第十話 雪女の業火
右翼防衛線は限界に近づいていた。
「下がるな!」
金級冒険者ガルドの怒号が響く。
先ほどオーガジェネラルの一撃を受けた身体は、決して無傷ではない。
左肩が上がらない。
口元から血が流れている。
それでも大剣を右手だけで握り、迫ってきたオーガの胸を斬り裂く。
「ガルド! 無茶するな!」
仲間の魔術師が叫ぶ。
「だったら代わりにあいつを止めろ!」
その先。
四本腕のオーガジェネラルが歩いてくる。
急いでいる様子すらない。
周囲の冒険者を武器で薙ぎ払いながら、一歩ずつ前進している。
さらにその周囲には十数体のオーガ。
後方には魔獣の群れ。
金級パーティーがいなければ、とっくに右翼は崩壊していただろう。
だが。
彼らがいても、押し返せない。
「くそっ……!」
ガルドが大剣を構える。
オーガジェネラルも斧を持ち上げる。
そこへ。
「少しよろしいでしょうか」
女の声がした。
「は?」
振り返る。
いつからそこにいたのか。
青白い肌。
涼やかな美貌。
戦場には似つかわしくないほど静かな女が立っている。
夏だった。
「危ねえ! 下がってろ!」
ガルドが叫ぶ。
「お気遣い、感謝いたします」
夏は丁寧に頭を下げた。
「ですが、あるじ様より、この場所を任されましたので」
「何?」
夏がガルドの横を通り過ぎる。
オーガジェネラルが彼女に気づいた。
四本の腕が動く。
斧。
棍棒。
剣。
鉄球。
四つの武器が、一人の女へ向けられる。
「おい!」
ガルドが駆け出そうとする。
だが。
夏が右手を上げた。
「少々、下がっていただけますか」
声は静かだった。
その直後。
気温が――上がった。
「……え?」
ガルドが止まる。
熱い。
一瞬前までとは明らかに違う。
夏の周囲で空気が揺らいでいる。
魔術師が目を見開いた。
「火属性……?」
見た目から受ける印象は真逆だった。
冷たい気配。
白い肌。
雪を思わせる女。
それなのに。
彼女の周囲へ集まっているのは、紛れもなく火属性の魔力。
夏の手のひらに小さな炎が生まれた。
「この力は」
夏は炎を見る。
遠い記憶。
ゲームだった世界で、ノアルが自分へ与えた力。
雪女だから氷。
そんな当たり前を、主は選ばなかった。
自分に火を与えた。
夏にとってそれは。
ただの技能ではない。
「あるじ様より授けられたもの」
小さな炎が膨れ上がる。
「故に――」
オーガジェネラルが咆哮し、突進した。
「私の誇りです」
夏が指を鳴らした。
世界が赤く染まった。
轟ッ――!
火柱。
そう表現するには巨大すぎた。
地面から噴き上がった炎が、オーガジェネラルを丸ごと呑み込む。
その背後。
オーガ。
森狼。
牙猪。
さらに後方の魔物まで。
一直線に炎が走った。
「うわっ!」
ガルドが反射的に顔を庇う。
だが。
熱くない。
「……?」
目を開く。
目の前では地獄のような炎が燃えている。
にもかかわらず。
自分たちのいる場所には、ほとんど熱が来ていない。
「どうなって……」
魔術師が震える声を漏らした。
炎は味方のすぐ横を通っている。
数十センチ。
場所によっては僅か数センチ。
それでも服一枚焦げていない。
逆に魔物側は。
「……」
声すら出せなかった。
オーガジェネラルがいた場所には、黒く焼けた地面しか残っていない。
周囲のオーガも。
後続の魔獣も。
消えている。
炎はそこで終わらなかった。
夏が手を横へ動かす。
火の壁が動いた。
「なっ……」
炎が生き物のように戦場を這う。
味方を避け。
負傷者を避け。
武器を落として退こうとしている冒険者の横を通り。
魔物だけを呑み込む。
右へ。
さらに右へ。
数百体の魔物が炎に包まれる。
「制御……してるのか?」
ガルドの仲間の魔術師が呆然とする。
高威力の魔法なら知っている。
自分より強い魔術師も知っている。
だが。
これほどの範囲。
これほどの火力。
その上で。
「味方を一人も……?」
理解できない。
普通なら範囲を広げるほど制御は難しくなる。
威力を上げればなおさらだ。
この女はその両方を極端な水準まで高めながら、味方だけを完全に避けている。
夏が静かに歩く。
彼女が進むたび、炎が道を開ける。
魔物が逃げ始めた。
先ほどまで数で押し潰そうとしていた群れが。
たった一人の女を前に。
「逃がす必要は……」
夏が一瞬考える。
だがノアルから命じられたのは右翼。
追撃して持ち場を離れる必要はない。
「ありませんね」
夏が手を下ろした。
同時に。
あれほど燃え盛っていた炎が消えた。
まるで最初から存在していなかったかのように。
残ったのは。
黒く焼けた大地。
そして。
ぽっかりと空いた右翼前方。
「……」
誰も動かない。
夏は振り返った。
「お怪我は?」
ガルドは答えられなかった。
「左肩を負傷されているようですが」
「いや……まあ……」
「後方へ下がられた方がよろしいかと」
「……ああ」
金級冒険者が、まるで新人のように素直に頷いた。
夏は城壁を見る。
遠く。
ノアルの姿を探す。
すぐに見つけた。
まだ戦場を走り回ってはいない。
周囲を観察している。
夏は僅かに微笑んだ。
任された場所は守った。
それだけでいい。
その時。
ドォォン――!
別方向から地面を揺らす轟音が響いた。
夏が顔を向ける。
正門。
巨大な魔物の群れが集まり始めている。
その前に。
一頭の獣が立っていた。
四足。
虎ほどの体躯。
伝説上の麒麟。
マジカ。
夏は静かに呟いた。
「次は、あなたの番ですね」
正門前。
マジカは一歩だけ前へ出た。
背後にはリヴァティ。
そして前方には。
大型魔物を中心とした、数百の群れが迫っていた。




