眠たい中で
眠たい空気を肺から吐き出すと、秋等は立ち上がり、口をすすいだ。そして、固まった体の節々を伸ばすと大きく深呼吸をして、厚い胸板を膨らませた。一連の動作は一切の無駄がなく、それこそアスリートの準備動作のように思えた。全てがスマートであり、最小限の行動に抑えていたのだ。
しかし、彼らは秋等の行動を見ていたわけではない。彼らは各々するべきことをしていた。八千代は薊に対して、自らも行動に協力する旨を伝え、彼はこれに真っ向から反対した。そして、半ば喧嘩同然の空気となる兄妹間を取り持つように伊野と氷花は、冷静になるように二人の会話を取り持った。また、その一方では瑞雲、山科、播磨とで現在手にしている敵対者たちの情報をやり取りしており、懊悩しながら自分たちが行う殺人計画を立てていた。そして、唯一殺人を肯定することの出来ていない喜多はソファに座り込んで、我関せずの調子で文庫本を静かに読んでいた。普段は見せない喜多の知的な表情は、端正な顔立ちだということもあって非常に映えていた。
かくして、秋等ははぶられており、彼らの輪の中に入れていなかった。秋等は疎外感を覚えながらも、冷えたフレンチトーストをかじり、IDパスを弄り、自らの仕事を開始した。
秋等が任された仕事は非常に難解なモノであり、秋等自身、現在の体力でこれを完遂することはできないと感じていた。加えて、作業する場所にこだわりのある秋等にとってこの雑然とした空間で作業することは耐え難いことでもあった。物理的な難しさと、秋等の抱える気難しさにより、秋等はIDパスを取り出して、早速仕事に取り掛かろうとしたモノの秋等の指が動くことは無かった。秋等はただぼうっと、IDパスに表示される自らの基本情報と外の世界で起きているニュースと天気予報の文字列を見つめているだけであった。
頭が働かず、呆けている調子の秋等は本を読んでいた喜多の目に着いた。合理的にかつ短時間で物事を解決してゆく秋等を見慣れていた喜多にとって、現在の秋等は不自然に見受けられ、文字の行列に集中していた喜多は立ち上がって、キッチンの壁に背中を預けながら遠い目をしている秋等の下に近づいた。
一切の集中を空想に費やしているような秋等は、喜多の接近に気付くことは無かった。秋等の意識は、この地下室とIDパスに向けられておらず、ずっと遠くの、手に掴むことの出来ないふわふわとした何かに向けられていたのである。したがって、喜多が秋等の肩に手を置いて、ニカッとした笑みを浮かべた時、秋等は柄にもなくびくりと体を震わせたのだ。無意識的に、秋等の意識を現世に戻してしまった喜多もまた、秋等と同じように体をびくりと震わせてしまった。互いが互いの言動に驚き合う様子は、極めてユーモアあふれる瞬間であった。
「なんだよ、狩谷。驚かせてくれんなよ」
「それはこっちのセリフよ。何か言ってから、人の体に触れてちょうだいな。デリカシーが無いわね」
「そいつは結構聞く言葉だぜ……。薊と行った合コンの時も言われたしさ」
「まっ、そこがアナタの良いところよ。変に緊張して気を遣うよりも、アナタみたいに単純な思考回路でパッと行動に移せるほうがいい時もあるしね」
秋等から急に貶されたかと思いきや、急に褒められた喜多は虚しいのやら嬉しいのやらよく分からない混在した感情となってしまった。戸惑う喜多の阿保らしい表情は、秋等にとって微笑の対象となり、喜多にとってはむず痒い苛立ちの対象となった。
暫時、二人間の笑みは続いた。それまで眉間に皴を寄せていた秋等の気難しい緊張もすっかり解れ、喜多も受容し続けていた殺伐とした緊張を吐き捨てることが出来た。基本的に真面目腐った空気が苦手な二人は、そうやって冷たい空気の中に微かな暖かさを取り戻したのである。
しかし、微笑の時間がいつまでも続くという訳でない。もちろん、肉体的な笑いが消えたとしても、そこには精神的な微笑の温もりが残り、二人の間には会話を弾ませやすい土壌が残ったことは考慮しなければならない。したがって、二人は互いの表情から笑みを消しながらも、面の皮の奥では笑い合ってるという状況を生み出したのである。
「それで何をぼうっとしてたんだよ。狩谷らしくないじゃん」
そして、喜多は一切の御託を入れず、純粋に気になったことを秋等に尋ねた。
「まあ、そうね。まだ疲れてるのかしらね。なんだか、こう、言い表せないんだけど、酷く気が重いのよ。自分で判断したのにも関わらず、本当にそれが良かったのかって思っちゃってね。そのせいで疲れが取れないのかしらね」
「そりゃあ、どうしようもねえことだな。俺がどうこう言える立場じゃないし。未だに迷ってる俺が言えることは無いよ」
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