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『あなたに最適な人生です』  作者: Yukiya


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6-4:莉奈の過去

6-4:莉奈の過去


 夕方、玲央と莉奈は川沿いの古い歩道を歩いていた。


 自由選択区域の中心部から少し離れると、街の騒がしさはわずかに遠のいた。

 市場の声も、店先の音も、子どもたちの走る足音も、背後に薄く残っている。

 代わりに聞こえてくるのは、ゆっくり流れる水の音と、どこかの家から漏れる古い音楽だった。


 管理都市の川は、水質も流量も景観も管理されている。


 水面には不要な濁りがなく、遊歩道の幅は均一で、照明は歩行者の数に合わせて調整される。

 ベンチの配置も、歩行者の疲労度データや滞在時間の傾向に基づいて決められている。

 柵の高さも、足元の材質も、風の抜け方さえ計算されている。


 人が安心して歩けるように。


 人が余計な不安を抱かないように。


 しかし、この川沿いは違った。


 柵には錆びた部分があり、足元の石畳はところどころ浮いている。

 水面には枯れ葉が流れ、岸辺には誰かが置き忘れたらしい古い傘が引っかかっていた。

 ベンチも古く、片方の脚が少し傾いている。


 管理都市なら、修繕対象としてすぐに記録されるだろう。


 それでも、そこには何人かの人が座っていた。


 話している者。

 黙って川を眺めている者。

 膝の上で本を読んでいる者。

 ただ夕方の光を浴びている者。


 完璧ではない場所に、人が自然に留まっている。


 玲央には、それが少し不思議だった。


 莉奈は足を止め、川の向こうを見た。


「私も、戻ろうと思ったことはあるよ」


 その言葉は突然だった。


 玲央は彼女を見る。


 莉奈は、川面から目を離さなかった。


「ここに来た最初の年。生活は不安定だし、仕事は続かないし、知り合いも少ないし。管理都市にいた頃より、ずっと大変だった」


 莉奈の声は、いつものように軽くはなかった。


 市場で冗談を言うときの声でも、玲央をからかうときの声でもない。

 過ぎた時間を、自分の手でそっと確かめるような声だった。


「なぜ戻らなかったのですか」


 玲央が尋ねると、莉奈は少し笑った。


「それを話すには、少し前の話をしないといけない」


 彼女は、傾いたベンチに腰を下ろした。


 ベンチは小さく軋んだ。

 玲央は一瞬、その安全性を確認しようと端末を見かけたが、やめた。


 莉奈の隣に座る。


 川の水面には、夕方の光が揺れていた。


 莉奈は、もともと管理都市の東区に住んでいた。


 生活安定指数の高い区域。

 教育環境も良く、医療支援も整い、職業配置も滑らかに接続される場所。

 ORACLEの推奨に従えば、大きな問題なく生きられる区域。


 彼女の人生プランも、整っていた。


 二十代前半で専門職へ進む。

 二十代後半で高適合パートナーとの関係形成を開始。

 三十代で安定した家庭基盤を作る。

 その後、感情負荷の少ない職場へ移行し、長期的な生活安定を維持する。


 将来的な幸福安定指数は高いと予測されていた。


「悪い人生じゃなかった」


 莉奈は言った。


「むしろ、かなり良い人生だったと思う」


 玲央は黙って聞いていた。


 かなり良い人生。


 その言い方には、嘘はなかった。

 莉奈は、管理都市を単純に憎んでいるわけではない。


 そこには支援があった。

 安定があった。

 大きく壊れない未来があった。


 それを彼女は分かっている。


「私には、大切な人がいた」


 莉奈は、川の向こうを見たまま続けた。


「ORACLEの推奨で紹介された相手じゃない。偶然出会って、何度か話すうちに、少しずつ惹かれていった人」


 偶然。


 管理都市では、偶然はできるだけ生活を乱さない範囲に収められる。

 出会いも、関係形成も、相性や負荷をもとに調整される。


 だが、莉奈は偶然出会った。


 そして、その相手を大切に思った。


「相性指数は低かった」


 莉奈は静かに言った。


「生活リズムが違う。価値観にずれがある。将来的な安定度が低い。互いの感情変動を悪化させる可能性がある」


 玲央には、その分析内容がすぐに理解できた。


 関係形成を慎重にすべきケースだった。


 強い感情があっても、長期的な安定に結びつかない関係はある。

 むしろ、感情が強いほど、生活が乱れ、仕事や健康に影響することもある。


 ORACLEが非推奨を出す理由としては自然だった。


「ORACLEは、その関係を深めることを推奨しなかった」


 莉奈は言った。


「最初は、そんなの関係ないと思ってた」


 彼女は川面を見つめる。


「でもね、端末は毎日教えてくるんだよ。この関係はあなたの幸福安定指数を下げます。この会話は感情負荷を高めます。この相手との接触頻度を減らしてください。この関係は長期生活安定性を損なう可能性がありますって」


