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『あなたに最適な人生です』  作者: Yukiya


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2-2:かつて人は自由に苦しんだ

2-2:かつて人は自由に苦しんだ


 人生最適化庁の地下資料室には、ORACLE導入以前の社会記録が保存されている。


 そこは、庁舎の中でも少しだけ空気が違う場所だった。


 上階の面談室や執務室は、常に現在のために整えられている。

 市民の感情を安定させ、職員の判断を乱さず、未来に向けた選択を支援するための空間。


 しかし資料室は、過去を見るための場所だった。


 壁一面に並ぶ記録端末。

 古い映像資料。

 新聞、投稿記録、医療統計、労働相談、家庭内トラブルの記録。

 それらはすべて、ORACLEが生まれる前の社会を知るために保管されている。


 玲央は新人研修のころ、その映像を何度も見せられた。


 二十一世紀前半から半ばにかけて、人々は「自由」を当然の権利として求めていた。


 職業選択の自由。

 恋愛の自由。

 結婚の自由。

 住む場所の自由。

 発信の自由。

 働き方の自由。

 生き方の自由。


 それは一見、とても豊かな社会に見えた。


 誰もが好きな情報に触れられた。

 好きな仕事を目指すことができた。

 好きな場所へ行くことができた。

 好きな人とつながることができた。

 自分の意見を世界へ向けて発信することもできた。


 画面の中の人々は、玲央たちの時代よりもずっと雑然とした街を歩いていた。


 看板の色は統一されていない。

 人々の服装もばらばら。

 電車は混み合い、車は渋滞し、街には広告があふれている。

 誰かが笑い、誰かが怒り、誰かが急ぎ、誰かが立ち止まる。


 その光景は、玲央にはひどく不安定に見えた。


 だが同時に、そこにはたしかに熱があった。


 人々は、自分で選んでいるように見えた。


 どこへ行くか。

 何を買うか。

 誰と会うか。

 何を信じるか。

 何を目指すか。


 すべてが開かれているように見えた。


 しかし、その自由は同時に、人々を静かに追い詰めていた。


 選択肢が多すぎた。


 どの学校へ行くべきか。

 どの会社に入るべきか。

 どんな働き方を選ぶべきか。

 結婚するべきか、しないべきか。

 子どもを持つべきか。

 都会に残るべきか、地方へ移るべきか。

 夢を追うべきか、安定を取るべきか。

 今の仕事にしがみつくべきか、別の場所へ移るべきか。

 誰と付き合い、誰と距離を置き、誰に合わせ、誰を拒むべきか。


 何を選んでも、別の可能性を捨てることになる。


 ひとつを選べば、ひとつを失う。

 道を進めば、別の道は遠ざかる。

 選ばなかった未来は、いつまでも心のどこかに残り続ける。


 人々は、選べるようになった。


 だが同時に、選ばなければならなくなった。


 そして、失敗すれば言われた。


 自分で選んだのだから、自己責任だと。


 資料映像には、疲れ切った人々の記録が並んでいた。


 就職に失敗した若者。

 夢を追ったが、生活が成り立たなくなった者。

 仕事を辞めたあと、再就職できず孤立した者。

 結婚相手を間違えたと悩む者。

 家族を持つ選択を後悔する者。

 家族を持たなかった選択を後悔する者。

 都会へ出たが孤独に押し潰された者。

 地方に残ったが可能性を失ったと感じる者。

 SNSで他人の成功を見続け、自分の人生を否定するようになった者。

 自由な働き方を選んだ結果、休むことも保障されず、心身を壊した者。


 彼らは誰かに強制されたわけではなかった。


 自分で選んだ。

 あるいは、選んだつもりだった。


 だからこそ苦しんでいた。


 誰かに命じられて失敗したのなら、怒りを向ける先がある。

 社会に押しつけられた道なら、恨むこともできる。

 けれど、自分で選んだ道で苦しくなったとき、人は自分自身を責める。


 もっと考えればよかった。

 違う道を選べばよかった。

 あのとき戻ればよかった。

 あの人の言葉を聞かなければよかった。

 自分には能力がなかった。

 自分が弱かった。

 自分が間違えた。


 自由は、人に可能性を与えた。


 だが同時に、失敗の責任も与えた。


 新人研修の映像の中で、ある女性が小さな部屋で泣いていた。


 彼女は、安定した職場を辞め、自分の好きな仕事を始めた。

 最初は、ようやく自分の人生を生きられると思ったという。

