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『あなたに最適な人生です』  作者: Yukiya


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7-6:未登録区域への道

7-6:未登録区域への道


 水無瀬蒼が未登録区域へ向かったことが確定したのは、その日の昼過ぎだった。


 玲央と莉奈は、川沿いから戻る途中だった。


 自由選択区域の街は、昼の熱を帯び始めている。

 店先では人々が声を張り、通りには荷物を運ぶ者や、遅れてきたバスを待つ者がいる。

 誰かが道を尋ね、誰かが違う方向を指し、また別の誰かが「そっちは遠い」と口を挟んでいた。


 相変わらず、街は整っていない。


 それなのに、その不規則さにも少しずつ慣れ始めている自分に、玲央は気づいていた。


 そのとき、莉奈の端末が短く鳴った。


 莉奈は画面を見て、少し眉を動かした。


「共同食堂のおばさんから。昨日の男の人のことで、もうひとつ思い出したことがあるって」


 玲央の足が止まった。


 水無瀬のことだ。


 二人はすぐに共同食堂へ向かった。


 食堂の中は、昼の忙しさが少し落ち着いた時間だった。

 数人の客がまだ食事をしていて、店主はカウンターの奥で鍋の火を弱めていた。


 玲央たちを見ると、店主は「ああ、来たね」と言って、カウンターの下を探った。


 そして、古い紙片を一枚取り出した。


「昨日の夜、あの人が道を聞いてきたあと、これを見せたんだよ」


 玲央は紙片を受け取った。


 そこには、自由選択区域の外れにある旧道の案内が描かれていた。


 地図と呼ぶには簡素だった。

 道の線は手書きで、曲がり方も正確とは言えない。

 目印として書かれているのは、古い倉庫、壊れた街灯、枯れた大木、使われていない水門。


 公共の地図には表示されない道だった。


 かつて使われていた生活道路。

 今はほとんど管理対象外になっている旧道。

 整備も不十分で、通る人も少ない。


 その先には、小さな未登録区域があるという。


 店主は、玲央の顔を見ながら言った。


「あの人、そこへ行くって言ってた」


 玲央は紙を見つめた。


 文字が、少し滲んでいる。


 未登録区域への旧道。


 その言葉だけが、妙にはっきり目に残った。


「止めなかったのですか」


 玲央は尋ねた。


 責めるつもりではなかった。

 けれど、声にはわずかな硬さが混じっていたかもしれない。


 店主は静かに答えた。


「止めたよ」


 そして、少しだけ目を伏せた。


「危ないからやめなって言った。道も悪いし、向こうに行っても誰も助けてくれるとは限らない。帰る場所があるなら、帰った方がいいって」


「それでも」


「うん」


 店主は、短く頷いた。


「あの人は行く人だった」


 その言葉は、前にも聞いた。


 止めても行く人の目。


 古本屋の老人も言っていた。

 共同食堂の店主も言った。


 水無瀬蒼は、止めても行く人だった。


 玲央は紙片を持つ指に力を込めた。


 水無瀬は、そこまでして何を見ようとしているのか。


 自由選択区域でも足りなかったのか。

 ここで人々の失敗や迷いや後悔を見ても、まだ足りなかったのか。

 ORACLEの声がさらに薄くなる場所へ行かなければ、彼は自分の人生を取り戻せないと思ったのか。


 玲央は、紙に書かれた道を端末に入力しようとした。


 だが、地名も正確な座標も登録されていない。

 古い倉庫。

 壊れた街灯。

 枯れた大木。

 使われていない水門。


 そうした目印は、ORACLEの現在の地図情報と十分に照合されなかった。


 端末が数秒遅れて反応する。


 そして、警告を表示した。


 未登録区域方面の移動は強く非推奨です。

 支援接続が著しく低下します。

 安全確認が困難です。

 帰還を推奨します。


 強く非推奨。


 これまでよりも明確な警告だった。


 玲央の指が止まる。


 未登録区域。


 そこはORACLEの管理がほとんど及ばない場所。

 端末の支援は不安定になり、医療や安全の即時介入も期待できない。

