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『あなたに最適な人生です』  作者: Yukiya


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6-2:戻りたい人

6-2:戻りたい人


 広場を離れたあと、莉奈は玲央を小さな休憩所へ連れていった。


 そこは、元は店だった場所を改装したような空間だった。


 入口の上には、古い看板の跡が残っている。

 かつて何の店だったのかは分からない。文字は剥がれ、色も薄れていた。

 扉は自動ではなく、手で押して開けるものだった。


 中に入ると、壁には古い棚が残っていた。

 棚の一部には紙の書類が積まれ、別の段には端末の充電器や予備のケーブルが置かれている。

 机の上には、手書きの案内、再接続に関する説明書、古い型の入力端末が並んでいた。


 管理都市の相談窓口とは違う。


 整理されていない。

 書類の大きさもそろっていない。

 椅子も種類がばらばらで、部屋の隅には壊れた掲示板が立てかけられている。


 それでも、ここには人を受け入れるための場所が作られていた。


 入口の横に、手書きの紙が貼られている。


 再接続相談日。

 管理社会への復帰を考えている方へ。


 玲央は足を止めた。


「管理社会へ戻る人もいるのですか」


「いるよ」


 莉奈は当然のように答えた。


「むしろ、少なくない」


 玲央は、部屋の中を見た。


 自由選択区域に来た人々は、管理社会を離れた人々だ。

 ORACLEの推奨から離れ、自分で選ぶ道を求めて来た人々。


 だから、彼らは戻りたくないのだと思っていた。


 だが、入口には再接続相談の案内が貼られている。


 自由を選んだ人の中には、再び管理社会へ戻りたいと願う人がいる。


 その事実は、玲央の中で重く響いた。


 中には、三十代半ばほどの女性が座っていた。


 髪は乱れていない。

 服装も丁寧に整えられている。

 けれど、目の下には濃い疲れがあった。


 彼女の前には、再接続申請書が置かれている。


 紙の申請書だった。

 端には何度も折り直した跡があり、記入欄のいくつかには、迷いながら書いたような薄い文字が残っている。


 莉奈が軽く声をかけた。


「紗季さん、少し話してもいい?」


 女性は顔を上げた。


 そして、玲央を見る。


「管理都市の人?」


「人生最適化庁、適合支援局の瀬川玲央です」


 玲央が名乗ると、女性はわずかに表情を変えた。


 安心したようにも見えた。

 同時に、どこか恥じるようにも見えた。


「ちょうどよかった。こういう手続き、あなたたちの方が詳しいでしょう」


 その声は弱くはなかった。


 だが、長い時間何かに耐えてきた人の声だった。


 玲央は席に着いた。


 女性の名は、三枝紗季といった。


 三年前に自由選択権を行使し、この区域へ来たという。


 理由は、ORACLEが示した職業プランを拒否したかったからだった。


 ORACLEは彼女に、安定した福祉管理業務を推奨していた。


 対人調整能力。

 事務処理能力。

 生活支援制度への理解力。

 感情の安定性。

 継続勤務適性。


 それらを総合すると、福祉管理業務は彼女にとって高い適合度を持つ職業だった。

 収入も安定し、将来的な職業継続率も高かったという。


 しかし三枝は、自分で店を開きたかった。


 小さな飲食店。

 決められた献立ではなく、自分の作った料理を出す店。

 誰かの健康指数に合わせた食事ではなく、その日に自分が作りたいと思ったものを出す場所。


「管理都市にいた頃から、料理が好きだったんです」


 三枝は、申請書を見つめながら言った。


「でも、ORACLEには副次活動として続けることを推奨されました。趣味としては良い。でも、生計の中心にするには不安定だって」


「その予測は」


「当たっていました」


 三枝は苦く笑った。


 最初の半年は楽しかったという。


 店名も、内装も、料理も、全部自分で決めた。


 朝、何を仕入れるか。

 その日に何を作るか。

 どんな味にするか。

 誰に食べてもらいたいか。

