第6章:間違える自由 6-1:失敗した人々
6-1:失敗した人々
翌朝、玲央は自由選択区域の共同広場にいた。
そこは、管理都市でいう相談センターや職業支援窓口とは、まるで違っていた。
建物の中に整然と窓口が並んでいるわけではない。
受付番号を発行する端末もない。
相談内容ごとに整理されたブースもない。
心理負荷を抑えるための照明や香りの調整もない。
広場の端に、古びた掲示板がある。
木の板は日焼けし、端の方は少し割れていた。
その周囲に、机や椅子が不規則に置かれている。
机の高さも、椅子の形もばらばらで、どこからどこまでが相談場所なのかはっきりしない。
誰かが仕事の募集を貼り、誰かが不要になった家具の譲渡を知らせ、誰かが小さな相談会の案内を書き込んでいる。
紙の端は風でめくれ、古い掲示の上から新しい紙が貼られ、その上にさらに誰かが手書きで補足を加えていた。
莉奈は言った。
「ここに来ると、だいたいこの街の今が分かる」
玲央は掲示板を見た。
配達員募集。体力に自信のある人。報酬は日払い。
修理できる人、探しています。支払いは相談。
使わなくなった椅子、譲ります。取りに来られる人。
管理都市へ戻る手続きについて話したい人、夕方集まってください。
失敗談を聞く会。今夜。参加自由。
玲央は、最後の紙に目を止めた。
「失敗談を聞く会?」
「自由選択区域らしいでしょ」
莉奈は少し笑った。
「ここでは、失敗は隠しきれないからね。だったら、話した方が楽になる人もいる」
玲央は、その言葉をすぐには理解できなかった。
管理都市では、失敗はできるだけ未然に防がれる。
もし起きても、早期に検知され、支援につながり、再発防止のために整理される。
失敗は、分析されるものだった。
処理されるものだった。
次に活かすため、最適化されるものだった。
だが、この街では失敗を聞く会がある。
それも、参加自由と書かれている。
玲央には、その感覚がまだうまく掴めなかった。
莉奈に連れられて、玲央は広場の奥へ向かった。
そこには、数人の男女が輪になるように座っていた。
年齢も服装もばらばらだった。
若い者もいれば、中年の者もいる。
管理都市から来たばかりらしい清潔な服装の人もいれば、長くこの区域で暮らしているような日焼けした顔の人もいた。
椅子に座っている者もいれば、木箱に腰掛けている者もいる。
輪の中心には、司会者らしき人物もいない。
誰かが話し、誰かが聞き、誰かが途中で茶を飲み、誰かが小さく笑う。
それは相談会というより、ただ人が集まって話している場所に見えた。
莉奈が軽く手を上げる。
「少し聞かせてもらってもいい?」
輪の中心にいた男性が頷いた。
「別にいいよ。どうせ大した話じゃない」
そう言って笑った彼は、三十代半ばほどに見えた。
髪は少し伸び、服には油の染みがついている。
だが、話し方はどこか軽く、冗談を言うことに慣れているようだった。
彼は、かつて映像制作を志して自由選択区域に来たという。
ORACLEは彼に、安定した行政記録編集職を推奨していた。
注意力。
作業継続性。
視覚処理能力。
情報整理能力。
それらを考えれば、行政記録編集職は彼にとって高い適性を持つ仕事だった。
収入は安定し、精神負荷も低く、生活リズムも維持しやすい。
長期的な生活安定度は、非常に高かったはずだ。
けれど彼は、それを拒否した。
「自分の映像で食っていけると思ったんだよ」
彼は肩をすくめた。
「いや、正確には、思いたかったんだな。誰かの記録を整えるんじゃなくて、自分の見たものを形にしたかった」
玲央は黙って聞いていた。
「ORACLEには言われたよ。創作活動は副業範囲に留めた方がいいって。収入安定性が低い、競争率が高い、精神負荷が大きいって。全部、当たってた」
男は笑った。
