覚えていますか?》
「……え? えーっと、イワトカゲの討伐……でしょうか」
《その通りです。そして、討伐した『証拠』として、冒険者カードに魔物の遺骸から魔力情報を読み込ませる必要があります。……さて、マスター?》
「……あ」
《お分かりですね。あなたは今、討伐対象を消滅させました。……イワトカゲか知りませんけどね。遺骸どころか、分子レベルでこの世界から抹消したのです。当然、カードに読み込ませる証拠もありません》
「そ、そんなぁ……。じゃあ、クエスト失敗……?」
《仮に先ほどの気配がイワトカゲならば……ええ。失敗です。金貨一枚は泡と消えました。あなたの衝動的な行動によって》
「う……」
予定されていた酒場の豪勢な食事が脳裏をよぎり、ツルカの足がもつれそうになる。
だが、アイナの指摘はまだ序の口だった。
《ですが、そんなことは些事です。いいですか、マスター。もし、あの痕跡が誰かに発見されたら……ギルドや、場合によってはこの地域を治める領主、国がどう判断すると思いますか?》
アイナの問いかけには疲れ切ったような、それでいて深刻な響きがあった。
《そこらの魔物が、あのような広範囲に及ぶ被害を出せると思いますか? いいえ、並の魔物では絶対に不可能です。では、何が起きたと判断されるか》
「……わからない……」
《二つです。一つは、この地における『魔族』による大規模侵攻。そしてもう一つは────『危険種』の出現です》
「き、危険種……?」
《Sランク冒険者ですら単独討伐が困難とされる魔物が『特級種』。ですが、『危険種』はそれすらも凌駕します。もはや魔物ではなく、天災そのものです》
アイナは淡々と恐ろしい事実を告げる。
《推奨ランクは当然S。ですが歴史上、危険種と認定された個体が討伐された例は数十にも満たない。その数十例ですら、Sランク冒険者が何人も犠牲になった上での……辛うじての勝利です。ほとんどの場合、遭遇した時点で即死し、情報すら持ち帰れない。それほどの存在です。……幸い、今はまだあの場所が発見されたという観測データはありません。マスターが放ったエネルギーは、この世界の理から外れすぎていて、通常の魔力観測網には引っかからなかったようです》
「よ、よかった……」
《ですが、それも時間の問題ですよ。あれだけ派手に地形を変えてしまったのです。登山者や他の冒険者が偶然発見したら、どうなりますか?》
「……そ、それは」
《この山岳地帯全域が封鎖され、Sランク冒険者や騎士団による『危険種』あるいは『魔族』の大規模捜索が開始される可能性があります。おそらく、あの爆心地の調査依頼自体が、国家規模のSランククエストとしてギルドに張り出されることになるでしょうね》
「ひぇぇ……!」
自分のほんの威嚇のつもりだった一撃が、一つの国を揺るがす大騒動の火種になりかねない事実に、ようやくツルカの背筋が凍った。
「ご、ご、ごめんなさい……。だって、ちょっと威嚇しようと……」
《……あれが威嚇……ですか》
アイナの声は、途轍もないほどに呆れ果てていた。
《威嚇ごときに、なぜマスターの魔力をそのまま使うのですか。いいですか、マスターが先ほど放ったのは、初級魔法などの類ではありません。マスターが元々持っている、規格外の膨大な魔力そのものでしたよ》
「うぅ……」
《しかも、マスターはそれ以外に、魔力とは根本的に質の異なる『光』と、マリアネ様から受け継いだ『闇』の力もあるのです。もし、そちらが暴走していたら、今度こそこの一帯がどうなっていたか……》
アイナの悲痛な声に、ツルカは自分の力がこの世界にとってどれほど異質で、どれほど危険な代物なのかを今さらながら痛感させられた。
《……マスターは自分の力がどれほど危険か、本当に理解しているのですか。マスターはただの空腹を満たすためだけに今、無思慮に行動してめちゃくちゃにしている……。マリアネ様からもらった自由をこんなことに……》
「ち、違う! そんなつもりじゃ……!」
《ではどんなつもりだったのですか。少しカッコつけたかった? Bランクの魔物を瞬殺して、自分の力を誇示したかった? ……少し、無自覚すぎます》
アイナの言葉が、ツルカの心に針のごとく突き刺さる。
「…………ごめんなさい……」
ツルカは、岩陰で膝を抱えてうずくまった。目にはうっすらと涙が浮かんでいる。
「……僕、どうしたら……」
《…………はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ……》
先ほどよりも、より一層深いため息が脳内に響く。
《……もう過ぎたことをとやかく言っても仕方がありません。幸い、まだ大事には至っていない。……ですが、マスター。二度はありません》
アイナの声が、真剣なトーンを取り戻す。
《これより、クエストが完了するまで、マスターの行動は私の完全な監督下に置きます》
「え?」
《まず、力の行使は私の『許可』なく行うことを一切禁じます。勝手に動かないでください。当然、先ほどのような『魔力』の暴走も封印です。……マスターの持つ『光』も『闇』も、全てです》
「そ、そんな! じゃあ、どうやってイワトカゲと戦うのさ!」
