第3章:拒否された人生プラン 3-1:異例の通知
3-1:異例の通知
翌朝、玲央はいつもより三分早く庁舎に到着した。
理由は分かっていた。
前夜の睡眠効率が、通常よりわずかに低下していたからだ。
深睡眠時間が七パーセント減少。
入眠までの時間が四分延長。
夜間の微細覚醒が二回。
起床時、端末にはそう表示されていた。
ORACLEはそれを検知し、朝の通勤ルートを短縮した。
いつもの中央線第七ホームではなく、混雑の少ない第九ホームを経由するルート。
駅までの歩行距離も、通常より百八十メートル短い道が選ばれていた。
身体的負荷を抑え、午前の面談業務に影響が出ないよう調整された結果だった。
すべては、いつも通り最適だった。
照明は適切な時刻に玲央を起こし、朝食は消化負荷の低い内容に変更され、移動ルートも最短ではなく最も負担の少ないものになっていた。
玲央はそれに従った。
従えばいい。
そのはずだった。
だが、玲央の胸の奥には、昨日から小さな違和感が残っていた。
水無瀬蒼の言葉。
これは、誰の人生なんでしょうか。
その問いは、呼吸調整をしても、睡眠改善プログラムを実行しても、完全には消えなかった。
眠る前、端末は穏やかな音声で思考停止を促した。
業務関連思考は二十一時以降停止を推奨。
面談内容の反復は、翌営業日の処理時間に回してください。
玲央は指示に従った。
目を閉じ、呼吸を整え、睡眠導入用の光に身を委ねた。
それでも、眠りに落ちる直前、あの声だけが残った。
承認はしました。
でも、選んだんでしょうか。
庁舎のゲートを通ると、いつもの認証音が鳴った。
「瀬川玲央さん。おはようございます。本日の業務負荷は標準範囲内です」
機械音声は、昨日と変わらず穏やかだった。
玲央は軽く頷き、執務室へ向かった。
白い廊下。
柔らかな照明。
匂いのない空気。
規則正しく動く職員たち。
すべてが、いつも通りだった。
玲央は自席に着き、透明端末を起動する。
本日の面談予定。
業務負荷。
市民受容予測。
庁内通知。
前日未処理案件。
画面上に、情報が整然と並んでいく。
玲央は、まず本日の面談予定を確認しようとした。
そのときだった。
通知一覧の中に、赤い印のついた緊急通知が一件表示されていた。
玲央の指が止まる。
赤色の通知は、通常の業務連絡には使われない。
市民の生活破綻リスク。
重大な精神負荷。
制度逸脱行動。
緊急の安全確認。
または、担当職員による即時対応が必要な事案。
玲央は、ゆっくりとその通知に触れた。
画面が切り替わる。
開いた瞬間、玲央の視線が止まった。
対象市民:水無瀬 蒼
区分:人生プラン拒否
行使権限:自由選択権
支援接続状態:一部停止へ移行
担当職員:瀬川 玲央
一瞬、室内の音が遠のいた。
職員たちの足音。
端末の操作音。
遠くの面談室へ向かう扉の開閉音。
それらが薄い膜の向こう側へ離れていくように感じられた。
玲央は何度か瞬きをした。
表示は変わらない。
水無瀬蒼が、自由選択権を行使した。
昨日の面談では、保留だった。
人生プラン、保留。
心理的抵抗、軽度。
追加面談、推奨。
自由選択権に関する質問、あり。
そう記録した。
追加面談を設定し、不安を整理すれば、受容に向かう可能性があると判断されていた。
ORACLEの予測でも、受容可能性は決して低くなかった。
八十四パーセント。
高い数値だった。
少なくとも、翌朝に自由選択権を行使するとは予測されていなかった。
それなのに、水無瀬は拒否した。
しかも、正式な手続きを踏んで。
玲央の端末に、追加情報が表示される。
高適合市民による自由選択権行使は、過去一年間で〇・八パーセント未満。
心理的逸脱傾向:事前兆候なし。
人生プラン拒否理由:本人記述、確認中。
担当職員による再接触:推奨。
玲央は、画面に表示された数値を見つめた。
〇・八パーセント未満。
ほとんど起こらない事例だった。
自由選択権そのものは、制度として認められている。
市民には、ORACLEの人生プランを拒む権利がある。
進路も、職業も、居住地も、人間関係も、最終的には本人が決める。
少なくとも制度上は、そうなっている。
だから、人生プランの拒否は違法ではない。
処罰されるものでもない。