「でも、そのときは、当たってるからこそ嫌だったんだ」
「なぜですか」
玲央は思わず尋ねた。
男は玲央を見て、少し考えた。
「当てられると、自分の未来まで先に片づけられた気がするんだよ」
玲央は言葉を失った。
男は続ける。
「で、こっちへ来た。自由に作れると思った。誰にも管理されず、自分の映像を撮って、いつか誰かに見てもらえるって」
「実現したのですか」
「少しはね」
男は苦笑した。
「小さな記録映像を撮った。祭りとか、店の紹介とか、誰かの結婚式みたいなものとか。でも、それだけじゃ食えなかった。機材は壊れるし、依頼は安いし、客は急にキャンセルするし、納期は守られないし、こっちも守れない」
周囲の何人かが笑った。
男は大げさに両手を上げる。
「無理だった。才能が足りなかったのか、努力が足りなかったのか、運が悪かったのか。まあ、全部だろうな」
今は日雇いの修理補助をしているという。
収入は不安定で、住居も何度か変わった。
管理都市にいれば、彼の生活はもっと安定していたはずだった。
「戻ろうとは思わないのですか」
玲央が聞くと、男はすぐには答えなかった。
「思ったことはあるよ。何度も」
そして、少し笑った。
「でも、まだ撮りたいものがあるんだ。馬鹿だろ」
玲央には、その笑いの意味が分からなかった。
後悔しているようにも見える。
諦めきれていないようにも見える。
失敗を認めながら、それでも何かを手放していないようにも見える。
次に話したのは、三十代前半の女性だった。
彼女は、ORACLEが推奨した結婚相手を拒み、自分で選んだ相手と暮らすためにこの区域へ来た。
管理都市では、結婚や長期的な関係形成において、価値観適合度、生活リズム、健康傾向、経済安定性、対人負荷などが分析される。
彼女に提示されていた相手は、穏やかで安定した職業に就き、生活設計の相性も高かった。
しかし、彼女が選んだ相手は違った。
相性指数は低い。
生活リズムも合わない。
経済的安定性も不十分。
感情変動も大きい。
ORACLEは、深い関係形成を非推奨とした。
それでも彼女は、その相手を選んだ。
「そのときは、本当に好きだったの」
彼女は言った。
「誰かに合うとか合わないとか、数値で決められるのが嫌だった。この人となら、私は変われるって思った」
彼女は小さく笑った。
その笑いは、少し苦かった。
「相性指数は低かったの。ORACLEは正しかったのよ」
相手とは一年で別れた。
生活は乱れ、仕事も安定せず、何度も喧嘩をした。
好きだと思っていたものは、生活の中で少しずつ形を変えた。
最後には、顔を見るだけで疲れるようになったという。
「でも、そのときは、この人となら何か変わると思った。変わったのは、生活が苦しくなったことだけだったけど」
誰かが「それでも一年もったならすごいよ」と言った。
彼女は笑った。
「すごくない。馬鹿だっただけ」
「戻るのですか」
玲央が尋ねると、彼女は首を振った。
「まだ分からない。戻れば楽になるのは分かってる。でも、戻ったら、あの一年まで全部間違いだったことになりそうで」
「間違いではないのですか」
「間違いだったよ」
彼女は即答した。
「でも、私の間違いだった」
玲央は、その言葉に黙った。
私の間違い。
それは、管理都市ではあまり聞かない言葉だった。
間違いは、個人だけのものにならないよう、社会が支援する。
予測し、調整し、リスクを下げる。
それによって、人が背負う苦しみを減らす。
だが彼女は、自分の間違いだったと言った。
苦い笑いを浮かべながら。
それでも、どこか手放したくなさそうに。
また別の男は、家族との関係を断つために自由選択権を行使した。
管理都市では、家族関係の修復プログラムが何度も提示されていたという。
対話支援。
距離調整。
