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『あなたに最適な人生です』  作者: Yukiya


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3-2:自由選択権

3-2:自由選択権


 管理官室に入ると、神崎透真はすでに水無瀬蒼の記録を開いていた。


 壁面パネルには、水無瀬の人生プランと、自由選択権行使による支援変化が並んで表示されている。


 左側には、昨日までの人生プラン。


 職務継続。

 上位職務への段階的移行。

 居住区変更。

 健康維持プログラム。

 高適合パートナー候補。

 交友関係の維持。

 幸福安定指数の上昇予測。


 右側には、自由選択権行使後の支援変更。


 住宅支援、段階的縮小。

 職業配置支援、限定化。

 医療予防プログラム、優先度低下。

 人間関係調整サービス、接続制限。

 生活破綻予防システム、通常監視対象へ移行。


 同じ人物の未来が、二つに分かれて表示されていた。


 ひとつは、整えられた道。

 もうひとつは、支援の線が少しずつ薄くなっていく道。


 神崎は玲央に座るよう促した。


「通知は確認したな」


「はい」


 玲央は椅子に腰を下ろした。


 神崎の表情は大きく変わらない。

 だが、いつもより目の奥が深く沈んでいるように見えた。


「水無瀬蒼が、今朝六時四十二分に自由選択権を正式行使した」


 神崎の声は落ち着いていた。


 怒りはない。

 焦りもない。

 だが、そこには明らかな重さがあった。


 玲央は壁面パネルを見る。


 自由選択権。


 それは、ORACLE管理社会において、国民に残された最も大きな選択権だった。


 制度上、誰もが使うことができる。


 ORACLEの提示した人生プランを拒み、進路、職業、住居、人間関係、生活設計を自分自身で選ぶ権利。


 この社会では、自由は完全に消えていない。


 むしろ、法的には明確に守られている。


 人は、ORACLEに従わないことを選べる。

 推奨された職場を断ることもできる。

 推奨された居住地へ移らないこともできる。

 推奨された相手との関係形成を拒むこともできる。

 指定された生活習慣に従わないこともできる。


 人生を、自分で選ぶ権利。


 それは、この国の制度文書にも明記されている。


 ORACLEは、支援システムであって、強制装置ではない。

 最終決定権は、本人にある。


 玲央は研修で、何度もそう学んできた。


 しかし、その自由には条件がある。


 ORACLEの推奨から外れるということは、ORACLEによる社会支援との接続も外れるということだった。


 支援は、すぐにすべて失われるわけではない。


 医療を受けられなくなるわけでもない。

 住む場所を即座に失うわけでもない。

 仕事を探す権利が消えるわけでもない。

 誰かと関係を持つことを禁じられるわけでもない。


 だが、優先順位は下がる。


 住宅補助は段階的に縮小される。

 職業再配置支援は限定的になる。

 医療予防プログラムの優先度も下がる。

 人間関係調整サービスは利用制限を受ける。

 生活破綻予防システムも、完全な保護対象から外れる。


 ORACLEが示した最適な道を外れる以上、その先のリスクは本人が引き受ける。


 それが制度の考え方だった。


 つまり、自由選択権を使うということは、自分の人生を自分で選べるようになる代わりに、失敗したときの支えを少しずつ手放すということだった。


 玲央は、これまで何度か自由選択権について市民に説明したことがある。


 多くの場合、市民は最初、関心を示す。


 自分で選びたい。

 AIに決められたくない。

 推奨された道以外にも可能性があるはずだ。


 そう口にする者もいる。


 だが、支援変更の詳細を聞くと、多くは黙り込む。


 選びたい気持ちはある。


 けれど、失敗したらどうするのか。


 仕事を失ったら。

 病気になったら。

 孤独になったら。

 生活が崩れたら。

 誰にも助けてもらえなくなったら。


 そう考えると、ほとんどの人はORACLEのプランに戻る。


 玲央はそれを、自然なことだと思っていた。


 自由を使わないという選択もまた、選択なのだと。


 神崎は低い声で言った。


「自由選択権は、制度としては必要だ。完全な強制ではないと示すためにな」


 玲央は黙って聞いていた。


「だが、実際に行使する者は少ない。行使した者の多くも、一定期間後には再接続を申請する」


 神崎が軽く指を動かすと、壁面の表示が切り替わった。


 自由選択権行使者。

 一年以内の生活不安定化率。

 三年以内の再接続申請率。

 精神負荷上昇率。

 職業継続困難率。

 孤独リスク増加率。


 数値は、決して低くなかった。


 玲央はその数字を見つめた。


 自由選択権を使った人々の多くが、安定から遠ざかっている。


 それは、研修でも学んだ事実だった。

 自由を選んだ者が、必ずしも幸福になるわけではない。

 むしろ、ORACLEの支援から離れることで、生活が不安定になる場合が多い。


「自由は、理念としては美しい」


 神崎は言った。


「だが、制度の外に出た瞬間、人は自分の弱さと直接向き合うことになる。迷い、失敗し、孤立する。多くの人間は、それに耐えられない」


 玲央は、水無瀬の顔を思い出した。


 昨日の面談室。


 整った人生プランを前にして、静かに座っていた男。

 拒絶するわけでもなく、怒るわけでもなく、ただ遠いものを見るような目をしていた男。