 店の壁に何を飾るか。


 すべて、自分で決められた。


「毎日が忙しくて、失敗も多かったです。でも、初めて自分の手で人生を動かしている感じがありました」


 その言葉を聞いて、玲央は水無瀬を思い出した。


 生きている感じがしない。


 三枝は、その反対の感覚を求めてここへ来たのかもしれない。


 けれど、その時間は長く続かなかった。


 客足は安定しなかった。

 仕入れも難しかった。

 天候が悪ければ客は来ない。

 近くに別の店ができれば売上は落ちる。

 体調を崩しても代わりはいない。

 料理を失敗すれば材料費が無駄になる。

 価格を上げれば客が離れ、下げれば生活できない。


 資金繰りに追われた。


 人間関係も壊れた。


 手伝ってくれていた友人とは、金のことで揉めた。

 仕入れ先との約束を守れないこともあった。

 疲れすぎて、好きだったはずの料理を見るのもつらくなった時期があったという。


 やがて、店を閉めることになった。


「自由って、もっと明るいものだと思ってた」


 三枝は申請書を見つめながら言った。


「自分の好きなことをして、自分の人生を生きる。そういうものだと思ってた。でも実際は、毎日決めなきゃいけないことばかりだった」


 彼女は、指先で紙の端をなぞった。


「何を仕入れるか。いくらで売るか。誰に頼るか。どこで無理をするか。どこで諦めるか。誰に謝るか。何を捨てるか」


 声は震えていなかった。


 ただ、疲れていた。


「全部自分で決めるって、こんなに重いんだって知らなかった」


 玲央は何も言えなかった。


 彼は自由について考え始めていた。

 自分で選ぶことの意味を知りたいと思っていた。


 だが、三枝の言葉は、その問いに別の重さを与えた。


 自分で選ぶということは、自分で決めること。

 自分で決めるということは、うまくいかなかった結果も引き受けること。


 それは、水無瀬が求めたものでもある。


 だが、目の前の三枝は、その重さに疲れ果てていた。


「管理都市にいた頃は、窮屈だと思ってた」


 三枝は続けた。


「ORACLEに決められて、私の人生なのに私の気がしないって。でも、ここに来て分かった。決めてもらえるって、守られてるってことでもあったんだね」


 玲央の胸に、神崎の声が重なる。


 人間は、自由に耐えられるほど強くない。


 その言葉を、玲央は以前より簡単には否定できなくなっていた。


 三枝は小さく笑った。


「私、戻りたい。笑われるかもしれないけど」


「笑いません」


 玲央は即座に言った。


 自分でも驚くほど、はっきりした声だった。


 三枝は少し驚いたように玲央を見た。


 玲央は続ける。


「自由選択権を行使した方が再接続を望むことは、制度上認められています。戻ることは失敗ではありません。支援を再び受けるための選択です」


 言いながら、玲央は自分の言葉がいつもの面談の声に近づいていることに気づいた。


 市民の不安を整理する声。

 制度を説明し、安心へ導く声。


 それは自分に染みついた職員としての声だった。


 だが今回は、その声を使うことに違和感はなかった。


 三枝は、今まさに支援を必要としている。


 その人に道を示すことは、決して悪いことではない。


「自由は、重すぎました」


 三枝は静かに言った。


 その言葉は、玲央の中にまっすぐ落ちた。


 自由は重い。


 水無瀬は、その重さを知ったうえで進んだのだろうか。


 それとも、まだ知らないまま外へ向かったのだろうか。


 玲央は申請書を確認した。


 再接続申請には、いくつかの段階がある。


 本人意思の確認。

 生活状況の評価。

 医療支援の再接続。

 住居支援の段階的回復。

 職業適性の再評価。

 必要に応じた心理支援。

 過去の自由選択期間における負債や契約状況の整理。


 すぐに管理都市の生活へ戻れるわけではない。


 だが、道はある。


 玲央はその項目を一つずつ説明した。


「まず、医療支援と住居支援は優先的に再接続できます。生活安定が一定水準まで回復したあと、職業配置の再評価が行われます。過去の職業プランに戻る場合もありますが、自由選択区域での経験を反映した再評価になる可能性もあります」