感情整理。
関係再構築。
段階的交流。
ORACLEに従えば、表面上は関係を維持できたかもしれない。
だが彼は逃げた。
「修復って言葉が嫌だった」
男は低い声で言った。
「壊れてるものを直せばいい、みたいに言われる。でも、俺にとっては、そもそも近くにいることが苦しかった」
彼は自由選択権を使い、管理都市を出た。
家族との接続支援を止め、連絡頻度も減らし、この区域で暮らし始めた。
最初は、自由になったと思ったという。
誰からも期待されない。
誰にも説明しなくていい。
家族の表情を気にしなくていい。
だが、しばらくすると別の苦しさが来た。
「自由になったつもりだった。でも、家族の声が消えたあと、自分が何をしたいのか分からなかった」
男はそう言った。
「逃げた先で、何か新しい自分が見つかると思ってた。でも、何もなかった。あるのは、逃げてきた自分だけだった」
玲央は、胸の奥に重さを感じた。
自由は、必ずしも解放だけではない。
逃げ出した先にも、自分はついてくる。
それは、ORACLEの研修ではあまり強調されなかった感覚だった。
玲央は、彼らの話を黙って聞いていた。
自由選択区域に来た人々は、みな何かを求めていた。
夢。
愛情。
逃避。
自分らしさ。
誰にも決められない人生。
誰かの期待から離れること。
自分で間違える権利。
けれど、その結果が幸福に結びついた者ばかりではない。
むしろ、多くの人が失敗していた。
生活は不安定になり、傷つき、後悔し、時に管理社会にいた頃より苦しそうに見えた。
彼らは自由を選んだ。
だが、自由は彼らを無条件には救わなかった。
安定を失い、支援を失い、時には関係を失い、仕事を失い、自分が何をしたいのか分からなくなる者もいた。
玲央の胸に、神崎の言葉がよみがえる。
自由は、人を救うこともある。
だが、それ以上に人を壊すことがある。
玲央は初めて、その言葉が単なる脅しではなかったことを理解し始めていた。
神崎は、自由を恐れすぎているのかもしれない。
そう思っていた。
管理社会を守るために、自由選択区域を危険な場所として語っているのかもしれない。
そう疑っていた。
だが、目の前にいる人々は、確かに傷ついていた。
自由を選んだことで、幸せになったとは言い切れない人々。
夢に破れた人。
愛に失敗した人。
家族から逃げても、自分自身からは逃げられなかった人。
自由は、思っていたよりもずっと危うい。
そして、人は自由になれば必ず幸せになるわけではない。
その事実が、玲央の中に重く沈んでいった。
輪の中の誰かが、玲央に声をかけた。
「管理都市の人?」
玲央は少しだけ身構えた。
「はい」
「だったら、あんまり綺麗に見ない方がいいよ、ここを」
その人は、穏やかに言った。
「ここは救いの場所でもあるけど、失敗の場所でもあるから」
玲央は、言葉を返せなかった。
救いの場所。
失敗の場所。
その二つが同じ場所にある。
それが、玲央にはまだうまく理解できなかった。
管理都市では、救いは失敗を減らす方向にある。
この街では、失敗を抱えたまま、それでも救いを探している。
玲央は広場の掲示板を振り返った。
失敗談を聞く会。
参加自由。
その紙は、風に揺れていた。
紙の端は少し破れ、文字も決して整ってはいない。
けれど、そこには誰かが書いた手の跡があった。
失敗を、なかったことにしないための場所。
玲央は、そう思った。
そして同時に、水無瀬蒼のことを考えた。
水無瀬も、この先で失敗するのだろうか。
傷つくのだろうか。
後悔するのだろうか。
それでも彼は、自分で選んだと言える場所へ向かった。
玲央には、その危うさが少しだけ分かり始めていた。
だが同時に、その危うさを知ってもなお、なぜか水無瀬の足跡から目を離せなくなっていた。




