オフィス!
真っ黒な扉が開かれた先には、先ほどのような白一色の景色は広がっていなかった。そこは灰色の化学繊維が敷き詰められた、ホワイトワーカーが働くオフィスの一部であった。薊と秋等は今自分たちが居る空間と、目の前に広がる極めて普遍的な空間とのギャップに目を見開いた。先ほどまで浮世離れしていたのにも関わらず、今は現実が広がっている。しかも、そこは普通の人が働いていそうな、これまで見てきた技術都市の研究施設の中で最も俗社会に近い雰囲気が漂っていた。
しかしながら、三人の目の前に広がるオフィス風の光景にも、やはりというべきか気味の悪い冷たさはあった。それはこれまで受容してきた機械的な冷たさではなく、人が居るのにもかかわらず感情がどこにもない事務的な冷たさである。誰もが自我を仕事に向け、自己を忘却しているような空気が目の前に満たされていたのである。
ただ、これまで感じてきた空気に比べれば、新種の精神的な冷気は感情に全く作用しなかった。普段から往来している伊野はもちろんのこと、修羅場を潜り抜けてきた二人にしてみれば、反って心地よいと思えるモノであった。
わざと尊大な心持を持った二人と慣れ親しんだオフィスに嫌気を覚える伊野は早速、硬いタイルに設置していた足を柔い柔毛の上にあげた。薊と秋等は、カーペットに足が着いた瞬間、敵の根城に居るのにもかかわらず、張り詰めていた警戒心を緩ませた。あまりにも日常的な感触が、二人の心持を平生へと戻したのである。
コンクリートに塗装を施した白い壁と灰色のカーペットが織りなす空間は、真っ白なフロントに比べて暗いように思えた。だが、それは錯覚でしかなく、実際は法則性の見えない黒い斑点の模様が入った天井に埋め込み式の電灯が設置されており、灯りは万全に保たれていた。このため徐々に目が廊下の薄暗さに慣れてくると、日常生活の明かりが彼らの目にもたらされた。
「さて、ここが僕らの福音機関だよ」
彼らは巨大なエレベータの扉が閉じて壁に溝として同化すると、彼らは見どころの無い普遍的な空間に取り残されたことを意識的に認めた。そして、本当につまらない空間の中で、伊野はやけに明るい声を彼らに向けて放った。到着まで伊野が見せていた暗い表情は、どういう訳かなくなっていた。この明るさは二人の心持を温め、緊張によって表情を失っていた顔に微笑をもたらした。微かに緩んだ後輩の顔を認めた伊野もまた頬を緩めた。
「まっ、仰々しい名前がついていても所詮はただのオフィスさ。何の変哲もない書類を処理して、業務を確認して、意味のない会議をする場所だよ」
「酷い言いようですね。なんかいいところは無いんですか? 腐ってもこの都市の顔が所属する組織なんですから、あるでしょ、そういうところ」
首を横に振りながら、やれやれと言った身振りを取る伊野に、薊もふざけた調子で問いかけた。彼自身、自分たちと敵対している組織の良いところなど聞きたくはなかったが、自分で自分の所属している組織を卑下する先輩の言葉もあまりに聞きたくなかった。そのため、彼は伊野の口から出る言葉をポジティブなモノにしようとしたのである。もっとも、この動機付けを彼にさせた伊野の言葉が、彼の心理に大きく影響したわけではない上に、この動機について真面目に取り合おうとは思わなかった。しかし、最悪の場面を想定して、彼は空気が再び暗くならないようにと、ポジティブな言葉を伊野の口に求めただけなのである。
薊はおふざけ半分に尋ねたことであるが、どうやら伊野は珍しくこれを真面目に受け取ったらしく、顎先に指をあてがい考え始めた。予想から外れた行動を伊野がとったことに、彼は口をO字に開いてわざとらしく、コメディカルに驚いた。この相反する二人の様相を眺めていた秋等は一時の余興を黙って、微笑んで見つめていた。
「うーん、ここの良いところなんてなんも無いよ。つまらない場所だよ。強いてあげるとすれば、美男子、美少女と触れ合えることくらいかな? あいつら、顔は全員良いんだよ。驚くべき法則だね」
暫時、悩んで伊野が弾き出した回答は聖使徒たちの見た目に関する事柄であった。伊野の回答は薊にとって腑に落ちる回答であった。このため、彼は閉口して、うんうんと頷きながら伊野の回答に同意の姿勢を見せた。
「そいつは確かに良いですね。俺たちのことを殺そうしてくる奴らばっかりですけど、顔は良いですからね。もしも、奴さんたちがろくでもないことを考えてなかったら、俺も腰を据えて話してみたかったですよ。もちろん、美少女の方とですけどね」
しばらく頷いて、連続的な動作を止めた薊は伊野に向けて爽やかな笑みを浮かべた。向けられた伊野はもちろんのこと、傍らで彼の笑みを見てた秋等も、彼の喜劇な言葉と表情に無理がないことを認めた。同時に彼の紡いだ言葉に、一切の虚飾が無いことも。
「薊、君は現金な奴だね」
「男の性ってやつですよ」
サムズアップしながら薊はキッパリと伊野に言い切った。
「だから、ダーリンはモテないのよ。それにダーリンくらいのフツメンじゃ、美少女は多分取り合ってくれないわ」
「馬鹿言うんじゃねえよ、秋等。目の前にいる美少女さんは、俺たちと取り合ってくれたんだからよ。十級の俺らでもよ」
「けど、それって喜多のおかげでしょう?」
「ぐうの音も出ねえことを言わねえでくれよ」
伊野から視線を移した薊は秋等と場を温めるコメディに興じた。人知れず顔を赤らめる先輩に気付くことなく。
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