7-5:苦しみまで最適化される社会
7-5:苦しみまで最適化される社会
翌朝、玲央は莉奈に、自分が思い出したことを少しだけ話した。
場所は、昨日と同じ川沿いだった。
朝の光はまだ柔らかく、川面には薄い白が揺れている。
通りの方からは、店を開ける音や、人々の声が聞こえていた。
自由選択区域の一日は、今日も整わないまま始まっている。
玲央は、ベンチに座ったまま、ぽつりぽつりと言葉を出した。
子どもの頃、絵を描くのが好きだったこと。
架空の街を描いていたこと。
曲がりくねった道や、どこへ続くか分からない階段を描くのが楽しかったこと。
けれど、ORACLEに芸術分野への進路適性は中程度だと示され、創作活動は趣味範囲での継続を推奨されたこと。
それから少しずつ、描かなくなったこと。
大学時代、よく話す相手がいたことも話した。
ORACLEや管理社会について、よく議論した人だった。
彼女と話す時間は、効率的ではなかった。
答えが出ないまま、言葉だけが続くことも多かった。
けれど、その時間は嫌いではなかった。
ある日、ORACLEが接触頻度の調整を推奨した。
感情変動が増え、学習集中度に影響が出ていると表示された。
玲央は、それに従った。
会う回数を減らし、返信を遅らせ、雑談を短くした。
喧嘩をしたわけでも、嫌いになったわけでもない。
ただ、関係は静かに消えていった。
そして、海のことも話した。
一度だけ、知らない海を見たいと思ったこと。
管理保養区ではない、予測できない海を見たいと思ったこと。
けれど、ORACLEが推奨した保養区へ行き、疲労指数は確かに改善したこと。
それでも、その海の色をほとんど覚えていないこと。
莉奈は途中で口を挟まなかった。
いつものようにからかうことも、軽く笑うこともしなかった。
ただ黙って、玲央の言葉を聞いていた。
話し終えると、玲央は自分でも驚くほど疲れていた。
それらは大きな悲劇ではない。
誰かを失ったわけではない。
人生が壊れたわけでもない。
取り返しのつかない失敗をしたわけでもない。
ただ、小さな選択をしなかった記憶だった。
描かなかった。
話し続けなかった。
行きたい場所へ行かなかった。
それだけのことだった。
それなのに、胸の奥が痛んだ。
莉奈はしばらく黙っていた。
川の水面を見つめ、それからゆっくりと言った。
「管理都市って、悲しむ前に悲しみを減らしてくれるんだね」
玲央は顔を上げた。
「それは、悪いことではありません」
すぐにそう答えていた。
反射的な言葉だった。
だが、嘘ではなかった。
悲しみが深くなりすぎれば、人は動けなくなる。
後悔が長引けば、生活は乱れる。
苦しみが放置されれば、心身を壊すこともある。
玲央は、それを知っている。
だからORACLEはある。
「うん。悪いことじゃないと思う」
莉奈は素直に頷いた。
「本当に壊れそうな人には、必要だと思う。苦しみを放っておけばいいなんて、私は言わない」
玲央は少し安心した。
莉奈は、管理社会をただ否定しているわけではない。
苦しみを美しいものとして扱っているわけでもない。
それは、三枝紗季のことを見ても分かる。
自由が重すぎる人はいる。
自分で決め続けることに疲れ、支援を必要とする人はいる。
だが、莉奈は続けた。
「でも、全部の苦しみを早く消せばいいってわけでもない気がする」
「なぜですか」
「苦しみって、自分が何を大切にしていたかを教えてくれることがあるから」
玲央は黙った。
莉奈は言葉を選ぶように続けた。
「誰かと別れて悲しいのは、その人が大切だったからでしょ。夢を諦めて苦しいのは、本当はやってみたかったからでしょ。行きたい場所に行けなくて残るものがあるなら、それはそこへ行きたい自分がいたってことだよ」
玲央は、自分の手を見た。
子どもの頃、絵を描かなくなったとき、玲央は深く悲しまなかった。
ORACLEが別の充実した学習計画を提示した。
玲央の適性に合った課題が増え、学習効率は上がった。
創作への未練は、疲労回復のための軽い活動に置き換えられ、やがて自然に薄れていった。
大学時代の関係が消えたときも、玲央は強い孤独に落ち込まなかった。
交流バランスが調整された。
適度な人間関係は維持された。
学習集中度は回復し、睡眠も安定した。
海へ行きたいと思ったときも、玲央は大きな後悔をしなかった。
推奨された保養区で疲労は回復した。
休暇は成功と判定された。
心身の状態は改善した。
すべて、うまく処理された。
苦しみは深くなる前に和らげられた。
後悔は形になる前に別の意味を与えられた。
悲しみは生活を乱す前に整えられた。
だが、処理されたことで、自分が本当は何を望んでいたのかを、玲央は見失っていたのかもしれない。
管理社会では、苦しみも最適化される。
深く落ち込む前に、支援が入る。
後悔が大きくなる前に、別の解釈が提示される。
悲しみが長引く前に、生活リズムが整えられる。
怒りが爆発する前に、対話は調整される。
それは確かに人を救う。
苦しみに飲み込まれないように。
生活が壊れないように。
孤独に沈まないように。
取り返しのつかない選択をしないように。
社会が先回りして手を差し伸べる。
その優しさを、玲央は否定できない。
けれど同時に、それは人が自分の感情を深く感じる機会を減らしているのかもしれない。
何に傷ついたのか。
何を失ったのか。
何を諦めたのか。
何を本当は大切にしていたのか。
そうした問いが生まれる前に、苦しみは整理される。
玲央は、水無瀬のメモを思い出した。
ORACLEは、僕が苦しまないようにしてくれる。
