第7章:苦しみは誰のものか 7-1:水無瀬を追って
7-1:水無瀬を追って
翌朝、玲央は未登録区域へ向かうかどうかの答えを出せないまま、自由選択区域の通りを歩いていた。
夜は浅い眠りしか取れなかった。
隣室の音。
外を歩く人の声。
不規則に動く空調。
古いベッドの軋み。
それらが何度も眠りを浅くした。
端末は朝から、管理都市への帰還を推奨していた。
睡眠効率、低下。
判断力への影響、軽度。
未登録区域方面への移動、非推奨。
管理都市への帰還、および職務復帰を推奨。
玲央はその表示を確認したが、承認はしなかった。
かといって、未登録区域へ向かう決断もできなかった。
帰るのか。
進むのか。
その二つの選択の間で、玲央の思考は何度も揺れた。
隣には莉奈がいた。
彼女はいつものように、端末ではなく周囲を見ながら歩いている。
通りの角で店主に軽く手を振り、道端で荷物を落とした男に「またやってる」と声をかけ、玲央が少し遅れると振り返った。
「いきなり外へ行く前に、もう少し水無瀬さんの足取りを追った方がいいと思う」
莉奈はそう言った。
「未登録区域へ行った可能性は高い。でも、何を求めて行ったのか分からないまま追いかけても、見つけたときに何を話せばいいか分からないでしょ」
玲央はその言葉に反論できなかった。
水無瀬を見つけること。
それが目的だと思っていた。
だが、もし実際に会えたとして、自分は何を言うのか。
戻りましょう。
ORACLEの支援に再接続しましょう。
あなたにとって、その方が安全です。
それは職員としては正しい言葉かもしれない。
だが、水無瀬はその言葉から逃げるように、この区域へ来たのだ。
安全だから戻る。
安定するから戻る。
幸福安定指数が高いから戻る。
その説明では、水無瀬には届かない。
少なくとも、昨日までの玲央ならそう言っただろう。
そして、おそらく水無瀬は、また静かに笑うだけだった。
これは、誰の人生なんでしょうか。
あの問いに、玲央はまだ答えられていない。
だからまず、玲央は水無瀬が立ち寄った場所をもう一度たどることにした。
最初に向かったのは、前日に訪れた古本屋だった。
店は今日も開いていた。
入口の札には、相変わらず「開いているときは開いています」と書かれている。
玲央はその札を見て、少しだけ眉を動かしたが、昨日ほど強い違和感はなかった。
引き戸を開けると、古い木が軋む音がした。
中には、紙の匂いが満ちている。
店主の老人は、今日も奥の椅子に座って新聞を読んでいた。
昨日と同じ姿勢で、昨日と同じように、鼻の下までずれた眼鏡をかけている。
莉奈が事情を話すと、老人は新聞を畳んだ。
「またあの男の話か」
「もう少し知りたいんだって」
莉奈が玲央を見る。
玲央は一歩前へ出た。
「水無瀬さんがここで何を読んでいたのか、確認したいのです」
老人はしばらく玲央を見た。
その視線は、どこか試すようでもあった。
「役所の人間が、古い本に興味を持つとはな」
「本に興味を持ったというより、水無瀬さんが何を探していたのかを知りたいのです」
「同じことだ」
老人はそう言って、ゆっくり立ち上がった。
本棚の間へ入り、迷わず一角へ向かう。
しばらく背表紙を眺め、棚の奥から一冊の古い本を取り出した。
「その男が最後まで手に取っていた本だ」
表紙は擦り切れていた。
角は丸くなり、紙は少し黄ばんでいる。
表紙には、かすれた文字でこう書かれていた。
自由と責任について
玲央は本を受け取った。
手にした瞬間、紙の重みが指に伝わった。
電子書籍とは違う。
情報そのものではなく、物としてそこにある本の重さ。
誰かが読み、ページをめくり、どこかに置き、また別の誰かが手に取ってきた時間の重さ。
玲央は慎重にページを開いた。
ページの端には、ところどころ鉛筆で薄い線が引かれていた。
水無瀬が引いたものかどうかは分からない。
以前の読者のものかもしれない。
だが、ある一文の横に、小さな紙片が挟まれていた。
玲央はそれを取り出す。