《私が指示します》
「………?」
《マスターが『Cランク冒険者』として適切に行動できるよう、私が一から十まで指示を出します。マスターは、ただその指示に従ってください。魔力を使う際も、私が『こうしなさい』と言った通りのイメージで、言った通りの量だけを行使するのです》
それは、ツルカにとって窮屈極まりない提案だった。
「や、やだよそんなの! それじゃ僕、アイナの言いなりじゃないか!」
《口答えしない。誰のせいでこんな面倒なことになっているんですか》
「それはそう……」
《マスターは、『加減』というものをあまりにも知らなすぎる。自覚がないのです》
「う……」
《それが自覚できるまで、マスターの力の『リミッター』は私が握ります。……いいですね? これが嫌なら、金貨一枚は諦めて、今すぐこの山を降りて、冒険者ギルドに『すみません、怖くて逃げてきました』とでも報告なさいますか?》
「それは嫌だ! お腹も限界だし……」
何より、ここで逃げ帰るのはツルカのプライドが許さない。
「……わ、わかったよぅ。アイナの言う通りにする。……するから」
《……よろしい。では、行きますよ。幸い、ここは山岳地帯。イワトカゲの生息域は広いはずです。別の個体を探します。索敵は私が主導しましょう。マスターは五感を研ぎ澄まし、私の指示に従ってください、勝手なことをしないでください》
「……はい」
ツルカはしょんぼりと立ち上がり、服についた土を払った。
(しにたい……ううっ)
こうして最強の魔法使い? である少女は、その最強のサポーターであるアイナの完全な監視のもと、Cランク冒険者として再出発することになったのである。
先ほどまでの意気揚々としたスキップが嘘のように、ツルカはとぼとぼと荒涼とした岩場を歩いていた。アイナにこっぴどく叱られたダメージは大きく、注意力が散漫になっている。
(うぅ……ボロカスに言われちゃった……。僕だって、あんなことになるなんて思わなかったのに……金貨一枚のために、こんなに苦労するなんて。あー……お腹すいたなぁ……。もうイワトカゲとかどうでもいいから、町に帰ってパンでも食べたい……)
《パンすら食べれないでしょうが。マスター、集中してください。索敵の精度が落ちていますよ。五感を研ぎ澄まして、ほらほら》
「はーい……。でも、どこにもいないよ……」
足場の悪い地面を慎重に歩き、ツルカが大きな岩を回り込もうとした、その時だった。
冷たい粘液が背筋を這い上がるような、強烈な悪寒が走った。
そして、すぐ側からの、視線。
「え……?」
ツルカが錆びたブリキ人形のように、ぎこちなく横を向く。
そこには、いつからいたのか。ツルカが回り込もうとした、まさにその岩肌に同化するように、一匹の巨大なトカゲが静かに佇んでいた。
距離、わずか数メートル。言わずもがな、そのイワトカゲはその爬虫類特有の冷たい瞳で、ツルカを頭からつま先まで値踏みするように見つめている。そして、長く粘り気のある舌を出し、明らかに『美味しそうだ』と言わんばかりに、いやらしい舌なめずりをした。
《岩肌と魔力波長を完全に同化させていますね。なるほど、Bランク指定の理由は隠密性ですか。気づかなかった》
「ひっ……!」
ツルカは驚きのあまり息が止まった。
「……びっくりした……てか……あれーっ。こいつの目、おかしいなぁ。確実に僕を食料として見てるんですが」
《……間違いないでしょうね。Bランク魔物にとって、Cランク冒険者は格好の獲物ですから》
「………」
全身を駆け巡る本能的な恐怖がツルカを襲うが、それはツルカを硬直させるのではなく、むしろ逆だった。
「イヤ……なんですけど」
《……あ、あれ。おかしいですね。なぜ、そんな力んだ握りこぶしを形作っているんです?》
ツルカの頭は、ただ一つの思考に支配されていた。
殴りにかかる。それだけ。
「魔力を使うな」という言葉だけが頭の片隅に残っていたのか。ツルカは魔力ではなく、その華奢な腕に込められた純粋な身体能力だけで、力みきった右の拳をイワトカゲめがけて突き出してしまった。
「ぼ、ぼぼぼ、ぼぼぼぼ僕の前から消えちまえぇぇぇぇぇッ!」
そしてツルカの小さな拳が、イワトカゲの岩のように硬い頭部に物理的に直撃した。
その直後には、イワトカゲの巨体が内側から破裂したかのように弾け飛び、硬い甲殻も、強靭な筋肉も、体液も、何もかもが肉片となって四散する。
だが、ツルカの拳が放った波動は止まらず、イワトカゲがいた場所から後方に向かって衝撃波が一直線に突き抜ける。そこにあったはずの岩を粉砕し、木々を根こそぎ薙ぎ倒し、山肌に数百メートルの『道』を穿った。
遅れて空気が引き裂かれる轟音が響き渡り、衝撃によって抉られた山々が、次々と土砂崩れを起こす地響きが続いた。
ツルカは拳を突き出した体勢のまま、呆然と固まっていた。
先ほどまでイワトカゲがいた場所には、夥しい体液が染みを作っている。そして、その血溜まりの中に、ころん、と、一つの生々しい眼球だけが、まるで何も理解できないというように、ツルカを悲しく見つめて転がっていた。
「………えっと」
《……このおバカさん……もうっ……泣いちゃいそうです……っ》