でも、苦しまないように整えられるたびに、僕は自分が何に苦しんでいたのか分からなくなる。
その言葉の意味が、今なら少し分かる気がした。
苦しみは、ただ取り除くべき異常ではない。
それは、自分の中にある何かを指し示す信号でもある。
もちろん、すべての苦しみが必要なわけではない。
耐えられない苦しみもある。
支援がなければ壊れてしまう人もいる。
苦しみの中で視野が狭まり、自分や他人を傷つけてしまう人もいる。
だから、放っておけばいいとは言えない。
だが、すべてを整えすぎれば、人は自分の痛みの意味さえ知らないまま生きることになる。
玲央は、川面を見つめた。
朝の光が、ゆらゆらと水に揺れている。
水の流れは一定ではない。
小さな波が立ち、光が崩れ、また形を変える。
管理された水面とは違う。
その不安定さが、今は少しだけ目に残った。
玲央は、ふと尋ねた。
「莉奈さんは、自分の苦しみを持っていたいと思いますか」
莉奈は少し驚いたように玲央を見た。
それから、静かに笑った。
「持っていたいわけじゃないよ。苦しいのは嫌だし、できれば楽になりたい」
「では」
「でも、勝手に取り上げられたくはない」
玲央は、その言葉を胸の中で繰り返した。
苦しみを、勝手に取り上げられたくない。
それは、管理社会で育った玲央にはなかった発想だった。
苦しみは減らすべきもの。
処理すべきもの。
早く安定させるべきもの。
苦しんでいる人がいるなら、支援する。
苦しみの原因を分析し、生活を整え、負荷を減らす。
その人が壊れる前に、社会が守る。
それが正しいと思ってきた。
だが莉奈は、それさえも自分の一部だと言う。
少なくとも、誰かに勝手に取り上げられたくはないと言う。
「苦しみってさ」
莉奈は川を見ながら続けた。
「自分でも持て余すし、嫌になるし、誰かに助けてほしいときもある。でも、それでも、それが自分の中から出てきたものなら、ちゃんと見たいと思うことがある」
「見ることで、楽になるのですか」
「ならないこともある」
莉奈はあっさり言った。
「余計につらくなることもある。でも、見ないままだと、何を失ったのかも分からなくなる」
玲央は、子どもの頃の絵を思い出した。
架空の街。
曲がりくねった道。
迷路のような路地。
空に浮かぶ橋。
あれを描かなくなったとき、玲央は何を失ったのだろう。
大学時代の彼女と話さなくなったとき、何を手放したのだろう。
知らない海へ行かなかったとき、どんな自分を置いてきたのだろう。
その痛みを深く感じる前に、玲央は別の安定へ進んだ。
だから今になって、失ったものの名前が分からない。
莉奈は言った。
「瀬川さんが今、少し痛いなら、それは何かを思い出してるからじゃない?」
玲央は答えられなかった。
「たぶん、あなたの中にも、ちゃんと選びたかったものがあったんだよ」
その言葉に、玲央の胸が静かに揺れた。
ちゃんと選びたかったもの。
それは、強い夢ではなかった。
人生を賭けたい目標でもなかった。
誰かを裏切ってでも進みたい道でもなかった。
ただ、小さな望みだった。
描きたい。
話したい。
行ってみたい。
それだけのもの。
けれど、それを選ばなかった記憶が、今になって胸の中で痛んでいる。
玲央は初めて思った。
自由とは、喜びだけを選ぶことではないのかもしれない。
自分の苦しみを、自分のものとして引き受けること。
それもまた、自由なのかもしれない。
その考えは、玲央にとってまだ危うかった。
苦しみを引き受けるなど、簡単に言えることではない。
苦しみには、人を壊すものもある。
支援されるべき苦しみもある。
社会が見逃してはいけない痛みもある。
だが、すべての苦しみを同じように処理してしまえば、人は自分自身の奥へ降りていく道まで失うのかもしれない。
ORACLEは、人を苦しみから守る。
それは正しい。
でも、人が自分の苦しみと出会う時間まで奪ってしまうなら。
そこには、別の危うさがある。
玲央は、自分の端末に目を落とした。
今も、ORACLEは沈黙している。
接続は不安定で、支援は限定的だ。
管理都市に戻れば、この胸の痛みもすぐに整理されるだろう。
感情負荷として分類され、呼吸調整が提示され、過去の未選択に関する認知整理プログラムが勧められるかもしれない。
きっと楽になる。
それはありがたいことのはずだった。
だが、玲央は今、この痛みをすぐに処理したくなかった。
それがどこから来たのか、もう少しだけ見ていたかった。
莉奈が、ベンチから立ち上がる。
「水無瀬さんも、たぶんそうだったんじゃないかな」
玲央は顔を上げた。
「苦しみたかったわけじゃない。でも、自分の苦しみまで勝手に整えられるのが嫌だった」
玲央は、水無瀬の記録を思い出す。
僕は不幸ではない。
だから、誰にも助けを求められない。
でも、僕は生きている感じがしない。
その空白は、支援の届かない苦しみだった。
異常ではない。
危機でもない。
生活破綻でもない。
ただ、自分の人生が自分のものではないように感じる苦しみ。
玲央は静かに息を吐いた。
苦しみまで最適化される社会。
そこでは、多くの人が救われる。
けれど、救われることによって、自分が何に苦しんでいたのか分からなくなる人もいる。
水無瀬は、その境界で立ち止まっていた。
そして、未登録区域へ向かった。
誰も最適化してくれない場所へ。
玲央は、川の向こうを見た。
その先に、旧道がある。
水無瀬が向かったかもしれない道。
まだ行くと決めたわけではない。
それでも玲央は、もうその道から目を逸らすことができなかった。