そこには、短い手書きのメモがあった。
自由が怖いのではない。
自由を望んでいる自分が怖い。
玲央はその文字を見つめた。
紙片は小さく、端が少し折れていた。
字は丁寧だが、どこか迷いがある。
一度書いて、消そうとして、やはり残したような筆跡だった。
水無瀬の字だという確証はない。
それでも、玲央には分かった気がした。
これは、水無瀬の言葉だ。
自由が怖いのではない。
自由を望んでいる自分が怖い。
水無瀬は、ただ管理社会を嫌っていたわけではない。
自由を理想として単純に憧れていたわけでもない。
彼は、自由を望む自分自身に怯えていた。
安定した人生がある。
支援もある。
安全もある。
未来も整っている。
それなのに、その道から外へ出たいと思ってしまう。
その感情が、自分の中にあることが怖かったのかもしれない。
玲央は、紙片を持つ指に力が入るのを感じた。
それは、自分にも少し分かる感覚だった。
帰るべきだと分かっている。
ORACLEの推奨が正しいと分かっている。
神崎の忠告にも理があると分かっている。
それでも、未登録区域へ向かう道から目を離せない。
その自分が、玲央自身にも分からなかった。
次に二人は、共同食堂へ向かった。
店主の女性は、朝の仕込みをしながら二人を迎えた。
鍋からは湯気が立ち、店内には野菜と出汁の匂いが漂っている。
玲央が水無瀬のことを尋ねると、店主は窓際の席を指さした。
「そこに座って、ずっと外を見ていたよ」
窓際の小さな席だった。
古い木のテーブルに、傷のある椅子が一脚。
窓ガラスには細かな曇りがあり、外の景色は少しだけ柔らかく見える。
玲央はその席に近づいた。
そこからは、自由選択区域の通りがよく見えた。
人々が行き交い、店先で話し込み、時に言い争い、時に笑う。
荷物を抱えた人が急ぎ、子どもが走り、老人が道端で誰かを待っている。
整ってはいない。
予定通りでもない。
だが、生々しく動いている街。
水無瀬は、ここからその光景を見ていた。
「何か話していましたか」
玲央が尋ねると、店主は鍋をかき混ぜながら答えた。
「ここにいる人たちは、どうしてこんなに疲れているのに、帰らないんですかって聞かれたね」
「それに、あなたは何と答えたのですか」
「帰れる人ばかりじゃないし、帰りたい人ばかりでもないって言ったよ」
店主は少し笑った。
「そしたら、あの人、黙り込んでね。しばらく外を見てた」
玲央は、窓の外を見る。
水無瀬も同じ景色を見ていたのだろうか。
疲れている人々。
迷いながら生きる人々。
失敗しながら、それでも戻らない人々。
「最後に、こう言ってた」
店主の声に、玲央は振り返った。
「自分は、帰る場所があるのに、帰りたくないのかもしれないって」
玲央の胸に、その言葉が沈んだ。
帰る場所があるのに、帰りたくない。
水無瀬には、管理社会の中に安定した生活があった。
住居もある。
仕事もある。
支援もある。
未来もある。
ORACLEの提示した人生プランに戻れば、彼は守られる。
帰れば、生活は整う。
それでも彼は戻らなかった。
帰る場所がない人間ではない。
帰りたくない人間だった。
その違いは、玲央の中に重く残った。
次に二人は、駅裏の小さな修理工房へ向かった。
黒木は、今日も古い端末を修理していた。
机の上には昨日とは別の機械が広げられ、部品の小さな山がいくつも作られている。
莉奈が水無瀬について尋ねると、黒木は工具を動かしながら答えた。
「ああ、来たよ。古い端末を見せに来た」
「端末?」
玲央は聞き返した。
「あいつ、自分の端末からORACLEの補助通知を減らせないかって聞いてきた」
玲央は眉を寄せた。
「それは、規定外改造です」
「だから断った」
黒木は淡々と言った。
「端末の通知制御は安全支援に関わる。素人が変にいじれば、緊急時の接続まで切れる。俺はそこまで面倒見る気はない」
その言い方は乱暴だったが、判断は正しかった。
水無瀬は、ORACLEの通知を減らそうとしていた。
完全に断ち切るのではなく、減らす。
