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『あなたに最適な人生です』  作者: Yukiya


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6-3:それでも残る人

6-3:それでも残る人


 休憩所を出ると、玲央はしばらく黙っていた。


 外の通りには、午後の光が斜めに差し込んでいる。

 道端に置かれた木箱の影が長く伸び、店の看板が少し赤みを帯びて見えた。

 人々の声は相変わらずあちこちから聞こえてくる。


 だが、玲央の耳には、その音が少し遠く感じられた。


 三枝紗季の言葉が残っていた。


 自由は重すぎました。


 その言葉は、水無瀬の言葉とは違う方向から玲央を揺さぶっていた。


 水無瀬は言った。


 幸福なのかもしれません。

 でも、生きている感じがしないんです。


 三枝は言った。


 自由は重すぎました。


 どちらも、本音なのだろう。


 管理された生活の中で、自分の人生を失ったように感じる人がいる。

 一方で、自由の中に出たことで、決め続ける重さに押し潰される人もいる。


 では、どちらが正しいのか。


 玲央は答えを出せなかった。


 これまでなら、ORACLEが答えに近いものを示してくれた。

 自由選択区域に残るべきか、管理社会へ戻るべきか。

 生活安定指数、精神負荷、職業適性、孤独リスク。

 それらを比較すれば、その人にとって最も望ましい道が見える。


 だが、ここで出会う人々の言葉は、数字だけでは整理できなかった。


 水無瀬の空白。

 三枝の疲れ。

 失敗を語る人々の苦い笑い。

 自由に傷つきながらも、どこか自分のものとして抱えている表情。


 玲央の中で、考えがまとまらない。


 莉奈は、そんな玲央を横目で見た。


「戻る人を見ると、管理都市の人は安心する?」


「安心というより……理解できます」


 玲央は正直に答えた。


「自由が重いという感覚は、理解できます。自分で決め続けることは負荷が高い。失敗の責任も本人に戻る。管理社会の支援が必要な人もいる」


「神崎さんの言葉を思い出した?」


 玲央は少しだけ驚いた。


「なぜ分かるのですか」


「顔に出てる」


 莉奈はそう言って、細い路地へ入った。


 その路地は、市場通りよりさらに狭かった。

 両側の建物は古く、壁には修理の跡がある。

 窓からは洗濯物がはみ出すように干され、どこかの部屋からラジオのような音が聞こえていた。


 路地の奥に、小さな修理工房があった。


 入口の看板には、手書きでこう書かれている。


 直せるものは直します。

 直せないものは相談。


 玲央はその文字を見た。


 直せないものは相談。


 修理工房の案内としては、あまりにも曖昧だった。


 直せるのか、直せないのか。

 費用はいくらなのか。

 時間はどれくらいかかるのか。

 保証はあるのか。


 何も分からない。


 しかし、店の前にはいくつかの壊れた機械や古い端末が置かれていた。

 人々はここへ物を持ち込み、修理を頼むのだろう。


 莉奈が入口から顔を出した。


「黒木さん、少し話していい?」


 中では、中年の男が古い生活端末を分解していた。


 年齢は五十代前半ほどだろうか。

 短く刈った髪には白いものが混じり、作業着には油と埃の跡がついていた。

 机の上には工具がいくつも広がり、分解途中の機械部品が整っているようで、どこか雑然と並んでいる。


 男は顔を上げた。


「また変なの連れてきたな」


「管理都市の人」


「そりゃ見れば分かる」


 黒木と呼ばれた男は、玲央の服装を一瞥して言った。


 玲央は軽く頭を下げた。


「瀬川玲央です」


「黒木だ」


 それだけ言うと、黒木はまた手元の端末へ視線を戻した。


 莉奈は遠慮なく工房の中へ入り、入口近くの椅子に腰掛けた。

 玲央は立ったまま、黒木の手元を見ていた。


 古い生活端末の外装は割れていた。

 角は削れ、画面の一部には細かな亀裂が入っている。

 管理都市なら、修理対象ではなく交換対象になる可能性が高い。


 黒木は、その端末の内部を慎重に開き、小さな部品を取り外していた。


「黒木さんは、もともと管理都市の技術職だったんだよ」


 莉奈が言った。


「十年前にこっちへ来た」


 玲央は黒木を見た。


「ORACLE関連企業の技術職だったのですか」


「ああ。保守側だな。端末や生活支援機器の点検、交換、予防修理。そういう仕事だ」


「では、安定した職務だったはずです」


「だったな」


 黒木は工具を動かしながら答える。


「収入も安定していた。怪我もしにくい。支援も厚い。職場の人間関係も悪くなかった」


「では、なぜ自由選択権を」


 黒木は、端末の基板を持ち上げながら言った。


「決められたものだけ直すのに飽きたんだよ」


「決められたもの?」


「管理都市では、修理するより交換した方が効率的だと判断されることが多い。部品の寿命も、使用者の生活も、故障予測も、全部数値で出る。壊れる前に替える。壊れたら規定通りに処理する」


