↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『あなたに最適な人生です』  作者: Yukiya


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
35/59

6-6:玲央の動揺

6-6:玲央の動揺


 その夜、玲央は自由選択区域の簡易宿泊所に戻った。


 部屋は狭かった。


 ベッドが一つ。

 小さな机が一つ。

 壁に取り付けられた古い照明。

 窓の外には、隣の建物の壁が近く見えている。


 管理都市の住居のように、空間が身体負荷に合わせて設計されているわけではない。

 家具の高さも、照明の角度も、空調の流れも、玲央の状態に最適化されてはいなかった。


 壁は薄く、隣室の物音が聞こえた。


 誰かが椅子を動かす音。

 小さな咳払い。

 低い話し声。

 水道を使う音。


 窓の外からは、通りを歩く人々の声が届いていた。

 市場はもう閉まっているはずなのに、どこかでまだ片づけをしているらしく、金属がぶつかる音が遠くから響いてくる。


 空調は安定せず、ときどき弱い風が途切れた。


 照明の明るさも、自動調整されない。

 玲央が手元の古いスイッチで明るさを変える必要があった。


 寝具も、管理都市のものに比べれば質が低い。


 硬すぎるわけではない。

 不潔というほどでもない。

 だが、身体に合わせて温度や反発を変えてくれることはない。


 ここでは、眠ることさえ最適化されない。


 玲央の端末が、静かに振動した。


 画面には、ORACLEの通知が表示されている。


 現在の滞在環境は、睡眠効率低下の可能性があります。

 管理都市への帰還を推奨します。

 未登録区域方面への移動は非推奨です。

 帰還後、感情負荷評価および職務適合再確認を推奨します。


 玲央は端末を見つめた。


 正しい。


 ここにいるより、管理都市へ戻った方がいい。


 神崎に報告し、水無瀬の痕跡を追跡支援班へ渡す。

 未登録区域への旧道に関する地図と、共同食堂で得た証言を共有する。

 自分は本来の業務に戻る。


 それが合理的だった。


 それが安全だった。


 それが最適だった。


 玲央はベッドに腰を下ろした。


 古いスプリングが、小さく軋む。


 その音に、玲央は少しだけ身を強張らせた。


 管理都市では、寝具が音を立てることなどほとんどない。

 不要な刺激は眠りの質を下げるからだ。


 けれど、この部屋ではすべてが少しずつ玲央の身体に触れてくる。


 音。

 匂い。

 温度。

 硬さ。

 暗さ。


 世界が、管理都市よりもずっと近かった。


 玲央は今日出会った人々のことを思い返した。


 夢に破れた男。


 自分の映像を作りたいと願い、ORACLEの安定した職業プランを拒否した人。

 結果として生活は不安定になり、今は日雇いの修理補助をしている。

 それでも、まだ撮りたいものがあると言って笑っていた。


 恋愛に失敗した女性。


 相性指数の低い相手を選び、生活を乱し、傷つき、別れた人。

 ORACLEは正しかったと言いながら、それでもその一年を完全には手放せないでいた。


 家族から逃げた男。


 修復プログラムを拒み、関係を断つために自由選択権を行使した人。

 自由になったはずなのに、自分が何をしたいのか分からなくなったと言っていた。


 管理社会へ戻りたいと願った三枝紗季。


 自分の店を開き、最初は自分の手で人生を動かしている感覚を得た。

 だが、生活は崩れ、資金繰りに追われ、人間関係も壊れた。

 自由は重すぎました。

 彼女はそう言って、再接続申請書に名前を書いた。


 それでも自由選択区域に残る黒木。


 管理都市にいた方が楽だったと言いながら、それでも古い端末を直していた男。

 失敗しても、自分で選んだ結果だから。

 苦しさまで俺のものだ。

 自分で間違えたいからだ。

 彼はそう言った。


 そして、莉奈。


 管理都市の東区で、安定した人生プランを持っていた女性。