その違いが、玲央には引っかかった。
「ただ」
黒木は工具を置いた。
「完全に切りたいわけじゃなさそうだった。助けが欲しい気持ちと、放っておいてほしい気持ちが混ざってたな」
莉奈が小さく息を吐いた。
「分かる気がする」
玲央は黒木を見る。
「水無瀬さんは、何か言っていましたか」
黒木は少しだけ考えた。
「ORACLEが間違っているとは思わない、と言っていた」
玲央は顔を上げた。
「間違っていない?」
「ああ。むしろ正しすぎるってな」
黒木は玲央を見た。
「正しすぎるものに囲まれていると、自分が間違える余地がなくなる。そう言っていた」
玲央は黙り込んだ。
正しすぎるもの。
ORACLEの推奨は、間違っていなかった。
水無瀬も、それを理解していた。
自分にとって安定した人生だと分かっていた。
幸福安定指数が上がることも、失敗が減ることも、後悔しにくいことも分かっていた。
だからこそ苦しかったのかもしれない。
間違っているなら、拒める。
理不尽なら、怒れる。
誰かに押しつけられたものなら、反発できる。
だが、ORACLEは正しい。
少なくとも、多くの場合は。
正しいからこそ、人は従う。
正しいからこそ、疑う理由を失う。
正しいからこそ、自分の中にある小さな違和感を、わがままや不安定さとして処理してしまう。
水無瀬が求めていたものが、少しずつ見えてくる。
彼は幸せを捨てたかったわけではない。
安全を軽んじていたわけでもない。
ORACLEを憎んでいたわけでもない。
彼が求めていたのは、おそらく、間違える余地だった。
正しくなくても、自分で選べる場所。
失敗するかもしれなくても、自分の意思で立てる場所。
玲央は、そのことに気づき始めていた。
黒木は、修理中の端末へ視線を戻した。
「あいつ、最後に言ってたよ」
玲央は顔を上げる。
「何をですか」
「間違えたくないんじゃない。間違えても自分のせいだと思える場所に行きたいって」
工房の中が、少しだけ静かになった。
外の通りからは、人の声が聞こえている。
誰かが自転車を止める音。
店先で呼びかける声。
遠くの市場のざわめき。
その中で、黒木の言葉だけが、玲央の胸に深く残った。
間違えても、自分のせいだと思える場所。
それは、幸福な場所ではないかもしれない。
安全な場所でもないかもしれない。
だが、水無瀬にとっては、自分の人生を取り戻すために必要な場所だったのかもしれない。
玲央は、自分の手元を見た。
古本屋で見つけた紙片。
共同食堂で聞いた言葉。
修理工房で得た証言。
水無瀬の足取りは、単なる逃避ではなかった。
彼は問いを追っていた。
自由が怖いのではない。
自由を望んでいる自分が怖い。
帰る場所があるのに、帰りたくない。
正しすぎるものに囲まれていると、自分が間違える余地がなくなる。
それらの言葉が、玲央の中で一本の線になり始めていた。
水無瀬は、自由を探している。
美しい自由ではない。
明るく輝く解放でもない。
誰もが幸せになる答えでもない。
自分で間違えられる場所。
自分で苦しめる場所。
自分の人生だと言える場所。
玲央は、黒木の工房を出るとき、端末を見なかった。
ORACLEの推奨を確認したい気持ちはあった。
だが今は、自分の中でつながりかけているものを、すぐに分類されたくなかった。
通りに出ると、莉奈が隣に並んだ。
「少し、見えてきた?」
玲央は、すぐには答えなかった。
見えてきた。
けれど、見えてきたものを認めるのが怖かった。
やがて、玲央は小さく言った。
「水無瀬さんは、ORACLEから逃げたのではないのかもしれません」
「じゃあ、何から?」
莉奈が尋ねる。
玲央は、通りの先を見た。
未登録区域へ続く旧道の方角。
「間違えられない人生から、逃げたのかもしれません」
莉奈は何も言わなかった。
ただ、少しだけ玲央を見て、それから同じ方角へ視線を向けた。
その沈黙は、肯定にも否定にも聞こえなかった。
だが玲央には、その沈黙で十分だった。




