3-3:水無瀬の記録
3-3:水無瀬の記録
玲央は、水無瀬蒼の過去データを確認することになった。
それは追加面談の準備ではない。
自由選択権行使の原因分析として、担当職員に求められる通常手続きだった。
市民がORACLEの人生プランを拒否した場合、その背景に何があったのかを確認する。
職場不適応。
家庭内問題。
精神負荷の上昇。
孤独指数の悪化。
社会支援への不信。
突発的な感情変動。
そうした兆候を見落としていなかったか、担当職員は記録を再確認しなければならない。
玲央は自席に戻り、水無瀬の記録を開いた。
透明端末の上に、ひとりの人間の人生が項目ごとに展開されていく。
生年月日。
家族構成。
教育履歴。
健康状態。
職業適性。
交友関係。
感情変動。
生活満足度。
幸福安定指数の推移。
水無瀬蒼の三十一年分の記録。
それは、驚くほど整っていた。
幼少期から大きな問題行動はない。
学習適性は高く、集中力も安定している。
対人トラブルは少なく、集団適応にも問題はない。
進学先はORACLE推奨の教育機関。
専攻も、認知特性と社会需要に合致している。
職業は、適性に合った分析系業務。
勤務評価は安定。
健康面にも大きな異常はない。
睡眠リズムは良好。
食生活も管理範囲内。
運動不足も、危険域には至っていない。
孤独指数も低から中の範囲に収まっている。
過去五年間の精神負荷指数にも軽度の波はあるが、介入を要するほどではなかった。
どこにも、明確な異常はない。
玲央は、人間関係の項目を開いた。
家族との定期連絡、月二回から三回。
親密度、標準。
職場内交流、適度。
深い関係形成、少。
孤立リスク、低。
対人衝突履歴、軽微。
感情負荷の高い交友関係、なし。
問題は見当たらなかった。
深い関係は少ない。
だが、完全に孤立しているわけではない。
職場で浮いているわけでもない。
家族との関係も安定している。
定期的な連絡も記録されている。
玲央は眉を寄せた。
どこにも、明確な破綻がない。
自由選択権を行使する市民の多くには、何らかの兆候がある。
職場不適応。
家族関係の悪化。
強い孤独。
過去の挫折。
ORACLE推奨への反発。
一時的な感情高揚。
あるいは、自分の人生を誰かに奪われているという強い被害感。
そうしたものが、記録のどこかに残っていることが多い。
だが、水無瀬にはそれがない。
むしろ、彼はORACLE社会の成功例だった。
安定した学歴。
安定した職業。
安定した健康。
安定した人間関係。
安定した未来。
すべてが整っていた。
玲央は、画面をスクロールした。
水無瀬の幸福安定指数の推移が、一本の線として表示される。
二十歳。
二十三歳。
二十六歳。
三十歳。
現在。
線は大きく乱れることなく、緩やかに上昇していた。
急激な落ち込みはない。
危険な突出もない。
異常値もない。
ゆるやかに、安定したまま推移している。
それは理想的なグラフだった。
不安定さが少ない。
予測しやすい。
介入の必要がない。
本人にとっても、社会にとっても負荷が小さい。
玲央は、そのグラフを見つめながら、ふと自分自身の人生データを思い出した。
おそらく、似ている。
大きな失敗がない。
大きな逸脱がない。
感情の急落も少ない。
生活リズムも安定している。
社会適合度も高い。
職務適性も明確。
将来リスクも低い。
模範的な市民。
そう評価される人生。
それは、望ましいことのはずだった。
玲央は端末の中の水無瀬のグラフを見つめながら、胸の奥にわずかな重さを覚えた。
異常がない。
だからこそ、分からなかった。
なぜ彼は、そこから出ようとしたのか。
もし水無瀬が不幸だったなら、理解できた。
職場に苦しんでいたなら、分かった。
人間関係に追い詰められていたなら、説明できた。
家族に縛られていたなら、自由を求める理由になった。
何か大きな失敗があったなら、別の人生を選びたいと思うのも自然だった。
だが、彼にはそれがない。