「合理的です」


「そうだな」


 黒木は笑った。


「合理的すぎて、つまらなかった」


 玲央には、その感覚がすぐには分からなかった。


 合理的であることは良いことのはずだ。


 故障する前に交換すれば、事故を防げる。

 古い機器を使い続けるより、安全性も高い。

 修理に時間をかけるより、新しいものを使った方が生活負荷も少ない。


 それなのに、つまらない。


 その言葉は、玲央には不思議だった。


 黒木は、修理中の端末を持ち上げた。


「こいつは古い。接続も悪い。何度も落として、外装も割れてる。管理都市なら廃棄だ」


 端末の裏側には、古い傷が無数にあった。


「でも、持ち主はこれを直して使いたいと言った」


「なぜですか」


「知らん」


 黒木はあっさり言った。


「思い出があるんだろう。あるいは、新しいものを買う金がないだけかもしれない。単に慣れているから手放したくないのかもしれない」


 彼は端末を机に戻した。


「でも、理由が効率的かどうかは関係ない。本人が直したいと言った。だから直す」


 玲央は黙って聞いていた。


 本人が直したいと言った。


 それは、管理都市では必ずしも優先されない理由だった。


 本人の希望は考慮される。

 だが、それが安全性や効率性、長期的安定性に反する場合、ORACLEは別の選択を推奨する。


 本人が望むから。


 それだけでは、最適とは限らない。


 だが黒木は、それで十分だと言う。


「ここでの生活は安定していますか」


 玲央が尋ねると、黒木は即答した。


「してないな」


 あまりに迷いのない答えだった。


「収入も不規則だし、保証も薄い。怪我をしたら困る。仕事が来ない日もある。部品が足りなくて修理が止まることもある。客と揉めることもある。正直、管理都市にいた方が楽だった」


「では、なぜ残るのですか」


 黒木は工具を止めた。


 そして、初めて玲央の方をまっすぐ見た。


「失敗しても、自分で選んだ結果だからだ」


 その言葉は、静かだった。


 大きな声ではない。

 強く主張するようでもない。

 誰かを説得しようとしているわけでもない。


 けれど、玲央の胸に強く響いた。


 黒木は続ける。


「こっちに来てから何度も後悔した。金がなくて眠れない夜もあった。仕事を選び間違えたこともある。人を信じて損したこともある。直せると思ったものが直せなくて、客に怒鳴られたこともある」


 彼は、机の上の部品を指で軽く整えた。


「でも、それは俺が選んだことだ。誰かの推奨でも、システムの判断でもない」


「それで苦しくないのですか」


「苦しいよ」


 黒木は当然のように言った。


「でも、苦しさまで俺のものだ」


 玲央は、その言葉を聞いた瞬間、水無瀬の声を思い出した。


 苦しいです。

 でも、初めて自分の苦しみだと思えました。


 まだ実際には聞いていないはずのその言葉に近いものが、玲央の中で形を持ち始める。


 水無瀬も、こういうものを求めているのだろうか。


 誰かに整えられた幸福ではなく、自分で引き受ける苦しみ。


 それが、本当に人を救うのかは分からない。


 だが少なくとも、黒木はその苦しみを手放そうとしていない。


 黒木は作業に戻りながら言った。


「管理都市に戻る人を馬鹿にはしない。三枝みたいにな。自由は合う合わないがある。重すぎる人もいる。向こうに戻った方がいい人もいる」


 工具の先が、細かな部品を押さえる。


「だが、俺はこっちに残る」


「なぜ」


「自分で間違えたいからだ」


 玲央は、返す言葉を失った。


 自分で間違えたい。


 管理都市では、決して聞かない言葉だった。


 失敗は避けるもの。

 後悔は減らすもの。

 リスクは管理するもの。

 間違いは、事前に予測して回避するもの。


 そうでなければ、人は傷つく。

 生活は崩れる。

 誰かを巻き込み、社会にも負荷がかかる。


 だからこそ、ORACLEはある。


 玲央はそう信じてきた。


 だが、この男は間違いを拒まなかった。


 むしろ、間違えることも自分の人生の一部だと言った。


「間違いには、取り返しのつかないものもあります」


 玲央は静かに言った。


「ああ、ある」


 黒木は否定しなかった。


「後悔も残ります」


「残るな」


「傷つくこともあります」


「ある」


「それでも、ですか」


 黒木は手を止めずに答えた。


「それでもだ」


 短い言葉だった。


 だが、そこには揺らぎがなかった。


 黒木は、自由を美しいものとして語っていない。

 管理都市を憎んでいるようにも見えない。

 戻る人を軽蔑してもいない。


 彼はただ、自分にとってはここに残ることが必要なのだと言っている。


 安定よりも、効率よりも、失敗しないことよりも、自分で選ぶこと。


 玲央の胸の奥に、理解できない熱が生まれた。


 それは共感なのか、戸惑いなのか、憧れなのか、恐れなのか分からなかった。


 自由は人を壊す。


 神崎の言葉は正しい。


 三枝のように、自由の重さに疲れ、戻りたいと願う人がいる。

 夢に破れ、生活が崩れ、支えを失う人がいる。


 だが、それでも自由を選び続ける人がいる。


 黒木のように、苦しさまで自分のものだと言う人がいる。


 その理由を、玲央はまだ完全には理解できなかった。


 だが、無視することもできなくなっていた。


 黒木は、端末の小さな部品をつなぎ直した。

 古い画面が、ちらつきながら淡く光る。


「ほら」


 黒木が言った。


「まだ使える」


 玲央は、その古い端末の光を見た。


 不安定で、弱く、いつ消えるか分からない光だった。


 管理都市なら、交換されていたはずのもの。


 だが今、その端末は再び光っていた。


 黒木は満足そうに息を吐いた。


「効率は悪いけどな」


 莉奈が笑った。


「でも、直った」


「ああ」


 黒木は短く頷いた。


「直したいって言われたからな」


 玲央は、そのやり取りを黙って見ていた。


 効率ではなく、本人が望んだから。


 正解ではなく、選んだから。


 その価値を、玲央はまだ言葉にできない。


 ただ、黒木の手元に灯った古い端末の光が、なぜかいつまでも目に残った。


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