 誰が住んでいるのかも、どのような生活があるのかも分からない。


 自由選択区域でさえ、玲央には十分に不安定だった。


 店は予定通りに開かない。

 人の記憶は曖昧で、記録も不完全。

 道に迷えば人に聞くしかなく、食事も生活も支援も、日によって揺れる。


 そのさらに外側へ行く。


 それは、玲央がこれまでの人生で一度も経験したことのない選択だった。


 管理都市の外へ出ることさえ、数日前の玲央には考えられなかった。


 それが今、未登録区域への旧道を前にしている。


 莉奈が玲央を見た。


「ここから先は、本当に勧めない」


 玲央は顔を上げる。


「あなたがですか」


「うん。私でも」


 莉奈の表情には、いつもの皮肉っぽさがなかった。


 冗談で流すような軽さもない。

 彼女は本気で言っていた。


「自由選択区域は、まだ戻れる場所だよ。管理都市との接続もあるし、再接続もできる。支援は弱いけど、完全に切れてるわけじゃない。誰かに聞けば、だいたい何とかなる」


 莉奈は、紙に描かれた旧道を見る。


「だけど未登録区域は違う。そこにいる人たちは、もっと深く外へ出た人たち。助けを求めない人もいる。関わられたくない人もいる。自分たちの場所を守ろうとする人もいる」


「水無瀬さんは、そこへ向かいました」


「たぶんね」


「なら、確かめる必要があります」


 莉奈は少しだけ眉を寄せた。


「職員として?」


 玲央は答えようとして、止まった。


 職員として。


 それは半分は正しい。


 玲央は人生最適化庁の職員で、水無瀬の担当者だった。

 彼が自由選択権を行使する直前に面談したのは自分だ。

 水無瀬の安全を確認する責任はある。


 だが、それだけではなかった。


 いや、もうそれだけだとは言えなかった。


 玲央は、自分の中にあるもう一つの理由を無視できなくなっていた。


 水無瀬がなぜ外へ向かったのか。


 数値では測れない苦しみとは何なのか。


 問題がないことが怖いとは、どういうことなのか。


 自分が選ばなかったものは何だったのか。


 苦しみまで最適化される社会の中で、人は何を失うのか。


 自由とは、何なのか。


 それを知りたい。


 玲央は、ゆっくりと言った。


「職員としてだけではありません」


 莉奈は黙って彼を見る。


 店主も、カウンターの向こうで静かに二人を見ていた。


「私は、知りたいんです。水無瀬さんが何を求めたのか。そして……自分が何を避けてきたのか」


 口にした瞬間、玲央は胸の奥が震えるのを感じた。


 それは、ORACLEの推奨ではない。


 神崎の命令でもない。


 職務上の手続きだけでもない。


 自分の内側から出てきた言葉だった。


 玲央は、そのことに少し驚いた。


 同時に、怖くもあった。


 自分の言葉で何かを決めようとしている。


 その感覚は、これまでの玲央にとって、あまりにも不慣れだった。


 莉奈はしばらく玲央を見つめていた。


 やがて、小さく息を吐く。


「怖くない?」


「怖いです」


 玲央は即答した。


 取り繕う余裕はなかった。


「支援が届かない場所へ行くことも、正しい判断か分からないまま進むことも、怖いです」


「それでも?」


 玲央は、紙に書かれた旧道を見る。


 手書きの線。

 曖昧な目印。

 公共地図にはない道。

 ORACLEが強く非推奨と表示する場所。


 そして、以前見つけた言葉が胸によみがえる。


 ここから先は、誰も最適化してくれない。


 その言葉が、また胸に響く。


 玲央は静かに頷いた。


「それでも、行きます」


 言ってから、少しだけ息が止まった。


 自分で言った。


 ORACLEに促されたわけではない。

 誰かに背中を押されたわけでもない。

 神崎に命じられたわけでもない。


 自分で、行くと言った。


 莉奈は少しだけ困ったように笑った。


「管理都市の人にしては、ずいぶん面倒な迷い方をするね」


「迷っているのは、事実です」


「うん。でも、今のはちゃんと自分で言った」


 その言葉に、玲央は何も返せなかった。


 胸の奥に、不安とは違う熱が生まれていた。


