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『あなたに最適な人生です』  作者: Yukiya


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5-6:水無瀬の痕跡

5-6:水無瀬の痕跡


 水無瀬蒼の確かな痕跡が見つかったのは、夕方に近づいたころだった。


 莉奈が案内したのは、駅裏から少し離れた共同食堂だった。


 大通りから一本外れた細い道を進み、錆びた階段のある古い建物の前で、莉奈は足を止めた。

 建物の一階には、布の暖簾がかかっている。

 風に揺れるその布には、手書きで店名らしきものが書かれていたが、文字の一部は薄れて読みにくくなっていた。


 入口の横に、小さな看板がある。


 今日あるものを出します。


 玲央は、また足を止めた。


「献立は決まっていないのですか」


 莉奈は、もう慣れたように答えた。


「仕入れ次第」


「それで客は困らないのですか」


「困る人もいるよ。でも、だいたい何かは出るから」


「何か、ですか」


「そう。何か」


 莉奈はそう言って、暖簾をくぐった。


 玲央も少し遅れて中に入る。


 食堂の中は、温かい匂いで満ちていた。


 煮込んだ野菜。

 古い木の床。

 油の匂い。

 湯気。

 誰かの服についた雨の匂い。


 数人の客が食事をしていた。

 席の配置は不規則で、椅子もテーブルも種類が違う。

 二人掛けの小さなテーブルの隣に、古い長椅子が置かれ、その向こうには丸い椅子が一脚だけ足されている。


 管理都市の飲食スペースなら、人の導線、会話距離、着席負荷まで考えて配置される。


 ここでは、あるものをそのまま使っているようだった。


 奥では、店主らしき女性が大きな鍋をかき混ぜていた。


 四十代後半ほどだろうか。

 髪を後ろで雑にまとめ、袖をまくっている。

 玲央たちに気づくと、手を止めずに顔だけ向けた。


「莉奈、今日は遅いね」


「案内してた」


「また面倒ごと?」


「たぶん」


「たぶんって言うときは、だいたい面倒ごとだよ」


 店主はそう言いながらも、どこか笑っていた。


 莉奈がカウンターに近づく。


「昨日、管理都市から来た男の人、ここに来た?」


 店主は鍋をかき混ぜる手を止めた。


「昨日の夜の人?」


 玲央はすぐに一歩前へ出た。


「水無瀬蒼という男性です。三十代前半、細身で、落ち着いた話し方をする方です」


 店主は少し考え、頷いた。


「ああ、来たよ。名前は聞いてないけど、たぶんその人だね」


 玲央の心拍が上がった。


 これまでの曖昧な証言とは違う。

 水無瀬らしき人物が、確かにここに来た。


 玲央は声を整えようとしたが、自分の声が少し急いでいるのが分かった。


「何を話していましたか」


「未登録区域へ行くには、どの道がいいかって聞かれた」


 莉奈の表情が、わずかに硬くなる。


 玲央は、その変化を見逃さなかった。


「どの道を教えたのですか」


 店主は鍋の火を弱めながら言った。


「教えてないよ。危ないからやめなって言った」


「それで、水無瀬さんは?」


「困ったように笑ってたね」


 店主は少し目を細めた。


「でも、行くつもりだったと思うよ。あの目は、止めても行く人の目だった」


 玲央は黙った。


 止めても行く人の目。


 それは、管理都市の記録には残らない情報だった。


 心拍数でも、位置情報でも、行動履歴でもない。

 誰かがその場で顔を見て、声を聞いて、空気を感じ取って覚えているもの。


 客観的ではない。

 数値化もできない。

 証拠としては弱い。


 それでも、玲央には無視できなかった。


 水無瀬は、止めても行く目をしていた。


 面談室で見た、あの遠い目。


 古本屋の店主が言った、迷っていた目。


 そして今、この食堂の店主が言う、止めても行く人の目。


 記録には残らない水無瀬の輪郭が、少しずつつながっていく。


「何か残していませんでしたか」


 玲央が尋ねると、店主はしばらく考えた。


 そして、カウンターの下を探る。


「これ、あの人が忘れていったのか、置いていったのか分からないけど」


 店主は、一枚の紙を取り出した。


 折り目のついた紙だった。

 端は少し汚れていて、何度か開いた跡がある。


 玲央はそれを受け取った。


 自由選択区域の外縁部を示す簡易地図だった。


 管理都市の地図とはまるで違う。


 正確な縮尺もない。

 道の幅も一定ではない。

 ところどころ、手書きで補足が入っている。

 消された線の上に、別の線が重ねられている。

 使われなくなった道、通れるかどうか不明な道、誰かが危険と書き込んだ場所。


 端に、手書きでいくつかの印がつけられていた。


 そのうち一つに、丸がある。


 未登録区域への旧道。


 玲央はその文字を見つめた。


 その横には、小さくメモが書かれていた。


 ここから先は、誰も最適化してくれない。


 玲央の指が、紙の端を強く握った。


 水無瀬の字なのかは分からない。

 店主の誰かが書いたものかもしれない。

 以前この地図を使った別の誰かが残した言葉かもしれない。


 だが、その言葉は、水無瀬が言いそうなものだった。


 ここから先は、誰も最適化してくれない。


 玲央は、胸の奥が静かに冷たくなるのを感じた。


 管理都市では、常に何かが最適化してくれる。


 朝起きる時間。

 食事。

 仕事。

 人間関係。