 大切な人との関係をORACLEに非推奨とされ、少しずつ手放していった。

 悲しみは減り、生活は安定した。

 けれど、胸の中が空っぽになった。


 もう一度、自分で傷つける場所に行きたかった。


 莉奈はそう言った。


 玲央は、両手を膝の上で組んだ。


 自由を選んだ人々は、必ずしも幸せそうではなかった。


 苦しんでいた。

 迷っていた。

 後悔していた。

 時には、管理社会の支援を必要としていた。


 自由選択区域は、玲央がどこかで想像していたような、解放された人々の楽園ではなかった。


 不便で、不安定で、危うい場所だった。


 神崎の言葉は正しかった。


 自由は人を壊すことがある。


 玲央は、その現実を見た。


 けれど同時に、別の現実も見てしまった。


 失敗しても、自分で選んだ結果だから残ると言った黒木。

 傷つく可能性ごと奪われたくなかった莉奈。

 生きている感じがしないと言った水無瀬。


 彼らの言葉は、玲央の中で互いにぶつかり合っていた。


 管理社会は、人を守る。


 それは間違いない。


 生活を整える。

 失敗を減らす。

 孤独を防ぐ。

 健康を守る。

 危険な選択を避ける。

 傷つく前に、そっと引き戻す。


 その支援がなければ、三枝のような人はさらに深く傷ついていたかもしれない。

 大原のような市民は、身体を壊すまで働き続けていたかもしれない。

 多くの人が、選択の重さに押し潰されていたかもしれない。


 ORACLEは必要だ。


 玲央は、そう思う。


 今でも。


 以前よりも、むしろ強く。


 だが、守るという名のもとに、人から何かを遠ざけてもいるのではないか。


 痛み。

 迷い。

 後悔。

 失敗。

 傷つく可能性。

 そして、自分で選んだという感覚。


 それらは、すべて取り除くべきものなのだろうか。


 玲央は、自分の人生を思い返した。


 大きな失敗はなかった。


 進路で迷い、泣き崩れた夜はない。

 就職に失敗して、自分を否定したこともない。

 誰かを深く愛して、失ったこともない。

 間違った選択をして、人生を崩したこともない。


 大きな後悔もなかった。


 あのとき別の道を選んでいたら。

 あの人に会いに行っていたら。

 あの仕事を断っていたら。

 そんな思いに何年も囚われたことはない。


 傷つきすぎる前に、いつもORACLEが道を整えてくれた。


 危険な関係には近づかなかった。

 向いていない仕事は選ばなかった。

 生活が乱れそうな行動は避けた。

 感情が高まりすぎる前に、呼吸を整えた。


 それは幸福だったのだろうか。


 それとも、幸福に似た安定だったのだろうか。


 玲央は、答えを出そうとして端末に手を伸ばした。


 ORACLEに問いを入力すれば、きっと何らかの回答が返ってくる。


 自由選択区域滞在による心理的影響。

 自己決定感の一時的変動。

 管理外環境接触による認知的揺らぎ。

 担当市民への共感傾向上昇。

 職務中立性維持のための推奨行動。


 きっと分類してくれる。


 理由を示し、対処法を提案してくれる。


 呼吸を整える方法。

 帰還すべき時刻。

 神崎への報告文。

 水無瀬の件を追跡支援班へ引き継ぐ手順。

 未登録区域へ向かわないための行動抑制プラン。


 いつものように。


 玲央は、しばらく端末を見つめた。


 画面は、暗いままだった。


 指先が、入力欄の上で止まる。


 そして、玲央は手を止めた。


 今、この揺らぎをすぐに分類されたくない。


 そう思った。


 その感覚に、玲央自身が驚いた。


 これまでの玲央なら、不安は早く処理したかった。


 迷いは解消したかった。

 感情は整えたかった。

 分からないことには、名前をつけたかった。

 名前がつけば、対処できる。

 対処できれば、落ち着ける。


 それが当然だった。


 だが今は、この分からなさを、すぐに消したくなかった。


 莉奈の言葉がよみがえる。


 分からないって、けっこう大事だよ。

 分かったふりをしなくて済むから。


