5-2:予定通りに進まない
5-2:予定通りに進まない
玲央の目的は、水無瀬蒼の足取りを追うことだった。
最後にORACLEが検出したのは、自由選択区域駅周辺。
その後、水無瀬は端末の接続を断ったか、少なくともORACLEの追跡支援網から外れる行動を取っている。
つまり、ここから先は記録だけでは追えない。
玲央はまず、駅前の宿泊施設を回ることにした。
自由選択区域に入ったばかりの人間が、最初に使う可能性が高い場所。
駅から近く、短期滞在者を受け入れている施設。
水無瀬がこの区域に入ったなら、少なくともどこかで夜を過ごす必要がある。
管理都市なら、すぐに確認できる。
本人の利用記録。
位置情報。
決済履歴。
施設の入退室データ。
公共交通機関の乗降履歴。
周辺カメラによる安全確認情報。
それらを照合すれば、ほとんど誤差なく動線が分かる。
だが、この区域ではそうはいかなかった。
一軒目の簡易宿泊所は、駅裏の細い路地にあった。
入口の看板は少し傾いていて、古い板に黒い文字で「宿」とだけ書かれている。
自動扉ではなく、手で押して開けるガラス戸だった。
戸の上には小さな鈴がついていて、玲央が開けると、からん、と乾いた音が鳴った。
受付には、四十代ほどの男が座っていた。
端末を見ているのではなく、古い紙の帳面に何かを書き込んでいる。
玲央が近づくと、男は顔を上げ、眠そうに目を細めた。
「宿泊ですか」
「いえ。人を探しています」
玲央は端末に水無瀬の顔写真を表示し、受付の男に見せた。
「水無瀬蒼という男性です。三十一歳。昨日から今日にかけて、この周辺を訪れている可能性があります」
男は画面を覗き込み、首をかしげた。
「水無瀬? さあね。来たかもしれないし、来てないかもしれない」
玲央は眉を寄せた。
「宿泊記録は確認できますか」
「紙ならあるよ」
男は横に置かれた帳面を軽く叩いた。
「でも昨日の分、まだ整理してない」
「整理していない?」
玲央は思わず聞き返した。
「夜勤のやつが書いたんだけど、どこ置いたかな。持って帰ったかもな」
玲央は一瞬、言葉を失った。
宿泊記録を、担当者が持って帰ったかもしれない。
管理都市なら、重大な運用違反だった。
記録は個人の持ち物ではない。
支援と安全確認のために、正確に保管され、必要に応じて照合できなければならない。
それが、どこにあるか分からない。
持って帰ったかもしれない。
そんなことが、あり得るのか。
「確認にはどれくらいかかりますか」
玲央は、できるだけ声を平静に保って尋ねた。
男は壁の時計を見た。
「分からない。夕方には戻るんじゃない?」
「夕方、ですか」
「たぶんね」
「今、連絡は取れないのですか」
「寝てるかも。夜勤明けだから」
「緊急確認です」
「そう言われてもねえ」
受付の男は、悪びれた様子もなく肩をすくめた。
「急ぎなら隣の宿も聞いてみたら」
玲央は、返す言葉を探した。
怒るべきなのか。
注意すべきなのか。
報告すべきなのか。
だが、この区域で管理都市の基準を持ち出しても意味がないことは、昨夜から少しずつ分かり始めていた。
玲央は端末に記録を入力しようとした。
一軒目。
簡易宿泊所。
水無瀬蒼の利用確認、未確定。
宿泊記録、未整理。
再確認必要。
しかし、接続が遅い。
入力した文字が、端末上で一瞬止まる。
同期中の表示が出たまま、数秒進まない。
玲央は、そのわずかな遅延に苛立ちを覚えた。
数秒。
管理都市なら、気にも留めないほど短い時間かもしれない。
だが、すべてが曖昧で、すべてが遅れているこの街では、その数秒がさらに積み重なっていくように感じられた。
二軒目の宿泊所は、一軒目よりもさらに小さかった。
入口には暖簾のような布が下がっていて、受付の奥からは煮物の匂いがした。
カウンターには、老女が座っていた。
白髪を後ろでまとめ、厚手の上着を着ている。手元では、針と糸を使って何かを縫っていた。
「すみません」
玲央が声をかけると、老女はゆっくり顔を上げた。
「はいはい。泊まり?」
「いえ。人を探しています」
玲央はもう一度、水無瀬の顔写真を見せた。
「水無瀬蒼さんという方です。こちらに宿泊、または立ち寄った可能性はありますか」
老女は、画面をじっと見た。
「ああ……そんな感じの人、見たような気もするねえ」
玲央は少し身を乗り出した。
「いつですか」
「昨日だったか、一昨日だったか……」
「服装は覚えていますか」
「暗い色の服だったような。いや、明るかったかねえ」
玲央は息を整えた。
情報が曖昧すぎる。
「年齢は三十代前半。細身で、落ち着いた印象の男性です」
「ああ、それなら駅前の古本屋で見たかもしれない」
「古本屋ですか」
「いや、喫茶店だったかもしれないね」
玲央は思わず目を閉じた。
古本屋なのか、喫茶店なのか。
昨日なのか、一昨日なのか。
暗い服なのか、明るい服なのか。
何も確定しない。
管理都市では、曖昧な証言はほとんど必要とされない。
人の記憶に頼らず、記録がある。
記録は正確で、検索可能で、照合できる。
いつ、どこで、誰が、何をしたのか。