 強い決意というほどはっきりしたものではない。

 勇気と呼べるほど美しいものでもない。


 ただ、自分の言葉が自分の中から出てきたという、頼りない確かさだった。


 午後の光が、食堂の窓から差し込んでいる。


 テーブルの傷。

 使い込まれた椅子。

 湯気の立つ鍋。

 窓の外を通り過ぎる人の影。


 外では、自由選択区域の人々がいつも通り、不規則に、騒がしく、迷いながら生きている。


 その向こうに、未登録区域への道がある。


 ORACLEの声が届きにくくなる場所。

 正解がさらに遠くなる場所。

 水無瀬蒼が向かった場所。


 玲央は端末を見た。


 警告はまだ表示されている。


 帰還を推奨します。


 その文字は、正しい。


 少なくとも、安全という意味では。

 合理性という意味では。

 職務上のリスクを避けるという意味では。


 玲央は、しばらくその表示を見つめた。


 管理都市へ戻ればいい。


 神崎に報告し、追跡支援班に引き継ぐ。

 自分は職務復帰し、面談業務へ戻る。

 生活リズムを整え、感情負荷を評価し、この数日の出来事を適切に処理する。


 それが最適だった。


 だが、今の玲央にとって、その最適はもう答えではなかった。


 玲央は、その通知を閉じた。


 画面が暗くなる。


 完全に不安が消えたわけではない。


 むしろ、不安はこれまでよりも大きかった。


 胸は重い。

 呼吸も浅い。

 支援が薄くなる場所へ向かう恐怖は、確かにある。


 だが、その不安を消すために戻る気にはなれなかった。


 玲央は地図を手に取った。


 紙は軽く、頼りない。


 けれど、その薄い紙の先に、水無瀬の問いが続いている。


 莉奈は、玲央を見た。


「私も行く」


 玲央は驚いて顔を上げた。


「危険だと言ったばかりです」


「だから一人で行かせる方が危ないでしょ」


「しかし、これは私の判断です。あなたが付き合う必要はありません」


「そういう真面目なこと言うと思った」


 莉奈は苦笑した。


「私も、自分で行くって決めたの。あなたに命令されたわけじゃない」


 玲央は言葉を失った。


 自分で行くと決める。


 その言葉の重さを、昨日までの玲央なら分からなかったかもしれない。


 店主が、カウンターの向こうから布の袋を差し出した。


「水と、少し食べ物。旧道には店なんてないから」


 玲央は戸惑った。


「なぜ、そこまで」


「止めても行く人には、せめて水を持たせるんだよ」


 店主はそう言って、少しだけ笑った。


 玲央は、袋を受け取った。


 重さが手に伝わる。


 誰かの親切。

 誰かの心配。

 誰かの諦め。

 それらが混ざった重さだった。


 玲央は深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


 食堂を出ると、街の空気が少し変わったように感じられた。


 実際には何も変わっていない。


 人々は変わらず歩き、話し、笑い、怒り、迷っている。

 店の看板は傾いたままで、道は不規則で、どこからか焦げた匂いが漂っている。


 だが、玲央の中では何かが静かに決まっていた。


 帰るのか。

 進むのか。


 その問いに、まだ恐怖はある。


 だが、玲央は進むことを選んだ。


 正しいかどうか分からないまま。


 安全かどうか分からないまま。


 それでも、自分の意思で。


 未登録区域への旧道は、自由選択区域のさらに外れにある。


 ORACLEの案内は頼りにならない。

 道も整っていない。

 水無瀬に会える保証もない。


 それでも玲央は歩き出した。


 莉奈が隣に並ぶ。


 端末は沈黙していた。


 いや、正確には、まだ警告は残っている。

 支援接続低下。

 帰還推奨。

 移動非推奨。


 だが、玲央はもう画面を見なかった。


 自分の目で道を見る。


 自分の足で進む。


 それは、まだぎこちない歩き方だった。


 迷いも、不安も、恐怖も消えていない。


 けれど、確かに玲央は、自分の意思で未登録区域への道を選んだ。


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