第九話 天を墜とす翼
城壁から飛び降りたノアルの姿を目で追う余裕のある者は、ほとんどいなかった。
なぜなら同じ瞬間。
リヴァティの空で、もう一つの異常が始まっていたからだ。
「馬鹿な……」
城壁上の弓兵が呟く。
黒い翼を大きく広げたサラが、単身で飛行魔物の群れへ向かっていた。
その先にいるのは数十ではない。
鳥型魔獣。
翼竜。
巨大な昆虫型魔物。
大小様々な飛行種が、空の一角を黒く染めている。
少なく見積もっても数百。
そのすべてがリヴァティへ向かっていた。
「戻れ!」
弓兵隊長が叫んだ。
「一人で行くな!」
当然の判断だった。
飛行能力を持つ冒険者は珍しい。
だからこそ、その価値を知っている。
空中では地上からの援護も限られる。
ましてあれほどの群れへ一人で突入すれば、四方八方から襲われることになる。
だがサラは振り返らなかった。
「あるじ様より賜った役目は――空」
静かに呟く。
ノアルは言った。
空をお願い、と。
ならば。
「一匹たりとも、お通しするわけにはまいりません」
翼を打つ。
直後。
サラの姿が消えた。
「なっ――」
弓兵の目が追いつかない。
次の瞬間。
群れの先頭を飛んでいた翼竜の首が宙を舞った。
一拍遅れて血が噴き出す。
その横では二体。
さらに三体。
何が起きたのか理解する間もなく、飛行魔物が次々と落下していく。
「何だ……?」
「何をしてる!?」
サラは止まらない。
黒い翼を翻し、魔物と魔物の僅かな隙間を縫う。
前方から巨大な鳥型魔獣が爪を突き出す。
サラは身体を僅かに傾けただけで回避。
すれ違いざまに手を振る。
それだけだった。
鳥型魔獣の胴体が上下に分かれた。
背後。
翼竜が大口を開ける。
炎が喉奥へ集まる。
「遅いですね」
サラが振り返る。
赤い光が放たれるより先に、その額へ黒い閃光が突き刺さった。
頭部が消し飛ぶ。
死骸が地上へ落ちる。
ドォン!
城外で戦っていた兵士たちが驚いて見上げた。
一体。
また一体。
魔物が降ってくる。
「上から来るぞ!」
「違う!」
騎士が叫ぶ。
「死んでる!」
翼竜が落ちる。
巨大鳥が落ちる。
昆虫型魔物が落ちる。
まるで空そのものが魔物を拒絶しているかのようだった。
その中心を、一人の堕天使が飛んでいる。
サラの表情に笑みはない。
普段ノアルの前で見せる恍惚も、少しずれた願望も。
今はない。
あるのは、冷たいほどの忠誠だけ。
三方向から翼竜が迫る。
サラは速度を落とした。
「捕まった!」
城壁上で誰かが叫ぶ。
三体の顎が同時に閉じる。
その瞬間。
サラの身体から漆黒の魔力が迸った。
「――消えなさい」
轟音。
黒い衝撃波が球状に広がった。
三体の翼竜だけではない。
周囲にいた数十体の飛行魔物が、一斉に吹き飛ばされる。
翼が千切れ。
骨が砕け。
空中で身体が弾ける。
そして。
ぽっかりと空白が生まれた。
先ほどまで魔物で埋まっていた空に。
サラを中心とした巨大な空洞ができている。
城壁が静まり返った。
「……何だ、あれ」
誰かが呟いた。
その声に答える者はいない。
だが。
飛行魔物はまだ残っている。
後方にいた群れが、今度は大きく左右へ分かれた。
「回り込むつもりだ!」
二群に分かれ、サラを避けてリヴァティへ向かう。
本能なのか。
あるいは僅かな知性があるのか。
少なくとも正面からあの存在へ挑むべきではないと理解したらしい。
サラがそれを見る。
「なるほど」
右。
左。
どちらも百を超える。
「私を避ければよいと?」
サラの翼がゆっくりと広がる。
その身体から、先ほどとは比較にならない魔力が立ち上った。
城壁の魔術師たちが一斉に顔を上げる。
「なんだ、この魔力……」
「まだ上がるぞ……」
サラの両手に黒い光が集まった。
本来なら、もっと高く飛べば楽に殲滅できる。
だがノアルから言われている。
高く上がりすぎるな。
エルの異常の原因が分からない以上、危険を冒す必要はない。
ならば。
この高度で全て落とせばいい。
「あるじ様の御慈悲に感謝なさい」
左右へ手を向ける。
「貴方たちは――」
黒い魔法陣が展開された。
一つ。
十。
数十。
空を埋めるほどの魔法陣。
「私程度を相手にすればよいのですから」
一斉発射。
空が黒く染まった。
無数の光条が飛行魔物を追尾する。
一体を貫く。
方向を変える。
二体目。
三体目。
逃げる魔物の背後から追いつき、次々と撃ち抜いていく。
轟音が連続した。
空に血煙が咲く。
翼が舞う。
死骸が雨のように降り注ぐ。
城壁を目指していた二つの群れが。
僅か数十秒で――消えた。
「……」
弓兵たちは弓を構えたまま動けない。
撃つ相手がいなくなったのだ。
一人の兵士が空を見回す。
「飛行種は……?」
誰も答えない。
「全部、やったのか?」
やがて。
黒い翼を持つ美女だけが、静かに空に残った。
サラは周囲を確認する。
まだ遠方に数体。
こちらへ来る気配はない。
むしろ。
逃げている。
「……逃走を確認」
サラは淡々と呟く。
追う必要はない。
任されたのは空の防衛。
ならば持ち場を離れるべきではない。
サラはリヴァティ上空へ戻る。
その途中。
城壁上の冒険者たちと目が合った。
誰も何も言わない。
サラは興味を示さなかった。
彼らからどう見られようと関係ない。
ただ一つ気になることがあるとすれば。
地上へ視線を向ける。
そこにはノアルがいる。
遠く離れていても、サラにはすぐ分かった。
「あるじ様……」
僅かに頬が緩む。
命じられた役目は果たした。
ならば。
褒めていただけるだろうか。
もし失敗していたなら。
叱っていただけるのも――。
そこまで考えたところで、サラは小さく首を振った。
「いけません」
今は戦闘中。
自分の願望を優先するなど、あるじ様の配下として失格だ。
もっとも。
その反省の方向が正しいのかどうかは、本人以外には分からない。
一方。
城壁上では、バルガンが空を見上げたまま固まっていた。
「あれが……一人?」
近くの職員が頷くことすらできない。
バルガンは乾いた喉を鳴らした。
ガルディアから届いていた資料を思い出す。
鉄級。
銀級への昇格試験中。
「……ふざけるな」
思わず漏れた。
「あれを鉄級と呼ぶつもりか?」
だが。
彼らが知ることになる異常は。
まだ五分の一に過ぎなかった。
その頃。
右翼では。
涼やかな美貌を持つ一人の女が、燃え盛る戦場へ向かって歩いていた。
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