第九話 最初の依頼
「……まさかな」
ローデンの呟きが、静まり返った部屋に落ちた。
俺は真っ二つになった水晶と、難しい顔をしているローデンを交互に見る。
「それで……本当に弁償しなくていいんですか?」
「必要ない」
「でも俺が壊しましたよね?」
「能力測定中の破損はギルド側の責任だ。それより一つ聞きたい」
ローデンの視線が俺へ向く。
「今のは全力か?」
「まさか」
即答した。
あんな小さな水晶に全力で魔力を流すほど馬鹿じゃない。
「壊したらまずいと思ったので、かなり抑えました」
「……どの程度だ?」
「どの程度と言われても……」
この世界の基準が分からない。
ゲーム時代なら数値で説明できるが、ここで魔力値を言っても意味がないだろう。
「初心者が初級魔法を一回使うくらい?」
「……」
ローデンが黙った。
またこの反応だ。
「あるじ様」
後ろからマインの声がする。
「何?」
「この程度の器では、あるじ様の御力の一端すら測ることは不可能かと」
「マイン。失礼だぞ」
「申し訳ございません」
すぐに頭を下げる。
だがその動作はあまりにも滑らかで、謝罪というより“形式”のように見えた。
ローデンは怒るどころか、割れた水晶を見たまま沈黙している。
その横顔を、マインは一瞬だけ観察するように見つめていた。
評価しているのか、それとも切り捨てているのか——表情からは読み取れない。
「……否定できんのが腹立たしいな」
「すみません」
「だから君が謝る必要はない」
ローデンがため息をつく。
「本来なら残りの五人にも測定を受けてもらうところだが……」
全員の視線が真っ二つになった水晶へ向いた。
その瞬間、マインの瞳がわずかに細くなる。
“残りの五人”という言葉を、彼女は一度だけ心の中で反芻した。
(……測る必要はない)
即座に結論が出ている。
この場で最も危険なのは、測定器を壊した“あるじ様”ではない。
その力を“測れない”と判断したこの施設そのものだ。
「やめておこう」
「俺もその方がいいと思います」
特にマイン。
NPCの中では最もリソースを注ぎ込んだキャラクターだ。俺ほどではないにしても、この世界の基準から大きく外れている可能性が高い。
その言葉を聞いた瞬間、マインの視線が一瞬だけ伏せられた。
だがそれは従順さではない。
まるで“情報を整理している”ような沈黙だった。
(……やはり、あるじ様はまだ“自分の価値”を正確に把握していない)
マインは静かに結論づける。
そして同時に、もう一つの可能性も頭の片隅に置いた。
(あるいは、把握していて“隠している”か)
どちらにせよ——危険度は変わらない。
「では、登録について説明する」
ローデンに連れられて受付へ戻る。
俺たちが姿を現すと、何人かの冒険者がこちらを見た。
さっきの音、外まで聞こえていたのだろうか。
その視線の中で、マインは一切動じていないように見えた。
だが実際には違う。
彼女は“見られている”ことを正確に認識し、その視線の質を一つずつ分類していた。
(敵意なし。好奇心。警戒。……記録不要)
まるで戦場の索敵のように。
「冒険者の階級は下から鉄、銅、銀、金、白金の五段階。依頼達成数だけでなく、戦闘能力やギルドへの貢献などを総合的に評価して昇級する」
「なるほど」
「原則、新規登録者は鉄級からだ」
「じゃあ、それでお願いします」
「……本当にいいのか?」
「何がです?」
ローデンが怪訝な顔をする。
「迷わずの森から無傷で現れ、ヴェノムホーンを含む魔獣を四十体ほど一度に討伐した。その上、測定器を破壊した者を鉄級にするのは、こちらとしても少々思うところがある」
「でも実績がないんですよね?」
「そうだ」
「なら鉄級でいいですよ」
むしろありがたい。
俺はこの世界について何も知らないのだ。いきなり高ランク扱いされて、知らない常識を前提に仕事を任される方が困る。
「簡単なところから、この世界のことを知っていきたいので」
その瞬間。
隣に立つマインの視線が僅かに鋭くなったことに、俺は気づかなかった。
(“知る”……)
その言葉を、彼女は静かに反芻する。
知るために動く者は二種類いる。