 三枝は頷きながら聞いていた。


 その姿は、管理都市で面談を受ける市民とよく似ていた。


 不安を抱え、誰かに道を示してほしいと願う人。


 玲央は、その表情を何度も見てきた。


 進路に迷う若者。

 職場を変えることを恐れる中年。

 家族関係の調整に疲れた人。

 老後の住まいを決められずにいる高齢者。


 彼らは、自分で決められない弱い人間なのではない。


 ただ、一人では背負いきれない重さの前に立っているだけなのだ。


 ORACLEは、確かにそういう人を救ってきた。


 自由に疲れた人。

 自分で決めることに傷ついた人。

 もう一度、支えを必要とする人。


 そういう人にとって、管理社会は檻ではなく、避難場所にもなる。


 玲央は、そのことを否定できなかった。


 三枝は申請書の最後の欄に、ゆっくりと名前を書いた。


 手が少し震えていた。


 だが、書き終えたあと、彼女は長く息を吐いた。


「これで、戻れるんですね」


「審査はあります。ただ、再接続の手続きは開始できます」


「そうですか」


 三枝は小さく頷いた。


 その顔には、自由を手放す悔しさがあるようにも見えた。

 同時に、もう一度支えを得られることへの安堵もあった。


 その二つは、矛盾していなかった。


 人は自由を求めることもある。


 そして、自由に疲れて戻りたくなることもある。


 どちらも本当なのだと、玲央は思った。


 手続きを終え、休憩所を出ると、外の空気は少し冷たくなっていた。


 莉奈は、しばらく黙っていた。


 玲央も言葉を探せなかった。


 通りの向こうでは、誰かが荷物を落とし、別の誰かがそれを拾っている。

 少し先の店からは、笑い声が聞こえる。

 自由選択区域は、今日も不安定なまま動いていた。


「どう思った?」


 莉奈がふいに尋ねた。


 玲央は、すぐには答えられなかった。


「ORACLEは、必要です」


 やがて、そう言った。


 莉奈は何も言わずに聞いていた。


「管理社会は、すべての人を縛っているだけではありません。支えを必要とする人を守っています。自由が重すぎる人もいる。自分で決めることに疲れ、壊れてしまう人もいる。そういう人にとって、ORACLEは救いです」


「うん」


 莉奈は否定しなかった。


「そうだと思う」


 その反応が、玲央には少し意外だった。


「否定しないのですか」


「なんで?」


「あなたは、管理都市を出た人です」


「だからって、管理都市が全部悪いとは思ってないよ」


 莉奈は肩をすくめた。


「戻りたい人は戻ればいい。支えが必要な人は支えられればいい。問題は、戻るしかないとか、出るしかないとか、どっちかしか選べないことじゃない?」


 玲央は、その言葉を胸の中で受け止めた。


 戻るしかない。

 出るしかない。


 どちらか一方だけを正解にすること。


 玲央は、神崎の言葉を思い出した。


 自由は人を壊すことがある。


 それは事実だ。


 だが、莉奈の言葉もまた、別の事実を含んでいるように思えた。


 支えが必要な人もいる。

 自分で選びたい人もいる。

 戻りたい人もいる。

 進みたい人もいる。


 ひとつの答えでは、人は収まりきらない。


 神崎は間違っていない。


 少なくとも、完全には間違っていない。


 だが、水無瀬も間違っているとは言い切れない。


 そして莉奈のように、危うさを知ったうえで自由選択区域に残る人もいる。


 その事実が、玲央の中の揺らぎをさらに複雑にした。


 自由は美しいだけではない。


 管理は冷たいだけではない。


 どちらも、人を救うことがある。


 どちらも、人を苦しめることがある。


 玲央は、通りの向こうに沈みかけた夕方の光を見た。


 そこには、ORACLEがすぐに整理してくれるような正解はなかった。


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