第十二話 海なき街の人魚
「急げ!」
「こっちにも治癒術師を!」
「止血を先にしろ!」
城壁内側の救護区画は混乱していた。
戦闘開始から時間が経つにつれ、運び込まれる負傷者は増え続けている。
爪で腹を裂かれた者。
牙で脚を噛み砕かれた者。
火傷。
毒。
骨折。
治癒術師だけでは到底追いつかない。
その中央を。
エルはゆっくりと進んでいた。
美しい人魚の尾を持つ身体が、地面すれすれを浮遊している。
「ずいぶん大変そうね」
いつもの柔らかな声。
だが瞳は笑っていない。
一人一人の負傷者。
治癒術師の人数。
水の位置。
城壁上から聞こえる戦闘音。
すべてを確認している。
「あなた!」
救護を担当していた女性が叫ぶ。
「戦えるなら城壁へ――」
言葉が止まった。
エルが片手を上げたからではない。
その背後。
巨大な水球が浮かび上がった。
「……え?」
人の背丈ほどではない。
家一軒。
いや。
それ以上。
何十トンあるのか分からない水が、宙に浮いている。
「水が必要でしょう?」
エルが微笑む。
指先を動かす。
巨大な水球から無数の細い水流が分かれた。
それぞれが桶へ。
洗浄用の器へ。
治癒術師の手元へ。
必要な場所へ正確に流れていく。
「傷を洗って。毒がある者はこちらへ」
「毒?」
「血の色が違うでしょう?」
女性が負傷者を見る。
確かに。
魔獣に噛まれた男の傷口が紫色に変色している。
エルが手を向ける。
水が傷口を包んだ。
「少し痛いわよ」
「ぐっ!」
水が螺旋状に動く。
傷口から紫色の液体が吸い出される。
治癒ではない。
毒そのものを水流で洗い出している。
「今よ。治癒魔法を」
「あ、はい!」
治癒術師が慌てて術を使う。
傷が塞がっていく。
エルは次の負傷者へ向かった。
攻撃だけが戦いではない。
それをエルは知っている。
マインほど全体を統率する才はない。
サラほど空中戦に特化しているわけでもない。
夏のような極端な殲滅力。
マジカのようなフィジカル。
それぞれに役割がある。
ならば。
自分には自分のやり方がある。
「あるじ様は、ここを私に任せてくださったもの」
小さく呟く。
なら。
一人でも多く。
守る。
その時。
「城壁中央! 衝撃来るぞ!」
上から声がした。
直後。
ドォォォン!
城壁全体が揺れた。
「きゃっ!」
救護区画で悲鳴が上がる。
巨大な投石。
城外の大型魔物が岩を投げたらしい。
一発。
二発。
城壁へ直撃する。
石片が降り注ぐ。
「伏せろ!」
エルが上を見る。
三発目。
巨大な岩が。
城壁を越えてこちらへ飛んでくる。
落下地点。
救護区画。
「動かないで」
エルが両手を広げた。
大量の水が一瞬で頭上へ移動する。
壁。
半透明の巨大な水壁が生まれた。
岩が激突した。
ドォン!
水が大きく凹む。
だが。
抜けない。
岩の勢いが急速に失われていく。
やがて巨大な岩は水中で完全に停止した。
エルが指を横へ動かす。
水が流れる。
岩は救護区画を避け、何もない場所へ落ちた。
轟音。
「……」
負傷者たちが呆然とする。
エルは髪を軽く払った。
「もう少し静かにしてほしいわね」
その声には。
僅かに怒りが混じっていた。
負傷した者を狙ったわけではないだろう。
ただ投げた先に、ここがあっただけ。
それでも。
気に入らない。
エルが城壁上へ視線を向ける。
「少しだけ、お返ししましょうか」
浮遊高度を上げる。
城壁を越える。
眼下に戦場が広がった。
すぐに投石を行った魔物を見つける。
巨大な猿型魔獣。
周囲にも数十体。
エルが指を向ける。
先ほどまで救護に使っていた水の一部が空へ上がった。
細くなる。
さらに細く。
一本の線。
「切れ味は保証するわ」
指を払う。
水線が走った。
猿型魔獣が止まる。
一拍。
上半身がずれ落ちた。
その後ろ。
二体。
三体。
さらに後方の魔物まで。
一直線に切断されている。
「……あら」
エルは少し困ったように笑った。
「少し強すぎたかしら」
城壁上の魔術師が聞いていた。
何も言えなかった。
あれが。
少し。
なのか。
エルはそれ以上攻撃しなかった。
救護区画へ戻ろうと身体の向きを変える。
その時。
「――っ」
身体が落ちた。
ほんの一瞬。
浮遊魔法が完全に消えた。
「エル!」
誰かが叫ぶ。
城壁上から地面まではかなりの高さがある。
だが。
落下は僅か数メートルで止まった。
エルが即座に浮遊を再発動したからだ。
「……」
表情が変わる。
先ほどとは違う。
明確に。
魔法が切れた。
魔力はある。
術式にも問題はない。
自分の身体にも異常はない。
なのに。
