第2章:自由の負担からの解放 2-1:ORACLEのある社会
2-1:ORACLEのある社会
玲央が人生最適化庁の休憩スペースから見下ろす都市は、いつも通り静かだった。
午前の光を受けた高層ビル群は、白と銀を基調に整えられている。どの建物も高さは違うが、無秩序な印象はない。窓の反射角度、外壁の色調、屋上緑化の割合まで、都市全体の心理的安定性を損なわないよう設計されている。
空中交通レーンを走る無人車両は、一定の速度と間隔を保って流れていた。
早すぎる車両もない。
急停止する車両もない。
無理な割り込みも、警笛も、怒鳴り声もない。
地上の歩道には人々が行き交っている。
通勤する者。
買い物へ向かう者。
診療ポッドへ歩く高齢者。
保育支援ユニットに手を引かれた子ども。
人の流れは多いが、混乱はない。
歩行者の速度は、それぞれの体調や目的地に合わせて最適化されている。端末は、混雑を避けるように道順を微調整し、立ち止まりそうな人がいれば、周囲の流れが自然に広がる。誰かが急に進路を変えても、周囲の端末がそれを検知し、ぶつかる前に小さな振動で注意を促す。
交差点では、信号が歩行者の数と移動速度に応じて自動調整されていた。
高齢者が近づけば、横断時間が数秒延長される。
子どもが走り出しそうになれば、周囲の車両が先に減速する。
視覚障害のある歩行者がいれば、路面誘導灯が足元に淡く浮かび上がる。
人間の判断に任せるよりも、事故ははるかに少なかった。
玲央は、その光景を見ながら、いつものように思う。
社会は、人間が間違える前に支えるべきなのだ。
街角には、相談用の小型端末が設置されている。
誰かが立ち止まり、画面に手をかざす。
数秒後、その人に必要な案内が表示される。
体調不良なら、最寄りの診療ポッドへ。
気分の落ち込みなら、心理安定プログラムへ。
職場の悩みなら、対人関係調整窓口へ。
金銭面の不安なら、生活再設計支援へ。
家族との会話に不安があるなら、対話支援サービスへ。
困ったときに、どこへ行けばいいのか分からない。
誰に相談すればいいのか分からない。
自分の状態が危険なのか、それとも一時的なものなのか判断できない。
そうした迷いは、この社会では大きく減っていた。
かつて、人は助けを求める前に疲れ果てていたという。
自分はまだ大丈夫だと思い込む。
誰に言えばいいのか分からず黙り込む。
恥ずかしさや不安で相談を先延ばしにする。
手遅れになってから、ようやく支援につながる。
ORACLEは、その遅れを減らした。
公式には、ORACLEは人々の生活を監視しているのではないと説明されている。
ORACLEは、人々の生活を支援している。
睡眠時間が乱れれば、生活リズムの修正を提案する。
食事内容が偏れば、栄養改善プランを提示する。
孤独指数が上昇すれば、相性の良い地域コミュニティへの参加を勧める。
仕事のストレスが一定値を超えれば、配置転換や休養を提案する。
家庭内の衝突リスクが高まれば、対話支援サービスが通知される。
誰かが倒れるまで、待たない。
誰かが壊れるまで、放置しない。
誰かが助けを求める言葉を失う前に、社会の側から手を差し伸べる。
それが、ORACLEの基本理念だった。
その結果、2086年の日本では、かつて社会問題と呼ばれていた多くのものが目に見えて減少していた。
犯罪発生率は低下した。
長期失業者は減った。
孤独死はほとんど発生しなくなった。
過労による重大事故も、生活破綻も、以前よりずっと早く発見されるようになった。
人は、ひとりで人生を抱え込まなくてよくなった。
玲央の視線の先で、一人の男性が相談端末の前に立ち止まった。
数秒後、画面に表示された案内を確認し、彼は歩く方向を変えた。
その動きは自然だった。
迷っていた人間が、行き先を示され、少しだけ軽くなるような動きだった。
玲央は、それを美しいと思った。
人々は、自分の人生を完全に理解しているわけではない。
自分の体調も。
心の限界も。
仕事の適性も。
人間関係の危うさも。
未来のリスクも。
人間は、自分のことを自分で分かっているようで、実際には多くを見落とす。
けれど、理解できなくても困らない。
ORACLEが、先に気づいてくれるからだ。
不調に陥る前に。
間違った選択をする前に。
取り返しのつかない失敗をする前に。
社会は、人間が倒れる前に手を差し伸べるようになった。
玲央は、その仕組みを誇りに思っていた。
人生最適化庁で働く自分たちは、ただ市民に指示を出しているのではない。
人生を縛っているのでもない。
むしろ、人が余計な不安や後悔に押し潰されないよう、支えているのだ。
かつての時代、人々は自分で悩み、自分で選び、自分で失敗し、その結果まで自分で背負わなければならなかったという。
仕事を選ぶのも自分。
辞めるのも自分。
結婚するのも自分。
別れるのも自分。
都会へ出るのも、地方へ戻るのも、夢を追うのも、諦めるのも自分。
選べることは、自由だった。
だが、その自由の裏には、いつも責任があった。
間違えれば、自分のせい。
失敗すれば、自分の判断が悪かった。
苦しくなっても、自分で選んだのだから仕方がない。
そうして多くの人が、自分の選択に傷ついていた。
それに比べれば、今の社会はずっと優しい。
職業も、住む場所も、生活習慣も、人間関係も、ORACLEが最適な形へ導いてくれる。
自分に向いていない仕事にしがみつく必要はない。
相性の悪い人間関係に消耗し続ける必要もない。
将来性の低い選択に人生を賭ける必要もない。
体調を崩すまで頑張る必要もない。
孤独を我慢し続ける必要もない。
誰もが、自分にとって最も安定した道を歩める。
もちろん、すべてが完璧なわけではない。
玲央も、それくらいは分かっている。
ORACLEの予測にも誤差はある。
人の感情は完全には数値化できない。
どれだけ支援を整えても、迷う人はいる。
苦しむ人もいる。
昨日の水無瀬蒼のように、提示された人生プランを前に沈黙する人もいる。
それでも。
少なくともこの社会では、多くの人が大きく壊れずに生きている。
それは、何より大切なことのはずだった。
窓の外では、無人車両が滑らかに流れ続けている。
歩道では、人々がそれぞれの目的地へ向かっている。
相談端末の前で立ち止まった誰かが、案内を受け取り、再び歩き出す。
玲央はその光景を見ながら、いつものように思った。
選ばなくていいことは、不自由ではない。
それは、安心なのだ。
自分ひとりで迷わなくていい。
未来をすべて背負わなくていい。
間違える前に、誰かが気づいてくれる。
その誰かが、今の時代ではORACLEなのだ。
玲央はそう信じていた。
水無瀬の問いが、まだ胸の奥に小さく残っていることに気づかないふりをしながら。




