個人的な理由かもしれない
きわめて個人的な理由は薊の心中を動揺させた。どうして発した本人がこのような揺らぎを覚えたのかと言えば、ひとえに絶対零度が如く冷たい視線を自分に向けてくる伊野に詰め寄られたくないというのが理由である。酷く子供っぽく、とても今まで彼らを精神的に導いてきた者とは思えないほど小心者の心持である。もちろん、彼自身、こんなことで心を震わせていることに恥じらいを帯びているし、何よりも身内に対して臆病を抱いてしまっていることに申し訳なさを覚えている。しかしながら、申し訳ないと考えていたところで彼の胸中に立つ波風が収まる訳ではなく、彼は強く間隔の短い鼓動を感じながら、冷たい表情を向けてくる伊野を見つめたのである。
薊の心配をよそに、秋等は彼の表情に相変わらずほくそ笑んでいた。それは彼が時たまにしか見せないあまりにも、脆い弱さの珍しさに対するモノであり、子供らしさを隠し通そうと愚かにも藻掻いている一人の少年に対するからかいも含んでいた。自らの感情を制御しようと奮闘する彼の子供らしい面影が、秋等の目には一種の喜劇のようにしか映らなかったのである。そして、秋等は嗜虐的な嗜好を少々持ち合わせていたため、彼の眼が不安定になり始めると、より深く、より高く秋等の笑みは強調されたのである。
性格の悪い技術者を背後にする伊野は、秋等のことなど知らず、相変わらず薊を見つめ続ける。その視線は彼の度胸を値打ちするようであり、彼が先ほどと同様の下らない嘘を吐いていないか審査する感情も兼ね備えていた。伊野の視線に内なる臆病を抱える彼が、怯えるのはある意味必然なのかもしれない。そして、この必然を考えた時、現実から目を背けて、安易な嘘で安易な安息を得ようとしなかった彼は、勇敢であるとある意味言えるのかもしれない。もちろん、この勇敢さとは、平生におけるモノとは異なり、大した価値があるわけではないのだが。
ともあれ、薊は伊野の視線に晒されながらも、表面上は臆することなく伊野を見つめた。ハリボテではあるが堂々たる彼の姿勢は、見るモノに英雄的な幻影を見せてしまう。ただし、彼の内情をなんとなく理解している者からすれば、彼の表情から姿勢まで何もかもが作られたものでしかなく、極めて粗末な贋物にしか見えないのである。
しかし、薊の態度が贋物だとしても彼の言葉は真実であった。彼は本心から新庄がどうして天国の鍵計画というモノを打ち立て、そのために行動しようとしているのか、そして不動兄妹や八千代をどうして必要としたのか、唯一無二の兄弟であるはずの月山が死んでも動揺していないのか、そもそも計画が一体の全容がどんなモノかを、彼は持ち前の好奇心から知り得たかったのである。ここには彼の甘さである性善説的な性格が表れていた。つまり、彼は暗幕の内側にあるモノを観測せずに新庄らを殺すことに、未だに不当さを感じていたのである。そして、この不当さを改善するためには新庄に聞くほかないと彼は考えたのである。もちろん、楚日が渡してくれた書類と山科の家にあるであろう秋等がどこからか持ってきた情報を読めば、新庄の思惑は分かるのであろう。しかしながら、彼は書面上のことで暗幕の裏側を認めたくはなかった。彼は自らの耳で、ことの張本人である新庄の口から直接、天国の鍵計画がいかなる大義を持ってして行われるのかを聞き出したかったのである。
「でも、君は第十三研究所であいつの目的を聞いたはずだろ? あいつはただこの世界が腐っているから、頑張った者が報われない不条理な世界を変えるためにやっているんだって言ってただろ。これだけじゃ不満なのかい。僕としては、納得できる十分な理由だと思えるんだけどさ」
ただし、伊野の言葉に現れているように薊は第十三研究所において、新庄と対峙したとき、新庄の口から新庄の思想を聞いている。この時点で、彼の目的は達成しているのだ。したがって、彼の言い分は過去に解決した問題を蒸し返しているにすぎないのだ。これは時間の無駄であり、一蓮托生を背負った自分たちの輪を乱すことになる。この愚かな言動を伊野が許すはずがないのである。もっとも、伊野を説き伏せるだけの理由があれば話は別である。
「いや、あの言葉が真実だとは思えねえんです。もちろん、本音も幾らか含んでいるとは思います。けど、あの言葉は急場しのぎの、自分の感情を排した言葉でしかないと思うんです。言っちまえば、公的な思想しか含まれてないと思うんですよ。個人的な思想が含まれているとは思えないんです。人間、どんだけ偉いこと言ってても根底には個人的な感情があるはずでしょう? だのに、野郎の口から聞いた言葉には自分の感情はなかったんです。だから、俺はそこが知りたいんです。あいつが一体、何を契機にしてあんなことを考えたのか知りてえんですよ」
行動を否定されかけた薊は、伊野に向かって必死に言葉を返した。それは伊野を説き伏せるには十分な理由であると考えられた。
「……なるほど」
そして、薊が考えた様に伊野は彼の言葉にある程度の納得を見せた。
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