嘘っぱちの気怠さ
一か月ほど空いてしまい申し訳ありません;;
操作は薊によって行われた。人間として持ち合わせる逃避への意志は大いに働いていたが、それでも伊野と喜多のために決死の覚悟をもってしてIDパスを操作したのであった。その指はぶるぶると震え、呼吸はほとんど反射運動のそれと同意義なのにもかかわらずひどく浅くなっていた。
唐突になされた所業に、傍らの伊野は目を見開いた。端正な顔立ちは瞬く間に年齢相応のあどけなさを纏い、一文字に閉ざされた口からは生暖かい乾いた息だけが漏れ出ていた。静けさの内に、緊張の絶頂を迎えた伊野は薊の顔を見上げた。自身ではなく開かれるだろう扉だけを見つめている少年の顔つきは、異常時であったとしても不安になるほど青白く、わなわなと唇を震わせていた。後輩が示したこの著しい緊張は、伊野に体裁上の安心をもたらした。役割の安心である。眼前の少年は未成熟な精神では負いきれない責任を蛮勇に近しい衝動によって動かし、それが現実に実現されてしまったことに慄いてしまっている。しかも、それは自分たちの様な聖使徒ではなく、技術都市において最下層に位置する第十級の著しく弱い後輩である。なるほど、伊野は頼れる先輩という像を、空間を満たす空気によって要請され、それ自体は少女に仮面の装着を許可する承認でもあった。したがって、伊野は顔に彼らと初めて出会った時の仮面を取り繕った。意地悪く、飄々として、世間をなめ腐り、義務と責任の関係に態度が付きまとわないと豪語するような自然な仮面を。
「何も心配する必要なんてないよ。君は十級で、僕は聖使徒なんだから。君はただ僕の背中に隠れて、僕があいつをぶっ殺すさまをケタケタ笑いながら見守ってればいいさ」
伊野はあからさまに声を明るくして、薊の背中を叩きながらそう言って笑った。火野の殺害に際して彼に浮かべてほしい態度のお手本の様に。その様は確かに明るくはあった。間違いなく安っぽいサイコホラー映画の快楽犯にはなりえていた。だがどこまで行っても劇でしかなかった。
三文芝居は演者自身がそれを喜劇として納得しているのならば、賞賛されるべき最も尊き喜劇である。しかしながら演者がこれを喜劇として承認していない場合、ごくごく真面目にシリアスを演じているのにもかかわらず、転倒して演者の本意から明らかに外れている場合においてはただ悲劇である。しかもそれは良く作られた文学上の極点に達している悲劇を通り越した最も目を逸らしたくなる羞恥の悲劇となる。
さて、伊野の態度が薊の目にどのように映ったのかは言うまでもない。音を立てず、動作に停滞なく、すらすらと開かれ行く扉だけを見つめていたとしても、声のこわばりを見過ごせるほど彼は鈍感ではない。他者の痛みを理解できる弱者としての彼はバシバシと自らの背を叩いてくる先輩の、頼りがたい山門芝居の演技染みた掌に、奥歯を噛み締めてはにかむのであった。儀礼に則した微笑が自分たちの関係に、何ら影響を及ぼさないと把握しながら、彼もまた痛ましく「確かに、俺がどうこうしようと伊野さんの方がすげえ強いですもんね」と、やけに強張った軽口を叩いたのだった。
痛々しい冗談の後、彼らは冗談では片づけられない現実の重々しい塊に直面した。その開けた空間——非常に白く、非常に清潔で、非常に長く、非常に高く、非常に牢固で、非常に無機質な空間を前にして、二人は固唾を飲んだ。そこはただの牢獄のようであった。いつか、遠い昔、ゴールデンゲートブリッジの向こう側の島に作られた監獄の様に、壁に沿って錆び一つない覗き窓だけが付けられた扉が付けられ、その他には何もない空間は二人の行為のために用意された場の様にさえ思えた。つまり、それは死刑囚と生臭い殺人であり、不自由と自由であり、法と罰であった。
自分たちに与えられた役割とこれに対応する表象を前に、二人の痛ましい喜劇は幕を閉じ、空想の明るさは現実に飲み込まれて無感情の淵に沈んでいった。
ご覧いただきありがとうございます。