庁が強制的に撤回させることもできない。
しかし、高適合者が自由選択権を行使することは、庁内では明らかに異例だった。
高適合者ほど、ORACLEの恩恵を受けやすい。
提示される人生プランの精度が高く、社会支援との接続も滑らかで、幸福安定指数の上昇も見込まれやすい。
仕事、住居、健康、人間関係。
すべてが大きな無理なく、安定した未来へつながるよう設計される。
水無瀬蒼は、まさにそういう市民だった。
社会適合度、九十一。
職業安定指数、八十八。
健康リスク、低。
対人関係安定度、良好。
精神負荷、基準内。
提示された人生プランにも、大きな欠点はなかった。
現在の職場で三年間勤務を継続し、その後、上位職務へ移行。
居住区を変更し、通勤負荷を下げる。
健康維持のため低負荷の運動を組み込む。
将来的には高適合パートナー候補との関係形成を開始する。
過度なリスクはない。
収入も安定する。
孤独リスクも低い。
生活破綻の可能性も小さい。
ほとんど失敗のない道。
その道を、彼は拒んだ。
玲央は画面を見つめたまま、指を動かせなかった。
周囲の職員たちも、同じ通知を確認したのだろう。
庁内に、目立つ騒ぎは起きなかった。
誰も声を上げない。
誰も慌てて立ち上がらない。
机を叩く音も、ざわめきもない。
人生最適化庁の執務室は、今日も静かだった。
それでも、空気は変わった。
白く整った空間の中に、静かな緊張が広がっていく。
隣の席の職員が、端末から目を離さずに小さく息を吐いた。
向かいのデスクでは、別の職員が神崎管理官の執務室へ視線を向けている。
誰かが何かを言うわけではない。
だが、全員が理解していた。
これは通常の保留案件ではない。
玲央はもう一度、通知内容を読み返した。
区分:人生プラン拒否。
行使権限:自由選択権。
支援接続状態:一部停止へ移行。
支援接続の一部停止。
その言葉が、玲央の胸に引っかかった。
自由選択権を行使した市民は、ORACLEの推奨プランから外れる。
そのため、社会支援との接続は段階的に変化する。
住居、職業、医療、生活設計、人間関係調整。
それらの支援がすぐに消えるわけではない。
だが、完全な保護対象ではなくなる。
失敗する可能性が上がる。
生活が不安定になる可能性が上がる。
孤独や精神負荷が上昇する可能性もある。
水無瀬は、それを理解したうえで承認したのか。
玲央は、昨日の水無瀬の顔を思い出した。
これは、誰の人生なんでしょうか。
あの問いは、ただの一時的な不安ではなかったのだろうか。
玲央は唇を結んだ。
端末の下部に、本人の最終確認ログが表示されている。
私は、ORACLEの提示する次期人生プランを拒否します。
私は、自由選択権の行使に伴う支援変更を理解しました。
私は、今後の選択に伴う責任を自ら引き受けます。
その下に、水無瀬蒼の承認記録があった。
玲央はその一文から目を離せなかった。
今後の選択に伴う責任を自ら引き受けます。
それは、この社会ではほとんど使われなくなった言葉だった。
責任。
自分で選ぶこと。
自分で迷うこと。
自分で失敗するかもしれないこと。
その重さを、水無瀬は本当に分かっているのだろうか。
そこへ、新たな通知が重なった。
神崎透真からだった。
瀬川職員。至急、管理官室へ。
玲央は深く息を吸った。
その瞬間、ORACLEが呼吸リズムの乱れを検知したのだろう。
端末の端に、小さな円が表示された。
呼吸調整を推奨します。
円がゆっくり広がり、縮もうとする。
いつもの呼吸誘導だった。
四秒吸って、六秒吐く。
それに従えば、心拍は落ち着くだろう。
思考の乱れも少し収まるだろう。
玲央は、その円を見つめた。
そして、指先で閉じた。
今は、呼吸を整えている場合ではなかった。
少なくとも、玲央にはそう思えた。
彼は席を立った。
白い執務室を横切り、神崎透真の管理官室へ向かう。
廊下は静かだった。
照明はいつも通り柔らかい。
床も壁も、何ひとつ変わっていない。
だが玲央には、昨日までと同じ庁舎が、少しだけ違う場所のように感じられた。
水無瀬蒼は、ORACLEの示した人生を拒んだ。
その事実が、静かに、しかし確実に、玲央の日常にひびを入れ始めていた。