 移動。

 疲労。

 感情。

 未来。


 迷わないように。

 間違えないように。

 壊れないように。


 だが、水無瀬は、その先へ向かった。


 誰も最適化してくれない場所へ。


 莉奈が横から地図を覗き込む。


「やっぱり、外へ行ったんだ」


「この道を知っていますか」


「知ってる。でも、簡単な場所じゃない」


「危険なのですか」


「危険というより、不確か」


 莉奈は静かに言った。


「ORACLEの接続はかなり弱くなる。公共交通もない。案内もない。住んでいる人もいるけど、全員が親切とは限らない。行ったからって、水無瀬さんに会える保証もない」


 玲央は地図を見つめた。


 線は細く、頼りなかった。

 旧道と書かれた道は、途中で山側へ向かっている。

 その先には、手書きで「通信弱」「夜は危険」「道崩れ注意」といった言葉が並んでいた。


 引き返すなら、今だった。


 水無瀬が未登録区域へ向かった可能性は高い。

 その情報を持ち帰り、追跡支援班に渡せばいい。

 玲央の役割としては、それで十分だ。


 神崎もそう言うだろう。


 水無瀬の件には個人的に関わるな。

 自由選択区域への訪問すら非推奨だった。

 未登録区域へ進むなど、担当職員の範囲を明らかに超えている。


 玲央は端末を見た。


 支援接続は不安定だった。

 画面の表示には少し遅れがある。


 しばらくして、警告が出た。


 これ以上の移動は非推奨です。

 支援接続低下区域への接近を検出。

 帰還を推奨します。


 正しい。


 帰るべきだ。


 玲央はそう思った。


 ここまで来た時点で、十分に推奨外行動だった。

 これ以上進めば、さらに支援の届きにくい場所へ入る。

 水無瀬を見つけられる保証はない。

 危険もある。

 自分自身の職務評価にも影響するだろう。


 情報を持ち帰る。


 それが最も合理的だった。


 それなのに、紙に書かれた言葉が、目から離れなかった。


 ここから先は、誰も最適化してくれない。


 水無瀬蒼は、その先へ進んだ。


 なぜ。


 何を求めて。


 何を見ようとして。


 玲央は、自分でも気づかないうちに、地図を折りたたんでいた。


 その動作を見て、莉奈が彼を見た。


「行くつもり?」


 玲央はすぐには答えられなかった。


 自分の中に、二つの声があった。


 帰れ。


 これ以上は危険だ。

 役割を越えるな。

 神崎の忠告に従え。

 ORACLEの推奨に従え。

 追跡支援班へ引き継げ。

 君は担当職員であって、救助者ではない。


 その声は大きく、整っていて、正しかった。


 もう一つの声は、もっと小さかった。


 確かめたい。


 水無瀬がなぜ、自分の人生を取り戻そうとしたのか。

 自由とは何なのか。

 誰も最適化してくれない場所で、人は何を選ぶのか。

 そして、自分は本当に今まで選んできたのか。


 その声は、まだ言葉として弱かった。


 だが、消えなかった。


 玲央は、ゆっくりと口を開いた。


「まだ、決められません」


 莉奈は小さく笑った。


 笑ったが、馬鹿にするような笑みではなかった。


「いいんじゃない。ここでは、すぐに正解を出さなくてもいい」


「ですが、決めなければ進めません」


「そうだね」


 莉奈は食堂の窓の外を見た。


 夕方の光が、雑然とした街を赤く染めている。

 店先の看板も、道端の木箱も、人々の顔も、少しずつ赤い色を帯びていた。

 管理都市の均一な照明とは違う、揺らぎのある光だった。


 同じ場所でも、時間によって見え方が変わる。


 それが玲央には少し不思議だった。


 管理都市では、光は人に合わせて調整される。

 ここでは、街の方が勝手に変わっていく。


 莉奈は玲央を見る。


「でも、決めるのはORACLEじゃない。神崎さんでも、水無瀬さんでもない」


 彼女の声は、いつもより静かだった。


「あなたでしょ」


 玲央は、折りたたんだ地図を見つめた。


 帰るのか。

 進むのか。


 どちらが正しいのかは分からない。


 帰れば安全だ。

 進めば危険だ。


 帰れば職員として正しい。

 進めば、自分の中の問いに近づけるかもしれない。


 だが、その問いに答えがある保証はない。


 むしろ、神崎が言ったように、ただ不安だけが残るのかもしれない。


 玲央は、これまで何度も市民に選択肢を説明してきた。


 こちらを選べば安定する。

 こちらにはリスクがある。

 ORACLEの推奨は、あなたにとって最も望ましい道です。


 そう説明し、相手が承認するのを見届けてきた。


 だが今、玲央自身の前には、数字で整理しきれない選択があった。


 どちらが正しいのか分からない。


 それでも、どちらかを選ばなければならない。


 玲央は初めて思った。


 正しいかどうか分からないまま選ぶこと。


 それが、自由の入口なのかもしれない。


 食堂の中では、店主が再び鍋をかき混ぜ始めていた。

 客の一人が大きな声でおかわりを頼み、別の客がそれに茶々を入れる。

 窓の外では、夕方の街が相変わらず騒がしく動いている。


 端末はまだ、帰還を推奨していた。


 玲央はその表示を見た。


 そして、地図を胸元のポケットにしまった。


 まだ、決められない。


 けれど、決めなければならない。


 その重さを、玲央は初めて、自分のものとして感じていた。


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