諧謔も力になる
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ファイルに綴じられた夥しい量の専門用語を播磨は流し読みした。傍から見た彼の動作というのは、自らの言葉の体裁を取り持つためだけの行為でしかなく、確認という精緻な作業を実施しているとは到底思えなかった。行為者の知能に全幅の信頼を置いていたとしても、行為それ自体には疑念がよぎってしまったのだ。
自らの責任を引き継いでくれた相手に対して不躾ではあるが、瑞雲は播磨に対して逡巡を覚えた。それはすぐさま同様の視線として現れた。他者が自分自身に向けてくる審議の視線というは、彼自身にとって非常に不快なモノである。ことさら一個人対一個人の相手を記号化し、価値を測定する行為は不愉快極まる行為であろう。このために(あるいは、播磨自身の敏感な人間察知能力ゆえに)播磨は英語と数字に溢れた書類から目を外して、瑞雲を見た。ヴァイオレットの瞳には微かな拒絶が滲んでいた。瑞雲自身に対する拒絶ではなく、行為そのものに対する審議への拒絶である。その悲しさと苛立ちが混じり合った視線を前に、瑞雲は息を吐き、眉間に寄った皺を親指と人差し指で揉んだ。瑞雲が帯びていた緊張はこの瞬間、微かに解れ、相も変わらず狂気的な光が宿る双眸に安堵の色を浮かばせた。顔貌と視線の変化は真面目腐って、強張った播磨の表情を緩めた。微かな微笑とともにヴァイオレットの瞳には曇りなき輝きが宿り、世間をなめ腐った思春期男子特有の飄々とした柔らかさを纏ったのである。
「安心しろ、全部読んでるさ。自慢じゃねえが、俺のここは天変地異さえ常識の範疇として捉えられるほど高性能なんだぜ」
こめかみを人差し指で軽く小突きながら播磨は諧謔を漏らした。自らの力が自分自身だけで獲得し得たモノではなく、造られた存在として与えられたモノであり、それを腐らせることのない暴力と脅迫と孤独による徹底的な学習環境。生を一方向に決定され、ここに従属し続けていたために得られた能力は、播磨にとっては傲岸不遜な自身を皮肉るための道具でしかなかった。ニヒルな少年は自嘲中にあった。ただしその徹底的に内的な皮肉も、いま現在は異なる。内部で消費されるだけの自己肯定を汚すだけの言葉ではなく、他者の尊厳を尊重するための言葉に変化した。それは自らを中心として他者を測っていた過去との別れであり、他者と自分を同質として考える相互独立性の保たれた意識への進化でもあった。かくして播磨の諧謔は瑞雲の体裁と尊厳を守るだけの言葉へと変化したのであった。
自嘲気味な言葉を受けて微笑を示した瑞雲は自身を見つめる少年を見くびっていたことを後悔した。それとともに、かつては自分たちを呪縛ゆえに殺そうとした人間の変遷に感嘆した。何千回と廻ってきた世界において、この少年がここまで変化したことはなかった。その今まで生じなかった変化ゆえに、そしてこれまでの経験ゆえに、今回こそは巡廻を打破できるのではないかと淡い期待を覚えた。
「見くびってましたね」
瑞雲はたった一言、そうつぶやいた。
この声に播磨は屈託のない満面の笑みを浮かべた。この表情は瑞雲と八千代の目を見開かせた。なぜ、彼女もまたその反応をしたのか。それは単純な話である。純白なる播磨の表情は魂を喪ったあの男に酷似していたのだ。嘘偽りを嫌い、真っ向勝負のほか知らない正義漢である自分たちの親友である喜多に。
鳩が豆鉄砲を食ったような表情を浮かべる二者に播磨は首を傾げた。だがそれ以上の追求は、おおよそ二人の潤む双眸から無粋であると察した。余計な時間をわざわざ粋ではない事柄につぎ込むのは、最も無為な時間の消費である。そう判断した少年は微かに口角を上げながら、再び書類に視線を落とした。
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