必要な範囲で確認できる。
だが、ここでは人の記憶が手がかりになる。
そして人の記憶は、驚くほど頼りない。
「その古本屋、または喫茶店はどちらにありますか」
玲央は尋ねた。
老女は少し考えてから、窓の外を指さした。
「この道をまっすぐ行って、魚屋の角を曲がって、赤い屋根の店の手前を右。だったと思うよ」
「魚屋は営業していますか」
「今日はどうかねえ」
「赤い屋根の店の名前は」
「名前? 何だったかねえ。みんな赤い屋根って呼んでるけど」
玲央は端末に入力しようとした。
魚屋の角。
赤い屋根の店。
手前を右。
住所もない。
正確な地図情報もない。
施設名も曖昧。
入力欄に記録しながら、玲央は自分が何をしているのか分からなくなりそうだった。
外に出ると、莉奈が店先の壁にもたれて待っていた。
片手に紙袋を抱え、もう片方の手で端末ではなく小さな紙片をいじっている。
紙には何かの買い物メモのようなものが書かれていた。
「どう?」
莉奈が尋ねる。
「情報の精度が低すぎます」
「まあ、そうだろうね」
莉奈は、最初から分かっていたような口調で言った。
「なぜ誰も記録を正確に残さないのですか」
「残す人もいるよ。でも、全員じゃない」
莉奈は壁から背を離した。
「ここでは、全部を記録されるのが嫌で来てる人も多いから」
玲央は黙った。
全部を記録されるのが嫌。
それは玲央にとって、理解しにくい感覚だった。
記録があるから、生活は守られる。
睡眠の乱れも、食事の偏りも、精神負荷も、孤独も、生活破綻の兆候も。
記録されるから異常が検知される。
異常が検知されるから、支援が届く。
支援が届くから、失敗を防げる。
記録されないということは、危険に気づけないということでもある。
「記録されなければ、支援も届きにくくなります」
玲央は言った。
「そうだね」
「危険です」
「うん」
「では、なぜ」
「守られることと、見られ続けることは、同じじゃないから」
莉奈はそう言って、通りの方へ目を向けた。
その言葉に、玲央はすぐには返せなかった。
守られること。
見られ続けること。
管理都市では、その二つはほとんど分かれていなかった。
見守るから守れる。
把握するから支援できる。
記録するから異常に気づける。
それが当たり前だった。
だが、莉奈はその二つの間に線を引いた。
「水無瀬さんも、記録されることを避けたのでしょうか」
玲央が尋ねると、莉奈は少し考えた。
「たぶんね」
そして歩き出す。
「でも、完全に消えるのは難しい。誰かと話せば記憶に残るし、どこかで食べれば顔を覚えられる。ここではデータじゃなくて、人に聞くしかない」
「非効率です」
「さっきも聞いた」
「事実です」
「うん。でも、人間ってだいたい非効率だよ」
莉奈は振り返らずに言った。
玲央はその背中を見ながら、胸の奥に小さな苛立ちを感じていた。
すべてが遅い。
すべてが曖昧。
すべてが不確か。
聞いた話は人によって違い、行った店は閉まっていて、記録は残っていない。
地図は信用できず、案内は曖昧で、道順は人の記憶に頼るしかない。
予定通りに進まない。
正解が表示されない。
そのたびに、玲央はORACLEの整った支援を思い出した。
もしここが管理都市なら、すでに水無瀬の動線は特定できていただろう。
支援班が接触し、必要なら心理安定プログラムにつなげていたはずだ。
本人が迷っているなら面談を設定し、生活が不安定なら支援を組み直し、孤独が高まっているなら地域コミュニティへ接続する。
問題が起きても、仕組みが受け止める。
ここでは、ただ歩き、尋ね、断られ、間違えるしかない。
玲央は通りの途中で立ち止まった。
自分でも驚くほど、声が先に出た。
「なぜ、こんな不便な場所に人が住むのですか」
莉奈も足を止めた。
少し先を歩いていた彼女が、ゆっくり振り返る。
周囲では相変わらず人が行き交っている。
店先で誰かが値段交渉をし、向かいの家の窓から布団を叩く音が聞こえた。
どこかで子どもが笑い、別の場所で誰かが文句を言っている。
この街は、不便なまま動いている。
莉奈は、玲央を責めるような顔はしなかった。
ただ、少しだけ目を細めた。
「便利な場所で息ができない人もいるから」
その言葉に、玲央はすぐに返せなかった。
便利な場所で、息ができない。
管理都市は、人を守るために作られている。
迷わないように。
傷つかないように。
孤立しないように。
破綻しないように。
玲央は、その街で息をしてきた。
安全で、整った空気の中で。
だが、水無瀬は言った。
幸福なのかもしれません。
でも、生きている感じがしないんです。
あの言葉が、莉奈の言葉と重なった。
便利な場所で息ができない。
玲央は、通りの真ん中で立ち尽くしていた。
莉奈はそれ以上説明せず、再び歩き出した。
「次、古本屋。たぶん開いてる。たぶんね」
玲央は、その「たぶん」に、また小さく眉をひそめた。
だが今度は、何も言わなかった。
確かなものが少ないこの街で、莉奈の「たぶん」だけが、今の玲央にとって唯一の道しるべになっていた。