 玲央は黙っていた。


 その通知は、支援だったはずだ。


 傷つかないように。

 生活が壊れないように。

 相性の悪い関係に深く踏み込まないように。


 ORACLEは、莉奈を守ろうとした。


「相手にも同じような通知が届いてた」


 莉奈は続ける。


「少しずつ、会う時間が減って、話す内容も減っていった。喧嘩したわけじゃない。嫌いになったわけでもない。ただ、最適じゃないって言われ続けて、私たちはその関係を続ける力を失った」


 玲央は、胸の奥が重くなるのを感じた。


 誰も無理やり引き離したわけではない。


 禁止されたわけでもない。


 ただ、非推奨が表示され続けた。

 リスクが示され続けた。

 幸福安定指数が下がると、何度も知らされた。


 その結果、二人は少しずつ離れた。


 制度上は、自由だった。


 だが、その自由は、毎日届く警告の中で少しずつ痩せていったのかもしれない。


「別れたあと、ORACLEは私の感情安定指数が回復したって表示した」


 莉奈の声は静かだった。


「睡眠も改善した。仕事の集中度も上がった。生活は安定した」


「それなら――」


 玲央は言いかけて、言葉を止めた。


 それなら、良かったのではないか。


 その言葉が出そうになった。


 けれど、莉奈の横顔を見て、言えなかった。


 莉奈は少し笑った。


「そう。それなら良かったはずなんだよね」


 彼女は胸元に手を当てた。


「でも、ここが空っぽになった」


 玲央は、その表現に返す言葉を持たなかった。


 空っぽ。


 幸福安定指数は回復した。

 睡眠も改善した。

 仕事の集中度も上がった。

 生活は安定した。


 数値上は、良い方向へ向かった。


 それなのに、空っぽになった。


「悲しみは減った。後悔も減った。生活も乱れなかった。でも、私がその人を好きだったことまで、なかったことにされていく感じがした」


 莉奈は続ける。


「ORACLEは、私を傷つかないように守ってくれた。たぶん、本当にそうだった。でも、傷つく可能性ごと取り上げられたとき、私は自分が何を大切にしたかったのか分からなくなった」


 川の水面に、夕方の光が揺れている。


 オレンジ色の光が、流れに沿って形を変えていた。

 水は、決まった形を持たずに動いている。


 玲央は、その光を見つめながら、何も言えなかった。


 人を守ること。


 傷つかないようにすること。


 それは間違っていないはずだった。


 だが、莉奈は言った。


 傷つく可能性ごと取り上げられた、と。


 人は、傷つくかもしれないものを大切にすることがある。


 その可能性まで消してしまったとき、人は何を失うのか。


 玲央は、初めてその問いに触れた気がした。


「だから出たの。自由選択区域へ」


「その人を追って?」


 玲央が尋ねると、莉奈は首を振った。


「違う。その人はもう別の人生を選んだ。ORACLEの推奨通り、相性のいい人と暮らしてる。たぶん幸せだと思う」


「では、なぜ」


 莉奈は玲央を見た。


 その目には、悲しみだけではなく、どこか静かな強さがあった。


「もう一度、自分で傷つける場所に行きたかった」


 玲央は息を呑んだ。


 自分で傷つける場所。


 傷つかないために支援される社会から、傷つく可能性のある場所へ。


 それは、玲央には矛盾しているように思えた。


 人は普通、傷つきたくない。

 失敗したくない。

 後悔したくない。

 苦しみたくない。


 だからORACLEがある。


 それなのに、莉奈は自分で傷つく場所へ行きたかったと言った。


 莉奈は苦笑する。


「変でしょ」


「……いえ」


 玲央は、ゆっくり答えた。


 変だとは思った。


 けれど、それを簡単に否定できなかった。


 なぜなら、莉奈の言葉の中には、水無瀬の問いと同じものが流れているように感じたからだ。


 これは、誰の人生なんでしょうか。


「ここに来て、何度も失敗したよ」


 莉奈は言った。


「仕事も、人間関係も、生活も。住む場所に困ったこともあるし、人を信じて後悔したこともある。体調を崩して、管理都市にいたらもっと早く治ったのにって思ったこともある」


