第4章:自由選択区域 4-1:神崎の警告
4-1:神崎の警告
翌朝、玲央は神崎透真の管理官室に呼ばれた。
庁舎に入った時点で、玲央にはその理由が分かっていた。
前日の夜、自分自身の端末に届いた通知。
自由選択区域への移行適性があります。
その報告を、玲央は勤務開始前に提出していた。
報告しないという選択肢も、頭をよぎらなかったわけではない。
だが、庁内職員の個人適性通知は、業務上の安全管理に関わる。特に、適合支援局の職員が自由選択区域への移行適性を示された場合、それは職務中立性や面談対応に影響する可能性がある。
隠しても意味はない。
ORACLEはすでに記録している。
玲央が管理官室に入ると、神崎は端末に表示された玲央の評価結果を見つめていた。
室内には、いつもと同じ静けさがあった。
壁面パネルには、都市全体の生活安定指数が並んでいる。
犯罪予兆、基準内。
雇用不安、低。
孤独リスク、許容範囲内。
生活破綻リスク、前日比微減。
自由選択権行使者追跡支援、確認中。
数字だけを見れば、今日も社会は安定していた。
水無瀬蒼が消えたことも、玲央の中に生まれた揺らぎも、この都市全体の安定を大きく乱すものではない。
社会は、いつも通り動いている。
神崎は、しばらく沈黙していた。
玲央は椅子に座り、背筋を伸ばした。
管理官室の椅子は、身体に負担がかからない角度に調整されている。座れば自然と姿勢が整う。
だが、その朝の玲央は、姿勢だけが整っているような気がした。
神崎が口を開いた。
「水無瀬の件が影響しているな」
「その可能性はあります」
玲央は正直に答えた。
否定しても仕方がない。
ORACLEは、玲央が水無瀬の記録を何度も確認したことも、自由選択区域の地図を表示し続けたことも、自分の過去の選択履歴に関心を示したことも、すべて記録している。
神崎は椅子にもたれなかった。
いつも通り、背筋を伸ばしたまま玲央を見た。
「自由選択区域に関心を持っているのか」
玲央は、少しだけ言葉を選んだ。
「水無瀬さんの最後の検出地点が、区域境界付近でした」
「それは追跡支援班が確認している」
「分かっています」
「なら、君が行く必要はない」
神崎の声は、いつも通り落ち着いていた。
声を荒げることはない。
感情をぶつけることもない。
ただ、言葉の輪郭がいつもより硬かった。
そこには明確な圧があった。
玲央は視線を落とした。
「ですが、私は担当職員です。彼が自由選択権を行使する直前に面談したのは、私です」
「だからといって、君が彼の人生を背負う必要はない」
神崎は端末を閉じた。
画面から玲央の適性評価が消える。
「水無瀬蒼は、成人した市民だ。説明を受け、制度上のリスクを承認し、自分の意思で自由選択権を行使した。彼の選択は、彼のものだ」
彼の選択は、彼のもの。
昨日も聞いた言葉だった。
その言葉は正しい。
玲央にも分かっていた。
市民の選択を、担当職員がすべて背負うことはできない。
それをすれば、支援ではなく支配になる。
水無瀬が自分で選んだなら、その選択を完全に否定することはできない。
それでも、胸の奥に残る重さは消えなかった。
水無瀬の選択が彼のものなら、なぜ自分はこんなに落ち着かないのか。
なぜ、自分の端末にまで自由選択区域への移行適性が表示されたのか。
玲央は顔を上げた。
「自由選択区域とは、どのような場所なのですか」
神崎の目が、わずかに細くなった。
「制度上は、ORACLEの支援を部分的に制限し、市民の自己選択を尊重する区域だ」
「制度上は、ですか」
「ああ。実態はもっと不安定だ」
神崎は壁面に区域情報を表示した。
管理都市の外縁部が、淡い線で浮かび上がる。
中心部ほど白く明るく表示されていた地図は、西側へ向かうほど少しずつ色が薄くなっていた。
支援接続の弱い地域。
生活安定指数、都市中心部より低。
職業継続率、低。
医療予防プログラム接続率、不十分。
対人関係トラブル、増加傾向。
経済的不安、中から高。
孤立リスク、高。
玲央はその表示を見つめた。
数字は静かだった。
だが、その静けさの中に、管理都市とは違う危うさが滲んでいた。
「自由選択区域では、ORACLEの推奨を受け入れるかどうかを個人が選ぶ。生活設計も、職業も、対人関係も、かなりの部分が本人の判断に任される」
「それが自由なのでは」
玲央がそう言うと、神崎は短く息を吐いた。
「そう見えるだろうな」
「違うのですか」
「自由とは、何をしてもいい場所のことではない。だが、あそこでは多くの人間がそれを履き違える」
神崎の声に、わずかな硬さが混じった。
それは、玲央がこれまでにも何度か聞いた硬さだった。
自由という言葉が出るとき。
ORACLE導入以前の社会を語るとき。
人間は自由に耐えられない、と言うとき。
神崎の声は、わずかに硬くなる。
