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『あなたに最適な人生です』  作者: Yukiya


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7-2:幸福指数の空白

7-2:幸福指数の空白


 その日の午後、玲央は簡易宿泊所の小さな部屋で、水無瀬蒼のデータをもう一度開いた。


 窓の外は、まだ明るい。


 自由選択区域の通りでは、昼過ぎのざわめきが続いていた。

 誰かが荷物を運ぶ音。

 店先で交わされる声。

 遠くから聞こえる古い音楽。

 子どもの笑い声。


 その音を背に、玲央は机の前に座っていた。


 机は小さく、表面には細かな傷がある。

 脚もわずかに揺れ、腕を置くたびに小さな音を立てた。


 管理都市の執務机なら、こんな不安定さは許容されない。

 だが今の玲央には、その小さな揺れが妙に現実的に感じられた。


 端末を起動する。


 ORACLEの接続は不安定だった。

 画面の切り替わりに、わずかな遅れがある。

 ときどき通信状態を示す表示が弱く点滅した。


 それでも、庁内職員としての最低限の記録閲覧権限は残っている。


 玲央は、水無瀬蒼の公式データを開いた。


 何度見ても、記録は整っていた。


 幸福安定指数、七十九から八十三の範囲で推移。

 精神負荷、基準内。

 孤独リスク、低から中。

 職業適合度、良好。

 生活破綻リスク、低。

 健康状態、安定。

 対人関係、標準範囲内。


 どこにも大きな異常はない。


 玲央はグラフを拡大した。


 月ごとの変動。


 大きな落ち込みはない。

 安定した範囲の中で、ゆるやかな上下があるだけだった。


 週ごとの変動。


 仕事の繁忙期に軽い負荷上昇がある。

 だが、休養プランによってすぐに回復している。

 対人関係の乱れも、健康の悪化も見当たらない。


 日ごとの変動。


 そこにも、危険な兆候はなかった。


 むしろ、水無瀬の人生は理想的な安定を示していた。


 ORACLEの支援が適切に働き、生活は破綻せず、心身の負荷も管理範囲に収まっている。

 職業も安定し、孤独も深まりすぎず、将来予測も良好。


 玲央がこれまで市民に説明してきた基準で言えば、水無瀬は明らかに「順調」だった。


 いや、順調すぎるほどだった。


 だが、前日に入手した補助記録の中に、玲央はひとつの未分類フォルダを見つけた。


 個人記述ログ:非共有設定。


 玲央は指を止めた。


 通常、ORACLEは市民の私的記録を直接分析することはできない。


 本人が許可した場合。

 危機介入が必要と判断された場合。

 または、本人が人生プラン見直しのために一部資料として提出した場合。


 そうした例外を除き、日記や私的メモは保護される。


 最適化社会であっても、すべての内面が常に開かれているわけではない。

 少なくとも制度上は、そう設計されている。


 水無瀬は自由選択権を行使する直前、一部の記録を自分の人生プラン見直し資料として提出していた。


 おそらく、彼自身も説明しようとしていたのだ。


 自分の中にある違和感を。

 数値には出ない苦しみを。

 なぜ最適な人生を受け入れられないのかを。


 玲央は閲覧許可の範囲内で、その一部を開いた。


 そこには、短い文章がいくつも残されていた。


 今日も何も問題はなかった。

 問題がないことが、少し怖い。


 玲央の指が止まった。


 問題がないことが、怖い。


 管理都市では、問題がないことは望ましい状態だった。

 生活が安定し、心身の負荷が少なく、周囲との摩擦も少ない。

 それは支援が機能している証拠であり、本人にとっても社会にとっても良いことのはずだった。


 だが、水無瀬はそこに怖さを感じていた。


 玲央は次の記録を開いた。


 仕事は順調。

 上司にも評価された。

 帰宅後の食事も推奨通り。

 睡眠も改善。

 なのに、何かが薄い。


 何かが薄い。


 それは、数値化されていない言葉だった。


 不安ではない。

 抑うつでもない。

 孤独でもない。

 疲労でもない。


 何かが薄い。


 玲央は、その曖昧さに戸惑った。


 だが同時に、その言葉を簡単には切り捨てられなかった。


 さらに別の日の記録。


 幸福指数が上がった。

 端末には「良好」と表示された。

 でも、僕の中では何も良くなった感じがしない。

 このずれは、どこに記録されるのだろう。


 玲央は画面を見つめたまま動けなかった。


 幸福指数は安定している。


 むしろ、上昇している。


 ORACLEは良好と表示している。


 それなのに、水無瀬の中では何も良くなった感じがしていない。


 このずれは、どこに記録されるのだろう。


 玲央は、もう一度公式データのグラフを見た。


 美しい線だった。


 乱れがなく、危険域にも入らず、適切に管理された生活を示している。


 だが、その裏側に、水無瀬は苦しみを書き残していた。


 数値には現れていない。

 危険域にも入っていない。

 介入対象にもなっていない。


 それでも、確かに苦しみはあった。


 玲央は、別のメモを開く。


 ORACLEは、僕が苦しまないようにしてくれる。

 でも、苦しまないように整えられるたびに、僕は自分が何に苦しんでいたのか分からなくなる。


 玲央の指が止まった。


 自分が何に苦しんでいたのか分からなくなる。


 それは、玲央にとって初めて触れる感覚だった。


 管理社会では、苦しみは早期に検知される。


 睡眠。

 心拍。

 発話量。

 表情。

 生活リズム。

 交流頻度。

 食事内容。

 移動範囲。

 仕事の負荷。


 あらゆるデータが心の揺らぎを捉え、悪化する前に支援が入る。


 それは人を救う。


 苦しみが深くなる前に気づける。

 孤独が危険域に入る前に、誰かにつなげる。

