第三話 森の常識
森へ足を踏み入れて最初に感じたのは、歩きにくさだった。
「……道がないな」
巨大な木の根が地面を這い、その隙間を腰ほどの高さまである草が埋め尽くしている。苔に覆われた倒木が行く手を塞ぎ、どこを見ても人が通ったような跡はない。
「長い間、人の手が入っていないようですね」
マインが周囲を警戒しながら答える。
夏は俺の後ろ。エルはいつものように地面から少し浮き、マジカは最後尾を歩いている。
不思議な感覚だった。
異世界に来た。
その事実をまだ完全には飲み込めていないのに、五人がいつも通り俺の周囲にいるだけで妙に落ち着く。
ゲーム画面で何度も見た隊列とほとんど同じだからだろう。
完全に一人だったら、とっくに取り乱していたかもしれない。
「サラ」
「はい」
「上から周辺を見てもらえる? 森の外とか、人が住んでそうな場所がないか確認してほしい」
「御意」
サラが黒翼を広げる。
「あ、無茶はするなよ」
「……」
「サラ?」
「私の身を、案じてくださるのですか?」
「そりゃそうだろ」
当たり前のことを言ったつもりだった。
だが、サラは一瞬だけ恍惚としたような表情を浮かべる。
「必ずや、ご期待に応えてみせます」
「いや、本当に偵察だけでいいからな?」
「はい」
飛び立つサラを見送り、ふと隣を見る。
マインが少し不満そうに見えた。
「どうした?」
「何でもございません」
「本当に?」
「はい。何も」
……絶対何かある。
だが、今は森の調査が先だ。
俺たちはさらに奥へ進んだ。
十分ほど経った頃。
ガサッ。
前方の茂みが大きく揺れた。
マインが即座に俺の前へ出る。
「グルルルル……」
姿を現したのは巨大な狼だった。
「……でかいな」
全長三メートルほど。額には一本の角があり、口元から紫色の唾液が垂れている。
その一滴が草に落ちた。
ジュッ、と音がして白い煙が上がる。
「毒か」
怖い。
当たり前だ。
画面の中ならともかく、三メートルの狼を目の前にして何も感じないほど肝は据わっていない。
だが同時に、胸が高鳴っていた。
本物の魔物だ。
「創造主様。私が排除いたします」
「待って」
前へ出ようとしたマインを止める。
「俺がやってみる」
「創造主様御自ら?」
「身体がどのくらい動くか確認したい」
魔法が使えることは分かった。
なら、ステータスは?
ゲーム時代の能力がそのままなら、こいつは大した相手ではないはずだ。
でも違ったら?
普通に噛み殺される可能性もある。
「……危なそうなら助けて」
「無論でございます」
即答だった。
少し安心する。
狼が腰を落とした。
来る。
次の瞬間、地面を蹴った。
「っ!」
速い。
そう思った瞬間、俺の身体も勝手に動いていた。
横へ一歩。
「うおっ!?」
景色が飛んだ。
気づけば十メートル以上離れている。
狼が俺のいた場所を通過した。
「……速っ」
俺は自分の足を見る。
ゲーム時代、俺が馬鹿みたいに上げ続けたステータス。
速度。
完全に残っている。
「ちょっと走ってみるか」
地面を蹴る。
世界が流れた。
「ははっ!」
思わず笑った。
速い。
とんでもなく速い。
風を切り、木々の隙間を駆け抜ける。
ゲーム画面では何万回とやったことなのに、自分の身体で体験すると全く違う。
楽しい。
狼が必死に追ってくる。
その先に巨大な猪がいた。
「お」
昔の癖が出た。
猪の横を駆け抜ける。
当然、そいつも追ってきた。
さらに先には熊。
その奥には狼が数匹。
「結構いるな」
だったら一匹ずつ倒す必要はない。
俺は森を走り回った。
一匹。
三匹。
十匹。
二十匹。
気づけば背後から地響きが聞こえている。
懐かしい。
俺がゲームで何年も繰り返した狩り方だ。
「創造主様」
「うわっ!」
突然横から声をかけられた。
マインが何事もないように並走している。
「びっくりした……」
「申し訳ございません」
「どうした?」
「創造主様をお守りしております」
「大丈夫だって」
「存じております」
「じゃあ何で?」
「お側にいたいので」
「……そっか」
真顔で言われると困る。
自分で作ったとはいえ、マインはかなりの美人だ。
しかもサキュバス。
ゲーム画面なら何とも思わなかったのに、こうして隣にいると妙に意識してしまう。
「創造主様?」
「何でもない」
誤魔化すように速度を上げた。
やがて背後の魔物は四十体近くまで増えていた。
「これくらいでいいか」
足を止める。
振り返れば、様々な魔物が雪崩のように押し寄せている。
画面越しなら見慣れた光景。
でも現実に見ると――。
「……結構怖いな」
冷や汗が出る。
失敗したら普通に死ぬんじゃないか?
それでも、魔法の使い方は分かる。
右手を上げた。
「《メテオ・レイン》」
世界が赤く染まった。
空に無数の火球が生まれる。
次の瞬間、それらが一斉に降り注いだ。
轟音。
爆風。
大地が揺れる。
熱風が頬を撫で、思わず腕で顔を覆った。
やがて静寂が戻る。
恐る恐る腕を下ろした。
「……え?」
一匹もいない。
地面には巨大なクレーターだけが残っている。
「弱くない?」
ゲームなら何匹かは残る。
高HP個体。魔法耐性持ち。属性無効。
そういう面倒な奴が混ざるのが普通だった。
「一匹くらい耐えると思ったんだけど」
マインも焼け焦げた大地を見ている。
「私も同意見でございます」
「だよな」
この辺が低レベル地域なのだろうか。
だったら人里も近いかもしれない。
そう考えたときだった。
上空から黒い影が降りてきた。
「創造主様」
「サラ。おかえり」
「森の外を確認いたしました」
「本当?」
「はい。その先に、巨大な城壁がございます」
「街か?」
「人間のものと思われます」
思わず顔が綻んだ。
ようやく、この世界について知る手掛かりが見つかった。
「よし」
俺は焼け焦げた森を振り返る。
「行ってみよう」
このとき俺は、まだ一つ勘違いしていた。
ここが低レベル地域なのではないか、と。
実際は正反対だった。
俺がたった今まとめて消し飛ばした四十体の魔物。
その一体一体が、人間にとって命懸けで戦う相手だった。