 けれど収入は安定せず、周囲の期待にも応えられず、やがて生活は崩れていった。


 画面の中の彼女は、何度も同じ言葉を繰り返していた。


 自分で選んだのに。

 自分で選んだのに。

 どうして、こんなに苦しいんだろう。


 別の記録では、若い男性が、就職先を決められずにいた。


 選択肢は多かった。

 情報もあった。

 診断テストも、口コミも、比較サイトも、助言者もいた。

 それでも彼は選べなかった。


 選んだ瞬間、別の道を捨てることになるからだ。


 失敗するのが怖い。

 自分に合っているのか分からない。

 将来後悔するかもしれない。

 でも、選ばなければ前へ進めない。


 その矛盾の中で、彼は何年も動けなくなっていた。


 玲央は当時、その映像を見ながら、静かに衝撃を受けた。


 自由とは、本来もっと明るい言葉だと思っていた。


 可能性。

 解放。

 自分らしさ。

 夢。

 選べる喜び。


 けれど、過去の記録に映る自由は、必ずしもそうではなかった。


 それは、広すぎる空間にひとりで立たされることにも似ていた。


 どこへ行ってもいい。

 何をしてもいい。

 誰にも止められない。


 だが、どこへ行けばいいのかは誰も教えてくれない。

 何をすればよかったのかは、失敗したあとでしか分からない。

 そして失敗すれば、自分で選んだのだからと、自分で背負わなければならない。


 玲央は研修用端末に表示された当時の言葉を思い出す。


 選択疲れ。

 自己責任。

 比較疲労。

 孤立。

 情報過多。

 不安定雇用。

 承認欲求。

 生き方の多様化による迷い。


 どれも、玲央の時代ではかなり減少した言葉だった。


 ORACLEの導入によって、社会はそれらを構造的に減らそうとしたからだ。


 だが、当時の人々は違った。


 情報に押され、世間の空気に流され、他人と比べ、恐怖に追われ、承認を求め、損をしないように焦る。


 その中で選んだ道を、果たして本当に「自分の選択」と呼べるのか。


 玲央は、今でもその問いを覚えている。


 新人研修の講師は、穏やかな声でこう言った。


「自由とは、長い間、人間の理想でした。

 しかし、自由は人間に幸福だけを与えたわけではありません。

 自由は、人間に選択の責任を与えました。

 そして多くの人は、その責任に耐えられなかったのです」


 そのとき、研修室には新人職員たちが何十人も座っていた。


 誰も声を出さなかった。

 誰も反論しなかった。


 画面には、ORACLE導入以前の相談記録が映し出されていた。


 もっと早く誰かに止めてほしかった。

 何が自分に向いているのか、誰かに教えてほしかった。

 自分で選べと言われるのがつらかった。

 失敗したのは自分のせいだと思うと、もう立ち上がれなかった。


 玲央はその言葉を見ながら、胸の奥が冷たくなるのを感じた。


 かつての人々は、自由を求めながら、自由に傷ついていた。


 誰にも命令されない代わりに、誰も正解を教えてくれない。

 何でも選べる代わりに、何を選んでも不安が残る。

 失敗しても、誰かのせいにはできない。

 選ばなかった道が、いつまでも心のどこかで光り続ける。


 自由は、広い空のように見えて、実際には底の見えない穴でもあった。


 少なくとも、研修で見た記録の中ではそうだった。


 だから人々は、やがて願うようになった。


 自分にとって正しい道を、誰かに示してほしい。


 間違えない選択を、教えてほしい。


 後悔しない人生を、設計してほしい。


 その願いは、最初から管理社会を求めるものではなかった。


 ただ、疲れていたのだ。


 選び続けることに。

 比べ続けることに。

 失敗を自分だけの責任として抱え込むことに。


 人々は、自由を捨てたかったのではない。


 自由の重さから、少しだけ支えてほしかった。


 その願いに応える形で、ORACLEは生まれた。


 玲央はその歴史を学んだとき、深く納得した。


 人間には支えが必要だ。

 選択には道しるべが必要だ。

 自由を放置すれば、人はその広さに迷い、やがて自分自身を見失う。


 だからこそ、ORACLEがある。


 それは、今でも玲央の中にある確信だった。


 水無瀬蒼の問いを聞くまでは。


 いや、正確には、今もまだその確信は崩れていない。


 ただ、その確信の足元に、小さなひびのようなものが生まれ始めているだけだった。


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