 仕事で壊れる前に、配置を変えられる。

 感情が乱れすぎる前に、呼吸を整えられる。


 玲央は、その仕組みを信じてきた。


 そして今も、その価値を否定できない。


 だが、水無瀬はその支援によって、自分の苦しみの輪郭を失っていた。


 苦しむ前に調整される。

 悲しみが深くなる前に和らげられる。

 後悔が大きくなる前に、別の選択肢を提示される。

 迷いが長引く前に、最適な道が示される。


 その結果、人は何に傷ついたのか、何を失ったのか、何を望んでいたのかを、最後まで見つめる機会を失うのかもしれない。


 玲央は、端末の画面に映る文字を見つめ続けた。


 苦しまないように整えられるたびに。


 その言葉は、莉奈の過去とも重なった。


 悲しみは減った。

 後悔も減った。

 生活も乱れなかった。

 でも、私がその人を好きだったことまで、なかったことにされていく感じがした。


 ORACLEは、莉奈を傷つかないように守った。


 水無瀬を、苦しまないように整えた。


 その優しさは本物だった。


 けれど、その優しさによって失われるものもあった。


 痛みの意味。

 悲しみの輪郭。

 望みの正体。

 自分が何に傷ついたのかを知る時間。


 玲央は、さらに一文を見つけた。


 僕は不幸ではない。

 だから、誰にも助けを求められない。

 でも、僕は生きている感じがしない。


 玲央は画面から目を離した。


 胸の奥が、ゆっくりと重くなる。


 不幸ではない。


 だから、助けを求められない。


 水無瀬の苦しみは、分かりやすい不幸ではなかった。


 失業しているわけではない。

 孤独死の危険があるわけではない。

 虐げられているわけでもない。

 生活が破綻しているわけでもない。

 健康を大きく損ねているわけでもない。


 むしろ、彼は安定していた。


 だからこそ、助けを求められなかった。


 幸福安定指数は高い。

 生活は順調。

 未来も明るい。


 その状態で、「生きている感じがしない」と言っても、どこへつなげればよいのか。


 玲央自身も、面談室で答えられなかった。


 あなたに最適化された人生です。


 そう答えることしかできなかった。


 部屋の外から、誰かの笑い声が聞こえた。


 壁の薄い宿泊所では、他人の生活音がそのまま届く。


 廊下を歩く足音。

 どこかの部屋で椅子が動く音。

 階下で誰かが言い合う声。

 外を通る人の話し声。


 管理都市なら、不快刺激として処理される音。


 睡眠を妨げ、集中効率を下げ、感情負荷を高める可能性のある音。


 けれど今、その音が妙に現実感を持って聞こえた。


 誰かがいる。

 誰かが笑っている。

 誰かが苛立っている。

 誰かが生活している。


 数値ではなく、音として届く他人の存在。


 玲央は、ゆっくり息を吐いた。


 幸福指数が安定していても、苦しみはある。


 数値が異常を示さなくても、人は空白を抱える。


 それは、玲央がこれまで十分に見てこなかったものだった。


 ORACLEは多くを測れる。


 身体の変化。

 生活の乱れ。

 対人関係の負荷。

 将来のリスク。

 幸福安定指数。


 だが、人が自分の人生を自分のものだと思えているか。


 苦しみの輪郭を、自分で見つめられているか。


 何かを望んでいる自分を、怖がりながらも認められているか。


 それらは、どこまで測れるのだろう。


 玲央は初めて、ORACLEが測れるものと、測れないものの境界を意識した。


 これまで、ORACLEに測れないものがあるとは考えてこなかった。


 正確には、考える必要がなかった。


 ORACLEは十分に多くを測り、その測定によって社会は救われてきた。

 だから、測れないものがあるとしても、それは重要ではないと思っていた。


 だが、水無瀬の記録は違った。


 公式データの中では安定している人間が、私的なメモの中で空白を抱えている。


 幸福安定指数は良好。

 本人の言葉は、生きている感じがしない。


 そのずれは、小さな誤差ではなかった。


 玲央は画面をもう一度見る。


 水無瀬のメモは、まだ続いていた。


 誰かに止めてほしいのかもしれない。

 でも、止められたら、たぶん安心してしまう。

 安心したら、また何も感じない生活に戻ってしまう。


 玲央は息を止めた。


 水無瀬は、自分が揺れていることを知っていた。


 止められたい気持ちもあった。

 安心したい気持ちもあった。

 ORACLEに戻れば楽になることも分かっていた。


 それでも、戻ればまた何も感じない生活に戻ってしまうと恐れていた。


 自由が怖いのではない。

 自由を望んでいる自分が怖い。


 あの紙片の言葉とつながる。


 玲央は、端末の画面を静かに閉じた。


 これ以上読み進めることに、少し怖さを覚えた。


 水無瀬を追っているはずだった。


 だが、その記録を読むほど、玲央自身の中にも同じ問いが入り込んでくる。


 自分は不幸ではない。


 生活は安定している。

 仕事もある。

 健康も保たれている。

 大きな後悔もない。


 では、自分は生きている感じを持っていたのか。


 玲央は、すぐには答えられなかった。


 窓の外で、誰かが大きく笑った。


 その声は少し乱暴で、少し大きすぎた。

 管理都市なら、端末が声量注意を出すかもしれない。


 だが今、玲央はその声を不快とは思わなかった。


 そこには、数値には変換されない生の気配があった。


 玲央は、閉じた端末の上に手を置いた。


 境界の向こう。


 ORACLEが測れるものと、測れないもののあいだ。


 その場所に、水無瀬蒼が立っているような気がした。


 そして、玲央自身もまた、その境界の手前まで来てしまっているのだと感じていた。


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