3-6:玲央への通知
3-6:玲央への通知
勤務終了時刻を過ぎても、玲央は席を立てずにいた。
庁内の照明は、すでに夜間モードへ切り替わっている。
日中は白く清潔に見えていた壁が、少しだけ青みを帯びていた。
照明の光量はゆるやかに落とされ、職員たちの退勤を促すように、執務室全体が静かな夜の色へ変わっている。
人は、明るい場所にいると働き続けてしまう。
だから庁舎は、時間に合わせて空間そのものを変える。
働くべき時間には集中しやすい光を。
帰るべき時間には、自然に身体が休息へ向かう光を。
それもまた、ORACLEの支援のひとつだった。
端末には、帰宅推奨時刻が表示されている。
本日の退勤推奨時刻、十八時二十二分。
帰宅ルート、中央線第七ホーム経由。
夕食、消化負荷の低い温食を推奨。
帰宅後の活動、軽いストレッチ。
業務思考停止推奨、二十一時。
いつもなら、玲央はその通りに席を立つ。
端末を閉じ、机の状態を確認し、指定されたルートで庁舎を出る。
駅へ向かい、推奨された車両に乗り、帰宅後は提示された食事を取り、軽い運動をし、二十一時以降は業務関連の思考を停止する。
それで一日は整う。
そうしてきた。
何年も。
だが、その日は動けなかった。
水無瀬蒼の位置情報は、まだ復旧していない。
追跡支援班からの追加報告もない。
神崎からも、通常業務を継続せよという指示が出ている。
担当職員として玲央が今すぐ行うべき手続きは、すでに完了している。
つまり、玲央にできることはない。
端末の表示も、そう告げていた。
担当職員の追加対応、現時点では不要。
追跡支援班の報告を待機。
通常業務および生活リズムの維持を推奨。
正しい。
玲央は、それが正しいことを理解していた。
水無瀬は成人した市民であり、自由選択権を正式に行使した。
移動も、制度上は認められている。
ORACLEの支援網から一時的に外れたことは懸念事項だが、担当職員が個人的に動く段階ではない。
だから、帰るべきだった。
帰宅し、食事を取り、休む。
明日、必要な対応をすればいい。
それが最適だった。
それでも、胸の奥は落ち着かなかった。
玲央は、水無瀬の最後の検出地点をもう一度開いた。
都市西部境界。
自由選択区域連絡線付近。
地図が表示される。
管理都市の中心部から西へ延びる交通網。
その端にある境界駅。
そこから先は、ORACLEの支援接続が薄くなる区域。
自由選択区域。
玲央は、その言葉を画面の上で見つめた。
これまで、ほとんど意識したことのない場所だった。
制度としては知っている。
研修でも学んだ。
自由選択権を行使した市民の一部が移る場所。
ORACLEの推奨を受け入れるかどうかを、自分で選ぶ人々が暮らす区域。
管理社会の外側。
完全な無秩序ではない。
だが、管理都市ほど整ってはいない。
支援は限定的で、生活は不安定になりやすい。
玲央はその地図を見続けた。
水無瀬は、なぜそこへ向かったのか。
その問いが、端末の光よりも強く、玲央の中に浮かんでいた。
そのとき、端末が突然、別の通知を表示した。
最初は、通常の健康管理通知かと思った。
帰宅時刻の再通知。
疲労蓄積の注意。
あるいは、業務思考停止の予備案内。
そうしたものだと思った。
しかし、表示された文面を見た瞬間、玲央の身体が固まった。
個人適性再評価が完了しました。
玲央は眉を寄せた。
個人適性再評価。
職員に対して定期的に行われる内部評価だ。
業務負荷、感情傾向、職務適合度、生活安定性、対人反応、職務中立性。
それらを分析し、必要に応じて配置や生活改善の推奨が出される。
珍しいものではない。
玲央も、これまで何度も評価を受けてきた。
職務適合度、高。
感情安定性、良好。
適合支援局での勤務継続を推奨。
いつも、似たような内容だった。
だが、その下に表示された判定は、玲央が見たことのないものだった。
瀬川 玲央。
現在の職務適合度、八十七。
社会安定適合度、高。
自己決定感変動、上昇。
管理外環境接触適性、検出。
判定、自由選択区域への移行適性があります。
玲央は画面を見つめたまま、呼吸を忘れた。
自由選択区域への移行適性。
それは、市民に対して出されることがある判定だった。
管理社会の中で強い違和感を持ち、ORACLEの支援から一定の距離を置いても生活を維持できる可能性がある者。
自己選択への欲求が高まり、自由選択区域での生活に一定の適応可能性があると判断された者。
その人に対して、補助的に表示されることがある。
だが、人生最適化庁の職員に出ることは極めてまれだった。
まして玲央は、適合支援局の職員だ。
ORACLEの人生プランを市民に説明し、受容を支援する側の人間である。
迷う市民に、最適な道を伝える。
不安を抱える市民に、数字と言葉で安心を与える。
自由選択権のリスクを説明し、必要なら再接続へ導く。
その自分に、ORACLEが外側への適性を示した。
玲央は、端末を閉じようとした。
反射的な動きだった。
見なかったことにしたい。
あるいは、評価エラーだと思いたい。