「ORACLEの推奨を拒んだ者は、最初は解放されたように感じる。誰にも決められない。自分で選べる。好きな場所へ行ける。好きな仕事を選べる。好きな人間関係を築ける」
神崎は壁面の数値を見た。
「だが、すぐに気づく」
「何にですか」
「誰も、正解を教えてくれないということに」
玲央は黙った。
誰も、正解を教えてくれない。
その言葉は、静かに胸の中へ落ちた。
管理都市では、正解に近いものが常に示される。
今日、何を食べればいいか。
どの道を通ればいいか。
どの仕事が合っているか。
誰と関われば安定するか。
どこで休むべきか。
いつ立ち止まるべきか。
ORACLEは、人が迷う前に道を示す。
だが、自由選択区域では、それが薄くなる。
「自分で選ぶということは、自分で迷うということだ」
神崎は言った。
「迷うということは、間違える可能性を抱えるということだ。間違えれば、生活は崩れる。人間関係は壊れる。健康も、仕事も、未来も、不安定になる」
玲央は、壁面の数値から目を離せなかった。
生活安定指数、低。
孤立リスク、高。
再接続申請率、上昇傾向。
「自由選択区域は、魅力的な場所ではない」
神崎は、玲央から視線を外さなかった。
「混乱の場所だ」
その言葉は、警告だった。
単なる情報提供ではない。
玲央を引き止めるための、明確な言葉。
「君は今、水無瀬の言葉に引きずられている。自分の人生まで疑い始めている。そういう状態であの区域へ行けば、判断が偏る」
「ORACLEも、訪問は非推奨と表示しました」
「なら従え」
神崎は即座に言った。
迷いの余地を与えない声だった。
「玲央。君は優秀な職員だ。市民の迷いを整理し、支える側の人間だ。迷いの側へ行く必要はない」
迷いの側。
その言葉が、玲央の胸に残った。
支える側。
迷いの側。
自分はずっと、支える側にいると思ってきた。
市民は迷う。
職員はそれを整理する。
ORACLEは道を示し、自分たちはその道を理解できる形に整える。
だが、水無瀬の問いを聞いてから、玲央自身も迷い始めている。
それは、本来あってはならないことなのだろうか。
神崎は少しだけ声を落とした。
「自由は、人を救うこともある。だが、それ以上に人を壊すことがある。君はまだ、それを知らない」
玲央は答えなかった。
神崎の言葉は正しいのかもしれない。
自由選択区域は危険な場所なのかもしれない。
水無瀬蒼の選択は、危ういものなのかもしれない。
自分は一時的な感情に動かされているだけなのかもしれない。
ORACLEも、訪問は非推奨だと示した。
神崎も、行く必要はないと言った。
追跡支援班も動いている。
ならば、自分は何もしなくていい。
そのはずだった。
だが、ひとつだけ、どうしても消えない問いがあった。
水無瀬はなぜ、そこまでして外へ向かったのか。
安定した人生を拒み、支援を手放し、位置情報まで不安定にして。
そこまでして、何を求めたのか。
そしてORACLEはなぜ、自分にまで外側への適性を示したのか。
玲央はそれを尋ねようとした。
だが、言葉にはならなかった。
神崎は、玲央の沈黙をどう受け取ったのか、再び端末を開いた。
「今日の業務は通常通り行え。必要なら、面談件数を一件減らす。感情負荷の調整として処理できる」
「いえ。通常通り行います」
玲央は答えた。
自分の声が、少し硬く聞こえた。
「そうか」
神崎は短く頷いた。
話は終わりだ、という空気が部屋に満ちた。
玲央は立ち上がる。
椅子が静かに位置を戻した。
扉へ向かう前に、神崎が最後に言った。
「水無瀬の件には、これ以上個人的に関わるな」
玲央は足を止めた。
振り返る。
神崎の顔に、感情はほとんど出ていない。
だが、その目はいつも以上に真剣だった。
「それは命令ですか」
玲央は尋ねた。
言葉にしたあと、自分でも少し驚いた。
これまでの玲央なら、そんな確認をしただろうか。
上司の言葉に含まれる意図を読み、最適な行動を選び、静かに従ったはずだ。
神崎は少しだけ沈黙した。
その沈黙の間、壁面パネルの数字だけが静かに更新されていた。
犯罪予兆、基準内。
雇用不安、低。
孤独リスク、許容範囲内。
世界は安定している。
その安定した数字を背に、神崎は言った。
「忠告だ」
命令ではない。
玲央は小さく頷いた。
「分かりました」
そう答えて、部屋を出た。
廊下に出ると、いつもの白い光が玲央を包んだ。
庁舎の空気は変わらない。
職員たちは静かに動き、端末には今日の業務予定が整然と並んでいる。
だが、玲央の中には、神崎の最後の言葉が残っていた。
忠告だ。
命令ではない。
その事実が、なぜか玲央の中に残った。
命令なら、従えばよかった。
だが、忠告なら。
玲央は廊下の途中で立ち止まりそうになり、すぐに歩き出した。
迷う必要はない。
そう自分に言い聞かせた。
しかしその言葉は、以前ほど自然には胸に入ってこなかった。




