外の空気
外は山科の言葉とは異なり、雨は降っていなかった。と言っても、凹凸の無い地面は濡れており、空気は梅雨独自の湿気以外の湿気も含んでいたため、ほんのついさっきまで雨はこの都市に降っていたのであろう。植物の無いコンクリートの無機的な都市であっても、自然現象の下にあったのだ。
鉛色のどんよりとした雲の下に出た三人は、それぞれ肺に新鮮な空気を取り込んだ。地下室の籠った空気では味わえない灰色の湿気は、三人の肺を満たし、まだ微かに寝ていた薊と秋等の体を目覚めさせた。すっかり、ガス交換を終えた二人は曇った調子を見せることなく、普段通りの快活な様子を取り戻した。そして、二人の目覚めに伊野は微笑み、喜びを示していた。
喜びと狭苦しい空間からようやく解き放たれたことによる解放感から、伊野は陽気なステップで錆び付いた扉の前から路地の終わりへと飛び出していった。無尽蔵の明るさとでも言えば良いのだろうか、小さな子供が持つ無償の喜びを伊野は今、持ち合わせている。いい意味で理性を捨てたその様は伊野の背中を見る二人の頬を緩ませた。
ただし、呆然と立ち尽くしていては置いて行かれるばかりである。そして、置いて行かれた場合は連絡を取って再び伊野と合流しなければならない。そのような二度手間を取るくらいならば、凝り固まった体に鞭を打って、無理やりにでも動いた方がよっぽど良い。このため、二人は関節が十分に解れていない体でもって走り出した。
雑踏の中に関節の鳴らすぽきぽきという音が、すっかり溶け込んでしまった頃、軽い足取りで福音機関に向かう伊野に二人は追いついた。朝目覚めてから、いきなりの運動であったため、平均以上の体力がある二人でも息は切れ切れであった。短いスパンで、肩で呼吸をする二人を見て、伊野は心配と同時に悪戯っ子の笑みを浮かべていた。それはもう無邪気な心配と笑みである。
平日の真昼間、それも技術都市の第一区というこの都市の存在意義を成す区画には多くの研究員たちが慌ただしく、往来していた。そうした中で、明らかに学生身分であることが分かる三人の存在は嫌という程目立った。つまるところ、誰もが三人を横目に見て、誰もが否が応でも三人に注目する事態が彼らに訪れたのである。基本的に注目を嫌う秋等と薊は、通り過ぎる者たちの視線に絶え間ない不快感を示した。しかし、伊野に関しては聖使徒に列席されていることから無条件に注目されることは慣れていた。その上、あらゆる方向から敵に狙われている自分たちにとってこの注目はまたとない好条件であった。テロリストが最も恐れることは、自らがテロリストだということが大衆にバレることなのだから。
したがって、二人と伊野との間には現状における認識の誤差が生じているのである。
ただし、認識の誤差と言っても二人は伊野が今の状況を好機と捉えていることをすぐさま悟れたために、ここに何らかの弊害が生じたわけではない。そのため、二人は集中による不快感を併呑し、足取り軽く歩く伊野の背中に追従することとしたのである。
しかし、歩いてゆく中で二人は息苦しさを覚えた。それは人通りの多さによって生まれたモノではない。それは技術都市第一区という特異な環境、つまり無数の研究所が立ち並んでおり、その施設においては想像もつかないような実験を行っているという事実がもたらした息苦しさである。また、これまでの経験による印象も大きな影響を与えている。
四方八方から感じられる知性による暴力は、二人の胸中に波風を立てた。それは徐々に不安となり、面の皮がどちらかと言えば薄い薊は、不自然にあたりをキョロキョロと見まわし始めた。彼の言動は悪目立ちをするモノである。
ただし、この彼の胸中に存在する不安が増殖し、いよいよ彼の精神にまで影響を及ぼしたのならば、二人は彼に対する厚いケアを施さなければならなかった。この手間を省くために、彼の不安を誰よりも先に悟った秋等は彼に声をかけることとした。
「ダーリン、落ち着きがないけど、どうしたの? もしかして緊張してるの?」
なるべく砕けた調子で秋等は傍らを歩く薊に問いかける。
「緊張はしてねえよ。ただ、少しばかり前のことが頭をよぎってさ。あちらこちらの研究所が、情けねえことに怖く見えちまうんだよ。形容しがたいさ」
「まっ、確かにしょうがないわね」
「だろ? それにこのクソみたいな感情の原因は俺にしかねえから余計に厄介なんだよ。ただの幻影だってことにしちまえば、楽になれるんだろうけどよ。もどかしくて仕方がねえよ」
そして、秋等の問いに薊は自己嫌悪の体裁を帯びて答える。
「そこまで分かってるのに難儀ね」
「難儀なことだよ、マジでさ。不安なんかねえ方が良いに決まってるのにさ」
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