一時的な感情負荷による誤判定だと処理したい。
しかし、画面は自動的に補足情報を表示した。
直近二十四時間において、以下の変化を検出しました。
一、ORACLE推奨に対する内的疑義の増加。
二、自由選択権行使者への共感傾向上昇。
三、自己選択履歴への関心増大。
四、管理外区域への接触思考の発生。
五、感情負荷分類への抵抗反応、軽度。
玲央は唇を結んだ。
ORACLEは、見ていた。
自分が水無瀬の記録を何度も開いたこと。
自由選択区域の地図を見続けていたこと。
自分の過去の選択について考えたこと。
神崎の言葉に納得しながらも、水無瀬の問いを捨てきれなかったこと。
呼吸調整の通知を閉じたこと。
責任感情の過剰化という分類に、わずかな抵抗を覚えたこと。
すべて、分析されていた。
玲央は端末を握る手に、力が入っていることに気づいた。
これまでなら、分析されることに抵抗はなかった。
ORACLEは、自分の状態を把握してくれる。
自分でも気づけない変化を見つけてくれる。
危険な方向へ進む前に知らせてくれる。
それは支援だった。
だが今は、その支援が少しだけ近すぎるように感じた。
自分の胸の中で、まだ言葉にもなっていない小さな揺らぎまで、先に分類されてしまう。
それが、なぜか苦しかった。
端末には、さらに推奨行動が表示された。
現時点での自由選択区域訪問は非推奨です。
感情負荷が高く、判断の偏りが生じている可能性があります。
帰宅し、休息を取ってください。
玲央は、しばらく画面を見つめていた。
帰宅し、休息を取る。
それが最適なのだろう。
感情が乱れているときに行動すべきではない。
水無瀬の件は追跡支援班が対応している。
自分は担当職員であって、救助者ではない。
外側へ向かう理由などない。
神崎も言った。
問いに引きずられるな。
彼の選択は、彼のものだ。
通常業務を継続しろ。
その通りだった。
玲央は、そう考えようとした。
けれど、端末の中の一文が目から離れなかった。
自由選択区域への移行適性があります。
ORACLEが、自分にそう告げている。
外へ向かう可能性がある、と。
それは警告なのか。
診断なのか。
それとも、許可なのか。
玲央には分からなかった。
分からない。
その言葉が、胸の奥でひどく不安定に揺れた。
いつもなら、分からないことはORACLEが整理してくれる。
意味を与え、分類し、対処法を示してくれる。
だが今回、分類を与えているのはORACLEなのに、その意味が玲央には分からなかった。
窓の外には、夜の都市が広がっている。
管理された光。
整った道路。
静かに流れる人々。
空中交通レーンを一定の間隔で進む無人車両。
規則正しく点灯する居住区の窓。
迷わず、乱れず、最適な帰路へ向かう社会。
そのすべてが、昨日までと同じように美しかった。
だが玲央の目には、その整いすぎた光景の向こうに、見えない境界線が浮かんでいた。
水無瀬蒼が消えた場所。
ORACLEの声が届きにくくなる場所。
自由選択区域。
玲央は端末を閉じた。
帰宅推奨時刻は、すでに過ぎている。
画面が暗くなると、そこに自分の顔が薄く映った。
疲れている。
だが、乱れてはいない。
いつもの玲央の顔だった。
それなのに、目だけが、少し違って見えた。
玲央は席を立った。
執務室には、もうほとんど人が残っていなかった。
夜間モードの青い光の中で、いくつかの端末だけが静かに点滅している。
廊下に出ると、庁舎は静まり返っていた。
白い壁に、玲央の足音だけが小さく響く。
いつもなら、こうした夜の庁舎にも安心を覚えた。
人の気配が少なく、音も少なく、すべてが整っている。
残業を避けるよう設計された空間は、働きすぎることすら許さない。
優しい場所だった。
それなのに、その夜の庁舎は少しだけ遠く感じられた。
出口へ向かう途中、壁面にいつもの理念が表示されていた。
迷わない社会へ。
あなたに最適な人生を。
玲央は足を止めた。
何度も見てきた言葉だった。
新人研修の日にも見た。
初めて面談を担当した日にも見た。
市民の不安が数字と言葉によって和らいでいくたびに、この理念は正しいのだと思ってきた。
迷わない社会。
あなたに最適な人生。
その言葉は、救いだったはずだ。
だが今、玲央は初めて少しだけ違うもののように感じた。
迷わないことは、本当に救いなのか。
それとも、迷う力を失うことなのか。
答えは出なかった。
出るはずもなかった。
玲央は、まだその問いに向き合う準備ができていない。
ただ、ひとつだけ確かなことがあった。
水無瀬蒼の問いは、もう彼だけのものではなくなっていた。
これは、誰の人生なんでしょうか。
その問いは、玲央自身の中にも生まれ始めていた。
庁舎の自動扉が、玲央の歩行速度に合わせて静かに開く。
外の夜気が、わずかに頬に触れた。
端末は、帰宅ルートを表示している。
中央線第七ホーム経由。
いつもの道。
最適な道。
迷わない道。
玲央はその表示を見つめた。
そして、すぐには歩き出せなかった。