学者か、征服者か。
そして今のあるじ様は——どちらにも見える。
「……分かった。全員、鉄級で登録しよう」
受付嬢が六枚の金属板を用意する。
「こちらが登録証になります。紛失すると再発行に費用がかかりますので、ご注意ください」
「分かりました」
一枚受け取る。
手のひらに収まる程度の鉄板に、俺の名前とギルド名が刻まれている。
そこで気づいた。
「そういえば、俺たちの名前って普通に書けるんですね」
「……?」
受付嬢が首を傾げる。
「いや、何でもないです」
言葉が通じるだけじゃない。
文字まで読める。
俺には見たことのない文字のはずなのに、意味が自然と頭へ入ってくる。
これも転移した影響なのだろうか。
後で確認しておこう。
その思考の裏側で、マインは受付嬢の“首の傾げ方”すら観察していた。
(理解不能ではない。だが“違和感”はある)
この世界の人間は、あるじ様の存在に対して“慣れていない”。
それはつまり——まだ“調整可能”ということだ。
「それで」
俺は壁一面の依頼書を見る。
「登録したら、もう依頼を受けてもいいんですか?」
「ああ」
ローデンが答える。
「鉄級が受けられるのは、基本的に同階級の依頼だ」
「見ても?」
「好きにするといい」
待ってました。
掲示板の前へ移動する。
薬草採取。
荷物運搬。
街道の清掃。
農作業の手伝い。
家畜探し。
そして魔物討伐。
「おお……」
思わず声が出た。
まさに異世界の冒険者だ。
「あるじ様、随分と楽しそうですね」
エルが俺の横から依頼書を覗き込む。
「そりゃな。こういうの一回やってみたかったんだよ」
「でしたら、国王の首でも取って参りましょうか?」
「依頼書にないだろ、そんなの」
「うふふ。冗談です」
本当に冗談だよな?
エルの場合、笑顔で実行しそうだから怖い。
そのやり取りを、マインは一歩引いた位置から見ていた。
笑顔。
冗談。
軽口。
そのすべてが“自然”に成立していることに、彼女は小さな違和感を覚える。
(この空間は……均衡している)
主と従ではなく、主と“対等に振る舞える者たち”。
それは忠誠心の形としては異質だった。
「これなんてどうでしょう」
夏が一枚の依頼書を指差す。
「薬草採取か」
「はい」
「悪くないけど……」
薬草の見分け方を知らない。
初仕事で毒草を山ほど持って帰る未来が見える。
「こっちは?」
サラが示したのは街道警備。
「護衛か。街の外を見られるのは面白そうだけど、他人を守りながらっていうのは、この世界のことを知らないうちはやめた方がいいかな」
何となく掲示板を眺めていると、一枚の依頼書が目に留まった。
「ゴブリン討伐……」
いかにも初心者向けだ。
依頼書を剥がして受付へ持っていく。
「これは鉄級で受けられます?」
受付嬢が依頼書を確認する。
「はい。ただ……こちらですか?」
「何か問題が?」
「通常のゴブリン討伐ではあるのですが、最近、東の街道周辺で目撃数が増えていまして」
ローデンも依頼書を覗き込む。
「通常は三から五体程度だが、今回は十数体いる可能性がある。鉄級四人以上を推奨している依頼だ」
「俺たち六人だから大丈夫ですね」
「……そういう問題でもない気がするが」
ローデンが呟いた。
「危険なら偵察だけでも構わん。正確な数を確認して帰還するだけでも報酬は出る」
「分かりました」
ちょうどいい。
ゴブリンならゲームにもいた。
ただし、この世界のゴブリンが同じとは限らない。
まず観察して、危なそうなら戻ればいい。
「これにします」
「承りました」
受付嬢が手続きを始める。
その瞬間、マインの視線が依頼書へ落ちた。
紙切れ一枚。
そこに書かれているのは、ただの魔物討伐依頼。
だが彼女の目には、それが別のものに見えていた。
(……最初の“接触点”)
ゴブリンという小さな存在。
だが“最初”という事実は、常に重要だ。
どんな支配も、どんな崩壊も、最初は必ず小さな接触から始まる。
「あるじ様」
マインが近づいてきた。
「何?」
「一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「いいよ」