 彼女は、少しだけ目を伏せた。


「最初の年は、本当に戻ろうと思った。何度も」


「それでも、戻らなかった」


「うん」


「なぜですか」


 莉奈は、しばらく黙った。


 川の向こうで、誰かが犬を連れて歩いている。

 犬は急に立ち止まり、飼い主が少し困ったように笑っていた。


 莉奈はそれを見ながら、静かに言った。


「ここでの失敗は、私のものだったから」


 玲央は彼女を見る。


「誰かに最適化された結果じゃない。私が選んで、私が間違えたことだった」


 その言葉は、黒木の言葉とも重なった。


 苦しさまで俺のものだ。


 水無瀬が求めていたものも、きっとそこに近い。


 幸福ではない。

 安定でもない。

 正解でもない。


 自分のものだと言えること。


 成功も、失敗も、傷も、後悔も。


 莉奈は続けた。


「管理都市にいた頃の私は、悲しみまできれいに片づけられてた。悲しくなりすぎないように、後悔しすぎないように、生活が乱れないように。たぶん、それで助かる人はたくさんいる」


「三枝さんのように」


「そう。三枝さんみたいに」


 莉奈は頷いた。


「だから、管理都市が全部悪いとは思ってない。あそこに戻って救われる人もいる。でも、私は違った」


「あなたにとっては、傷つくことも必要だった」


「うん」


 莉奈は、少しだけ笑った。


「ひどい言い方だけどね」


 玲央は、水無瀬の問いを思い出す。


 これは、誰の人生なんでしょうか。


 莉奈は、その問いへの答えの一部を、すでに生きているのかもしれなかった。


 自分で選び、自分で傷つき、自分で後悔し、それでもここに残る。


 その選択が正しいのかどうかは分からない。


 莉奈自身も、正解として語っているわけではない。


 ただ、彼女にとっては、それが必要だった。


「瀬川さんはさ」


 莉奈がふいに言った。


「誰かを好きになって、傷ついたことある?」


 玲央は、一瞬答えに詰まった。


 過去の記録が頭をよぎる。


 大学時代、関心を抱いた相手はいた。

 だが、価値観適合度や感情負荷の予測を見て、深い関係形成は避けた。

 相手との接触頻度は自然に減り、生活は乱れなかった。


 大きく傷ついたことはない。


 眠れなくなるほど誰かを思ったこともない。

 誰かの言葉に胸を刺されて、何日も引きずったこともない。


「ありません」


 玲央は答えた。


 莉奈は、責めるような顔をしなかった。


「そっか」


 ただ、そう言った。


 その反応が、玲央にはかえって重かった。


 傷ついたことがない。


 それは良いことのはずだった。


 管理都市は、玲央を傷つけないように守ってきた。

 そのおかげで、玲央の人生は安定している。

 大きな後悔もない。

 大きな喪失もない。


 それなのに、その答えを口にしたとき、玲央の胸には小さな空白が広がった。


「傷つくことを勧めたいわけじゃないよ」


 莉奈は静かに言った。


「痛いし、苦しいし、できれば避けたい。でも、傷つくかもしれないって分かってても、それでも大切にしたいものがあるとき、人はそれを選びたいんだと思う」


 玲央は、川面を見つめた。


 夕方の光は、少しずつ弱くなっている。

 水面の色も、オレンジから暗い青へ変わり始めていた。


「ORACLEは、その可能性を低くしてくれます」


「うん」


「それは、優しさです」


「うん」


「でも」


 玲央は、そこで言葉を止めた。


 続きがうまく出てこなかった。


 莉奈は急かさなかった。


 しばらく、二人は黙って川を見ていた。


 やがて玲央は、小さく言った。


「でも、その優しさで失われるものもあるのかもしれません」


 莉奈は、少しだけ目を細めた。


「そうかもね」


 答えは、それだけだった。


 断定しない。

 結論を急がない。

 正しいとも間違っているとも言わない。


 それが、自由選択区域の会話なのかもしれないと玲央は思った。


 正解がすぐには出ない。


 出ないまま、言葉がそこに置かれる。


 玲央は、莉奈の横顔を見た。


 彼女は管理都市を出た人間だ。

 失敗もした。

 後悔もした。

 戻ろうと思ったこともある。


 それでも、彼女はここにいる。


 自分で傷つく場所に。


 自分の失敗を、自分のものとして抱えられる場所に。


 水無瀬も、そこへ向かったのかもしれない。


 そして自分は今、その意味を少しずつ知り始めている。


 玲央は、胸の奥にある問いがさらに深くなるのを感じた。


 自由とは何か。


 それは、楽になることではないのかもしれない。


 幸福になることでも、正解を得ることでもないのかもしれない。


 もしかすると。


 自分で傷つく可能性を、手放さないことなのかもしれない。


 玲央はその考えに、静かに息を呑んだ。


 それはまだ、答えではない。


 けれど、今までの玲央なら決して思いつかなかった問いだった。


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