 玲央は端末を伏せた。


 部屋の中に、静けさが落ちる。


 いや、完全な静けさではない。


 隣室の物音。

 外を通る人の声。

 遠くの市場の片づけの音。

 どこかで扉が閉まる音。

 階下から漏れる笑い声。


 この街は、夜になっても整いきらない。


 管理都市の夜のように、睡眠へ向かうために音も光も整えられることはない。

 人の生活が、夜の中にそのまま残っている。


 玲央は、その音を聞きながら目を閉じた。


 自由は救いなのか。


 それとも苦しみなのか。


 管理は支配なのか。


 それとも優しさなのか。


 どちらか一方だけが正しいわけではない。


 そのことが、玲央をさらに迷わせた。


 単純に自由を称えられれば、楽だった。

 ORACLEは間違っている、管理社会は人間を奪っている、自由こそが答えだ。

 そう思えれば、水無瀬の後を追う理由も明確になる。


 逆に、自由は危険だと切り捨てられれば、それも楽だった。

 神崎の言う通り、自由選択区域は混乱の場所であり、人間は自由に耐えられない。

 そう思えれば、管理都市へ戻ればいい。


 だが、どちらでもなかった。


 自由は人を救うこともある。

 人を壊すこともある。


 管理は人を守ることもある。

 人の何かを奪うこともある。


 ORACLEへの信頼は、まだ消えていない。


 むしろ、今日見た現実によって、ORACLEの必要性を強く感じた部分もある。


 自由に疲れた人。

 自分で決めることに傷ついた人。

 支えがなければ崩れてしまう人。


 そういう人にとって、管理社会は確かに救いだ。


 けれど、以前のように無条件で信じることは、もうできなくなっていた。


 ORACLEが示す「最適」は、生活を安定させる。

 失敗を減らす。

 不安を小さくする。

 後悔を予防する。


 だが、その「最適」の中に、人が自分で傷つく余地はあるのだろうか。


 自分で間違える余地はあるのだろうか。


 自分の苦しみを、自分のものだと思える余地はあるのだろうか。


 最適な人生。


 その言葉の輪郭が、少しずつ崩れ始めている。


 玲央は、ベッドに横になった。


 天井には、薄い染みがあった。

 管理都市の居住空間なら、すぐに修繕されるような小さな染み。


 その染みの形は、何かに似ているようで、何にも似ていなかった。


 玲央は、眠れないまま天井を見つめた。


 翌日、自分がどちらへ進むのか。


 管理都市へ戻るのか。

 未登録区域へ向かうのか。


 答えはまだ出ていなかった。


 端末は伏せたままだ。


 ORACLEに聞けば、きっと帰還を勧める。

 それは正しい。

 安全で、合理的で、最適な判断だ。


 だが玲央は、まだその答えを受け取りたくなかった。


 ただひとつだけ、はっきりしていることがあった。


 玲央はもう、ORACLEに示された道を、そのまま自分の答えとして受け取ることができなくなっていた。


 それは小さな変化だった。


 世界は変わっていない。

 管理都市は今も稼働している。

 ORACLEは多くの市民を支え続けている。

 神崎の言葉も、依然として重みを持っている。


 それでも、玲央の中では何かが変わっていた。


 迷いは消えていない。


 むしろ、深くなっている。


 けれどその迷いを、今夜だけは誰かに処理してもらわず、自分の中に置いておこうと思った。


 それが自由なのかどうか、玲央にはまだ分からない。


 ただ、その分からなさを抱えたまま夜を越えることが、今の自分にとって必要なことのように思えた。


 外から、誰かの笑い声が聞こえた。


 そのあとに、遠くで何かが倒れる音がした。

 誰かが文句を言い、別の誰かが謝り、また笑い声が重なる。


 不安定で、不完全で、整っていない夜。


 玲央はその音を聞きながら、ゆっくりと目を閉じた。


 眠りは浅いだろう。


 明日の状態も、きっと最適ではない。


 それでも玲央は、端末を表に返さなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。