幸福安定指数は高い。
生活破綻リスクは低い。
健康状態も悪くない。
職務評価も安定している。
未来は明るい。
それでも彼は、拒否した。
玲央は、さらに詳細な記録を開いた。
過去の面談履歴。
進学時の承認記録。
就職時の承認記録。
住居更新時の承認記録。
健康行動プランの受容記録。
人間関係調整の提案履歴。
水無瀬は、ほとんどすべての推奨を受け入れていた。
進学先も、職場も、生活習慣も、交友関係も。
大きな抵抗はない。
強い反発もない。
質問はするが、最終的には納得して承認する。
記録上、水無瀬は協力的で、理解力があり、制度への信頼も高い市民だった。
玲央は、その評価文を読んだ。
協調性、良好。
制度理解、良好。
自己管理能力、高。
社会適合度、高。
どれも、良い言葉だった。
だが、その言葉が積み重なるほど、水無瀬という人間の輪郭が薄くなっていくようにも感じられた。
高い。
良好。
安定。
適合。
その言葉のどこにも、昨日面談室で静かに問いを差し出した水無瀬の表情はない。
玲央は画面をスクロールし続けた。
日々の生活記録が並ぶ。
起床時刻、安定。
朝食摂取率、良好。
勤務時間、基準内。
残業負荷、低。
運動習慣、やや不足。
睡眠効率、良好。
感情変動、軽微。
まるで、乱れの少ない機械の運転記録のようだった。
その人生は、数字で見るかぎり穏やかだった。
大きな谷もない。
急な上昇もない。
危険な揺れもない。
ただ、滑らかに続いている。
玲央は、そこで初めて小さな違和感を覚えた。
このグラフは、穏やかすぎるのではないか。
その考えが浮かんだ瞬間、玲央はすぐに打ち消した。
穏やかであることは、良いことだ。
人生が大きく乱れない。
感情が極端に揺れない。
生活が破綻しない。
健康も保たれる。
それは、ORACLEが目指してきたものだ。
何もおかしくない。
玲央はそう自分に言い聞かせた。
だが、水無瀬の問いは消えなかった。
承認はしました。
でも、選んだんでしょうか。
玲央は、水無瀬の承認履歴をひとつ開いた。
二十二歳。
就職先選定。
ORACLEの推奨。
分析補助職、適合度八十九。
将来安定性、高。
本人負荷、低から中。
社会需要、増加見込み。
本人承認、完了。
その記録には、何の問題もなかった。
続いて、二十六歳。
居住区変更。
現在地より通勤負荷低下。
睡眠環境改善。
生活安定指数上昇。
本人承認、完了。
二十八歳。
交友関係調整。
高負荷交流の頻度低下を推奨。
感情安定指数改善見込み。
本人承認、完了。
玲央は画面を閉じた。
記録はある。
承認もある。
制度上、水無瀬は選んでいる。
それなのに、彼は自分で選んだ実感を失っていた。
それは、どこに記録されるのだろう。
玲央は、ふとそう思った。
幸福安定指数には出ていない。
精神負荷にも出ていない。
生活満足度も大きく下がっていない。
対人関係にも異常はない。
では、その空白はどこにあるのか。
水無瀬の中にだけあるものなのか。
あるいは、玲央自身の中にもあるのか。
玲央は、その考えから逃げるように、端末の分析結果へ視線を戻した。
総合評価が表示されている。
総合評価:高安定市民。人生プラン受容推奨。
いつもなら、安心できる言葉だった。
高安定市民。
人生プラン受容推奨。
つまり、支援しやすい。
道筋が明確である。
本人にとって望ましい未来が見えている。
それなのに、その一行が、なぜかひどく空虚に見えた。
玲央は、しばらく画面を見つめ続けた。
白く静かな執務室の中で、他の職員たちはいつも通り業務を進めている。
誰かの端末が淡く光り、誰かが短い報告を送信し、誰かが面談室へ向かう。
世界は変わっていない。
ORACLEも、人生最適化庁も、今日も正しく機能している。
だが、水無瀬蒼の整いすぎた記録だけが、玲央の中で静かに別の意味を持ち始めていた。
異常がないこと。
それは本当に、問題がないということなのだろうか。