 水無瀬は本当に、その代償を理解していたのだろうか。


 いや、理解していたはずだ。


 自由選択権の行使には、複数回の確認手続きがある。


 支援低下の説明。

 生活リスクの提示。

 心理負荷予測。

 再接続までに必要な条件。

 緊急時支援の制限。

 本人による最終確認。


 それらをすべて確認しなければ、手続きは完了しない。


 水無瀬は、それらをすべて読んだ。

 理解したと記録した。

 そして、承認した。


 神崎は、水無瀬の手続きログを表示した。


 玲央の前に、最終確認文が浮かび上がる。


 私は、ORACLEの人生プランを拒否し、今後の選択に伴う責任を自ら引き受けます。


 その下に、水無瀬蒼の承認記録がある。


 時刻、六時四十二分。

 本人認証、完了。

 理解確認、完了。

 自由選択権、正式行使。


 玲央はその一文から目を離せなかった。


 今後の選択に伴う責任を、自ら引き受ける。


 それは、この社会ではほとんど使われなくなった言葉だった。


 責任。


 かつての時代、人々を苦しめていた言葉。


 自分で選んだのだから、自己責任。

 失敗したのは、自分の判断が悪かったから。

 苦しいなら、自分で何とかするしかない。


 ORACLEは、その重さから人を救うために作られたはずだった。


 それなのに、水無瀬は自らその言葉を選んだ。


 玲央には、それが理解できなかった。


「水無瀬さんは、なぜそこまでして自由選択権を行使したのでしょうか」


 玲央は思わず尋ねていた。


 神崎はすぐには答えなかった。


 その沈黙が、答えの難しさを示していた。


「本人記述には、簡単な理由が残されている」


 神崎は端末を操作した。


 画面に、水無瀬の記述が表示される。


 私は、ORACLEの提示する人生プランが合理的であることを理解しています。

 その道を進めば、生活は安定し、後悔も少ないのだと思います。

 それでも、私はその人生を自分のものとして感じることができません。


 玲央は息を止めた。


 続きが表示される。


 失敗してもいいから、自分で選んだと言える場所へ行きたい。

 たとえそれが、不安定な道であっても。


 部屋の中は静かだった。


 神崎も、しばらく何も言わなかった。


 玲央はその文章を見つめた。


 失敗してもいいから。


 その言葉が、どうしても胸に引っかかった。


 失敗は、避けるべきものだ。

 後悔は、減らすべきものだ。

 不安定な道は、できる限り選ばない方がいい。


 それは社会の基本だった。


 それなのに、水無瀬は失敗の可能性を知ったうえで、その道を選んだ。


「典型的な自己決定感の欠如だ」


 神崎が静かに言った。


 玲央は顔を上げる。


「自己決定感の欠如」


「ああ。ORACLE社会では、まれに発生する。特に高適合者に多い。生活が整いすぎて、本人の中に選んだ実感が残らない」


「それは……」


 玲央は言葉を探した。


「支援の結果、ですか」


「支援の副作用だ」


 神崎は、前日と同じ言葉を使った。


「だが、それを理由に支援そのものを否定することはできない。自由選択権を行使した者の多くが、その重さに耐えられず戻ってくる。水無瀬も例外ではない可能性が高い」


 壁面に、水無瀬の予測が表示される。


 自由選択権行使後一年以内の生活不安定化リスク、中。

 三年以内の再接続申請可能性、六十二パーセント。

 精神負荷上昇リスク、高。

 孤独リスク、中から高へ上昇見込み。


 数字は冷静だった。


 水無瀬の選択が、危険であることを示している。


「彼にとって最善なのは、早期の再接触だ」


 神崎は言った。


「自由選択権の取り消しはできませんが、再接続を促すことは可能です。追加面談を通じて、本人の不安を整理する必要があります」


 玲央は頷こうとした。


 それが職員として正しい対応だった。


 水無瀬は危険な道へ進もうとしている。

 ならば、戻る道を示すべきだ。

 自由の重さに潰れる前に、支援へつなぎ直すべきだ。


 神崎の言葉は正しい。


 数字も、それを示している。


 それでも、玲央の視線は、水無瀬の本人記述に戻ってしまった。


 失敗してもいいから、自分で選んだと言える場所へ行きたい。


 その言葉は、危険なものだった。


 だが同時に、玲央には完全に間違っているとも思えなかった。


 なぜそう感じるのか、自分でも分からない。


 神崎が玲央を見た。


「瀬川」


「はい」


「君は担当職員だ。感情的に引きずられるな。水無瀬の選択は、彼自身の心理的揺らぎによるものだ。必要なのは共感ではなく、再接続への支援だ」


「分かっています」


 玲央は答えた。


 自分でも、その声が少し硬いことに気づいた。


 神崎は画面を閉じた。


「水無瀬には、すぐに再接触通知を送る。君も準備しておけ」


「はい」


 玲央は立ち上がった。


 管理官室を出る直前、もう一度だけ壁面パネルを見た。


 水無瀬の人生プランと、自由選択権行使後の支援変化。

 二つの未来が、並んでいた。


 ひとつは、安定した道。

 もうひとつは、不安定な道。


 どちらを選ぶべきか。


 答えは明らかなはずだった。


 それなのに玲央は、部屋を出たあとも、あの最終確認文を忘れられなかった。


 今後の選択に伴う責任を、自ら引き受ける。


 その言葉は、玲央の中で、重く、静かに響き続けていた。


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