↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
32/42

間話 あるじ様の素顔

共有室の灯りの向こうで、ノアルは微動だにしなかった。


机の上には、昼間購入したリヴァティの地図が広げられている。


腕を組み、眉間に僅かな皺を寄せ、地図を見つめる。


時折目を閉じては、再び地図へ視線を落とす。


普段の穏やかな雰囲気とはまるで違う。


夏は思わず息を呑んだ。


「あるじ様……?」


声を掛けようとした、その時だった。


マインの手が夏の腕を静かに掴んだ。


「お待ちなさい」


「マイン?」


「今は、お邪魔してはなりません」


マインの視線はノアルから離れない。


しばらく、その姿を見つめる。


そして静かに呟いた。


「あのお姿こそが……あるじ様の本来のお姿なのでしょう」


夏が目を見開く。


「本来の……?」


「ええ」


マインはこれまでのノアルを思い返していた。


ガルディアの冒険者ギルドでは、ローデンへ気軽に話しかける。


ガレスから軽口を言われれば、笑って返す。


商人にも偉そうに振る舞わない。


知らない料理を見れば興味を示し、街を歩けば珍しい物へ気軽に近づいていく。


自らの力を誇示することもない。


それどころか、リヴァティの門兵にマジカを止められた時ですら、力で押し通そうとはしなかった。


規則に従い。


相手の立場を尊重し。


それでも自らの希望はきちんと伝えた。


あまりにも自然だった。


だからこそ、マイン自身も深く考えていなかった。


「……あるじ様は、御自身がどれほどの存在であるかを理解しておられます」


「それは……当然では?」


「ええ。だからこそです」


マインは静かに言う。


「圧倒的な力を持つ者が、最初からその力を相手へ意識させれば、どうなりますか?」


夏は少し考えた。


「……恐れるでしょう」


「そして警戒します」


マインの声には確信があった。


「恐怖した者は本心を隠します。こちらが何かを問うても、相手は真実ではなく、“我々が望んでいるであろう答え”を返すようになるでしょう」


「……あ」


夏の表情が変わった。


「ローデンたち……」


「ええ」


最初はノアルたちを警戒していたローデンも、今では普通に意見を述べる。


必要なら苦言すら口にする。


ガレスに至っては、軽口さえ叩く。


それは決して、ノアルを軽視しているからではない。


ノアル自身がそうなるよう振る舞った結果なのではないか。


「あるじ様は、あえて隙を見せておられる」


マインの言葉に、夏はノアルを見る。


「相手自身に、警戒を解いたことすら悟らせずに……?」


「おそらく」


ローデン。


ガレス。


今回の依頼主。


そして――ハイン。


「ハインへも、あるじ様は対価を求めませんでした」


故障した馬車を直した。


危険な街道を同行させた。


それでも金銭を要求しなかった。


さらに迷わずの森に何があり、自分たちが何を必要としているのかを、会話の中で自然に伝えている。


その結果。


ハイン自身から、森への商売の可能性を口にした。


ノアルから命じたわけではない。


誘導したようにすら見えない。


商人自身が考え。


自ら可能性を見つけた。


「……まさか」


夏が呟く。


「ハインを助けられた時から?」


「分かりません」


マインは首を横に振った。


「あるじ様がどこまで先を見通しておられるのか……私には推し量ることすらできません」


その言葉に偽りはなかった。


マインは自分が主要NPCの中で最も思考に長けているという自負がある。


だが。


それでも主の思考へ届いているとは思えなかった。


二人は再びノアルを見る。


ノアルはまだ地図を見つめている。


腕を組み。


真剣な表情のまま。


時折目を閉じる。


その姿には、普段の親しみやすさなど微塵もない。


まるで一人で世界の行く末を考えているかのような――孤高の存在。


「……あのお姿を」


夏が小さく口を開く。


「人間たちは、知らないのですね」


「ええ」


マインは頷いた。


「おそらく、知られる必要がないのでしょう」


そして一瞬だけ、マインの表情が柔らかくなった。


「ですが我々は、こうして御傍にいることを許されている」


夏も気づく。


「私たちには……お隠しにならない?」


「あるじ様が、我々を信頼してくださっている証なのかもしれません」


夏は胸元へそっと手を当てた。


「……光栄です」


「ええ」


二人はそれ以上近づかなかった。


主の思索を邪魔するなど、あってはならない。


そして――。


二人が想像しているその少し先。


ノアルは本気で悩んでいた。


(……どうする)


地図には、ハインが付けてくれた三つの印がある。


そのうち二つを何度も見比べる。


(串焼きは絶対うまい)


昼間、市場を歩いている時に漂ってきた肉の香り。


あれを思い出すだけで腹が減る。


しかし。


(でもハインさん、煮込みもかなり推してたんだよな……)


悩ましい。


非常に悩ましい。


ノアルは目を閉じた。


串焼き。


煮込み。


串焼き。


煮込み。


(待てよ)


再び地図を見る。


明日も市場へ行くつもりだ。


串焼きの店は市場に近い。


対して煮込みの店は、今いる宿から比較的近い。


ならば――。


(今日は煮込み。明日の昼に串焼き)


完璧ではないか。


ノアルの眉間から皺が消えた。


(これなら両方食べられる)


少し離れた場所から、その変化を見ていたマインの目が細くなる。


「……御決断なされたようです」


夏が小さく息を呑んだ。


「一体、何を……」


「詮索してはなりません」


マインは静かに首を振る。


「我々に必要なのは、あるじ様の御思考を暴こうとすることではありません」


そして主を見つめる。


「いつか、御考えを理解できるほど成長することです」


「……はい」


夏は強く頷いた。


ノアルが地図を畳み始める。


二人は音を立てず、その場を離れた。


自分たちが見ていたことを、あえて伝える必要もない。


部屋へ戻る途中、夏が尋ねた。


「マイン」


「何でしょう」


「私たちにも、できるでしょうか」


「何がです?」


「あるじ様のように……力だけに頼らず、相手から信頼を得ることが」


マインは少し考えた。


「できるようにならなければなりません」


力で屈服させるのは簡単だ。


自分たちならば、なおさら。


だが、それだけでは主の役には立てない。


「覚えておきなさい、夏」


マインは静かに告げた。


「力を見せるだけが交渉ではありません」


「……はい」


「相手を必要以上に恐れさせず、警戒を解かせ、自ら本心を話したいと思わせる」


ローデンがそうなったように。


ガレスがそうなったように。


ハインが自ら商売の可能性を口にしたように。


「あるじ様は、そのことを我々へお示しになっているのかもしれません」


その夜。


マインは自室へ戻ってからも、長く考え続けた。


そして、この時に得た考えを忘れなかった。


後に彼女は、ギルドハウスの者たちへこう教えることになる。


力を示すだけが交渉ではない。


相手を恐れさせれば、本音は遠ざかる。


警戒させず。


自ら話させ。


自ら協力したいと思わせる。


それこそが、あるじ様のなさっていることなのだ、と。


その教えはやがて。


迷わずの森へ足を運ぶ商人との交渉に使われ。


外部勢力との折衝に使われ。


異なる種族との関係構築にまで応用されていく。


ただの誤解から生まれた教えが、皮肉にも本物の成果を生み出していくことになる。


もちろん。


そんなことになるとは露ほども知らないノアルは――。


その頃、自室へ戻りながら。


(煮込み食べた後、甘味も行けるかな)


次なる難題について、真剣に考え始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。