世界との繋がりが、一瞬だけ途切れたような。
奇妙な感覚。
それだけではなかった。
浮遊が途切れた瞬間、エルの尾の先から冷たい感覚が這い上がった。
水の中へ沈んだわけでもないのに、身体の内側だけが深海へ引き込まれたようだった。
耳元で、遠くから水圧に押し潰されるような低い音が響く。
周囲の喧騒が一瞬だけ遠のき、代わりに、どこからともなく水滴が落ちる音が一つ聞こえた。
ぽたり。
だが。
エルの周囲に水滴はない。
再び浮遊魔法を発動した瞬間、その感覚は消えた。
残ったのは、尾の付け根に絡みつくような、見えない重さだけだった。
「……今のは」
エルは無意識に自分の尾へ視線を落とす。
何もない。
魔力の乱れも。
外傷も。
呪いの痕跡もない。
それなのに。
まるで何かが。
自分のいる場所を、下から引いているようだった。
「エル!」
今度は。
聞き慣れた声だった。
ノアル。
かなり離れていたはずなのに。
こちらを見ている。
戦場の喧騒の中でも、その声だけははっきり聞こえた。
ノアルが一瞬で距離を詰めてきた。
「大丈夫?」
「ええ」
エルは微笑む。
「少し驚いただけよ」
「また浮遊?」
「今度は完全に切れたわ」
ノアルの表情が変わった。
エルの身体を見る。
怪我はない。
魔力切れでもない。
なら。
「一回、浮遊をやめよう」
「……歩け、と?」
エルの笑みが僅かに固まった。
ノアルは気づかない。
「できるんだよね?」
できる。
確かに。
エルには人間の脚を持つ形態がある。
本来は人間と交わる際に用いるための形態。
だが二本の脚がある以上、普通に歩行することも可能だ。
問題は。
あの姿には、いくつか厄介な副作用がある。
戦闘能力の低下。
そして――。
エルは一瞬だけノアルを見る。
(今、この状況で……?)
さすがのエルも迷った。
普段ならノアルをからかう余裕くらいいくらでもある。
だが。
人化は少し事情が違う。
「……あるじ様」
「うん?」
「できれば、それは最後の手段にしていただけると嬉しいわ」
「何か問題あるの?」
「少々」
エルは妖艶な笑みを浮かべた。
「女には、色々あるのよ」
「?」
ノアルは分からない。
だが。
エルが嫌がるなら無理にさせる必要はない。
「じゃあ浮遊も人化もなし」
「え?」
「水で身体を支えられる?」
エルが瞬きをする。
「それなら問題ないわ」
「じゃあ、それでいこう。原因が分からないのに同じ魔法を使い続けるのは危ない」
エルの目が僅かに開く。
浮遊魔法を使え。
人化しろ。
そう命令することもできたはずだ。
だがノアルは。
どちらも選ばなかった。
エル自身が最も安全に動ける第三の方法を、何の迷いもなく選んだ。
「……本当に」
エルが小さく笑う。
「敵わない御方」
「何が?」
「何でもないわ」
エルが浮遊魔法を解除する。
身体が落ちる直前。
水が尾を包んだ。
透明な水の塊が、まるで宙を泳ぐための小さな海のようにエルの身体を支える。
「これなら?」
「問題ないわ」
「異常があったらすぐ言って」
「ええ」
ノアルは頷くと、再び戦場へ視線を向けた。
そして。
消えた。
エルが目を細める。
数百メートル先にノアルが現れる。
さらに消える。
別の場所。
また別の場所。
そのたびに魔物の群れの動きが僅かに変わっていく。
「……あら?」
エルは気づいた。
ノアルはまだ大規模な攻撃をしていない。
ただ。
走っている。
魔物の間を。
戦場の端から端まで。
「あるじ様は……何を?」
城壁上の冒険者も同じ疑問を抱いていた。
だが。
マインだけは。
ノアルの動きをじっと見つめていた。
右へ。
左へ。
奥へ。
戻る。
その後ろを。
魔物が追っている。
十。
五十。
百。
さらに増える。
「……まさか」
マインの瞳が細くなる。
ノアルがまた走る。
別の群れの前を横切る。
そこにいた魔物までノアルを追い始める。
数百。
さらに数百。
戦場に散らばっていた魔物が。
少しずつ。
一つの巨大な塊へ変わっていく。
マインが息を呑む。
「あるじ様……」
その頃。
魔物の大群の先頭を走るノアルは。
後ろをちらりと振り返っていた。
「うん」
かなり集まった。
だが。
まだ足りない。
ノアルの口元が上がる。
ゲーム時代。
何度繰り返したか分からない。
敵を引きつけ。
走り。
まとめ。
そして。
一気に消し飛ばす。
ノアルはさらに速度を上げた。
「せっかくだし」
その背後。
地響きを立てて。
千に届こうかという魔物が追いすがる。
「もうちょっと集めようか」
戦場を駆ける者の。
本当の戦いが。
ようやく始まろうとしていた。