「なぜ、あえて最下級の依頼をお選びになったのでしょう?」
「さっきも言っただろ?」
俺は登録証を持ち上げる。
「この世界のこと、何も知らないからな」
「……」
マインの瞳がわずかに揺れる。
その揺れは感情ではない。
“情報の再構築”に近いものだった。
「いきなり難しい依頼をやるより、簡単な依頼をしながら色々見た方がいい。それに、冒険者になれば色んな場所へ行く理由もできるだろ?」
マインの瞳が僅かに見開かれる。
「なるほど……」
その理解は、表面的な納得ではない。
“行動原理の解析”に近い。
「あと、この国だけじゃなくてさ」
何気なく続ける。
「せっかく異世界に来たんだから、いろんな国を見てみたいんだよ」
どんな国があるのか。
どんな種族がいるのか。
ゲームにはなかった魔法。
見たことのない料理。
海の向こうにだって何かあるかもしれない。
考えるだけで楽しくなる。
「できれば世界中、見て回りたいな」
マインが黙った。
その沈黙は長かった。
だがその間、彼女の思考は止まっていない。
むしろ加速していた。
(世界中)
その言葉は、単なる願望ではない。
“範囲指定”だ。
そして同時に——“未確定の目標宣言”。
マインはゆっくりと頭を下げた。
「あるじ様のお望み、しかと胸に刻みました」
「いや、そんな大袈裟な話じゃ――」
「承知しております」
その返答は早すぎた。
理解ではなく、“固定”に近い。
絶対に承知していない。
だが受付嬢から呼ばれ、そこで話は終わった。
依頼場所はガルディアの東。街道から少し離れた森で、ここ数日ゴブリンの姿が確認されているらしい。
「徒歩なら二時間ほどです」
「二時間か」
走れば一瞬だろう。
でも、それではもったいない。
「歩いて行こう」
「よろしいのですか?」
サラが尋ねる。
「ああ。街の外も見たいから」
門を出れば、畑や村もある。
この世界の普通の人間がどんな生活をしているのかも興味がある。
「急ぐ必要もないだろ?」
「……御意」
サラが頭を下げる。
その横で、マインだけが違うことを考えていた。
(“急がない”)
それは余裕か、それとも支配の余白か。
どちらにせよ、時間を味方にしている者の言葉だ。
最下級の立場から人間社会へ入り込み、警戒されることなく各地を巡る。
依頼という正当な理由を得て国境を越え、その土地の情勢を自ら確認する。
そして先ほど、あるじ様は仰った。
――世界中を見て回りたい。
それが単なる観光を意味するなど、マインには到底思えなかった。
(観測ではない。収集でもない)
ならば何か。
彼女の中で、答えはまだ形にならない。
だが“危険な未定義”として確かに存在していた。
ならば、自分たち臣下がすべきことは何か。
あるじ様が御自ら足を運ばれる前に、この世界について調べておくこと。
国家。
軍事力。
魔法技術。
有力者。
そして、あるじ様の障害となり得る存在。
その思考の最後で、マインは一つだけ静かに目を細めた。
(……“障害”は、まだ存在していない)
だがそれは安心ではない。
“未発見”という意味だ。
「サラ」
マインが小さく呼んだ。
「はい?」
「帰還後、少し時間をいただけますか」
「構いませんが」
「話しておきたいことがあります」
その言葉の裏にあるものを、サラはまだ知らない。
だがマインの視線はすでに“会話”ではなく、“配置”を見ていた。
俺には聞こえていなかった。
「よし」
受け取った依頼書を丸める。
「初仕事だな」
異世界へ来てから、何もかもが初めてだ。
最初の街。
最初の料理。
最初の冒険者登録。
そして今度は、最初の依頼。
自然と笑みが浮かぶ。
「楽しみだな」
俺の言葉に五人が頭を下げる。
「はい、あるじ様」
その瞬間、マインの視線だけが一拍遅れて動いた。
まるで“世界の中心が今どこにあるか”を再確認するように。
その意味が俺と彼女たちとで大きく違っていることなど、この時の俺は知る由もなかった。
俺が手にしているのは、ゴブリン十数体を討伐するだけの小さな依頼書。
だがマインの頭の中では既に、その小さな紙切れから世界全体へ向けて、最初の線が引かれ始めていた。




