誰もその名を知らない女神様
「ちょっと! リッちゃん!!
どしたん!? なんで泣いてんの〜!?
どした、どした〜?」
「え?」
ヌッちゃんにそう言われて、私は右手で目の下を触った。
すごく濡れていた。びちょびちょだった。
両目から気付かぬうちにたくさんの涙が溢れ出ていたようだった。
「あれ? なんで泣いてるんだろう?
全然分かんない」
「そんなこともあるわよね。
もっと泣きたかったら、あたしの胸貸すよ?
泣きたければ、たんとお泣き〜?
ヌッちゃんがギューしてあげる!
ヨシヨシしてあげるー!
くーっ、母性がみなぎってくるわ!」
「ありがとヌッちゃん。でもいいや。
ねえヌッちゃん、この天井のステンドグラス、双角海蛇座だよね」
「そうね。この、横にニョロッとしてる星の並びは、間違いなく双角海蛇座ね」
「昔エリオットと読んだ本に、双角海蛇座が表している双角海蛇は神様の眷属だって書いてあったけど、その双角海蛇が仕えてる神様ってどんな神様だったっけ。
それについても本に書いてあったような気がするけど、忘れちゃった」
「このサンティ=ハイメ神領島のあるじ様よ。
つまり神領地のあるじ様ね」
「そうなんだ。
どんな神様?」
「美しい女神様よ。
だけど、その名前を知る者は誰もいないの。
この世界にやって来てサンティ=ハイメ神領島や他の神領地を創造した時、決して誰にも名前を教えなかったらしいわ」
「へ〜。でも不思議。
神領地のあるじ様ってことは、私達神領民のあるじ様ってことでもあるわけでしょ。
なのに、その女神様について全然知らなかったよ。
神領っていう言葉の意味さえ、今まで良く考えたこともなかった」
「ええ。みんなそうだと思うわ。
まあ、意図的にそうしてるってとこもあるし」
「え?」
「なんでもなっしんぐ〜」
ヌッちゃんは、口をすぼめて口笛を吹くフリをした。
フューフューという、かすれた音が出ていた。
私はそんなヌッちゃんをジトッと見つめた。
しかしヌッちゃんは口笛を吹くフリをしながら、全く私と目を合わせようとしない。不毛である。
だからか、ヌッちゃんを見つめているうちに全く別のことが気になり始めた。
「あれ? あの風って、どこから吹いてたの?
ステンドグラスの向こうがキノル湖だったら、風なんて吹き込むこと無いはずだよね?」
「確かに! あの風なんだったの〜? おばけ風?」
「メー」
ステラが空間の真ん中に行き、前足の蹄でチョンチョンと床を叩いた。
この正六角柱型の空間の底面である正六角形の床は、いくつもの小さな正六角形の白いタイルで覆われている。
キラキラしているので、おそらくヴェネラ貝の貝殻を材料にしているタイルだろう。
タイルは互いにピッタリと組み合わされていたが、ステラが叩いた場所だけ、ほんの少しだけ組みが緩いように見えた。
「どうしたの? ステラ。
そこだけタイルの組みが緩いみたいだね」
「メメッ」
「ふむふむ。ステラっちがここを触ってみなさいってさ」
私はステラに近付きかがんでから、ステラが前足で叩いた場所を触ってみた。
「あ! ここ、下から風が上がって来てる!
ヌッちゃんもここ触ってみて!」
「あら本当。風を感じるわ。
ってことは、この下に更なる空間が?」
「そういう事だよね。
え、ワクワクするんだけど。
でもこれ以上進んで行っても良いのかな?」
「それはまた今度の機会にな」
ジャイム様の声が背後からした。
「キャーーーー!!!
ジャ、ジャイム様!!
ちょっと、びっくりさせないで下さいよぉ!
大事な寿命が縮まっちゃったじゃないですかぁ!」
ヌッちゃんが大層たまげた様子で言った。
私もヌッちゃんと同様に大層たまげてしまい、腰が抜けそうになっていた。
心臓もバクバクだ。
「すまん、すまん。
それにしても皆、無事で良かった」
「ジャイム様、エリオットは?」
「私が家に戻って来た時には、もういなかった。
ダイニングテーブルの上に、私に対しての謝罪の手紙が残されていたよ。
家をこんな有様にして申し訳ない、必ず償いはすると書かれていた。
あと、リシュリーちゃんへのプレゼントと思われる紙袋が、手紙と一緒に置かれていた」
「……そっか。
ジャイム様。エリオットがした事、本当にごめんなさい」
「いいんだよ。窓ガラスなんて取り換えれば済む話だ。
エリオットが本当はそんなことするやつではないことは私も良く分かっている。
私の方こそ、怖い思いをさせてしまって申し訳ない。
私も決して家から離れてはいけなかったのだ。
本当にすまなかった。
リシュリーちゃんが無事で本当に良かった」
「メエエエ」
ステラがジャイム様に寄っていき、ジャイム様の脚に体を傾けて甘え始めた。
ステラは多分、どんなに自分が頑張ったかをジャイム様に伝えていた。
「ステラ、良く頑張ったな。
立派なお姉さんだったな。
えらかったぞ」
「ンメー」
ジャイム様はステラを何度も撫でた後、優しく抱え上げた。
ジャイム様に抱っこされるステラは甘えん坊な顔をしていて、とても幸せそうだった。
「ジャイム様。この場所は一体?」
ヌッちゃんがジャイム様に聞いた。
「私も良くは分からない。
隠し部屋に隠し穴を作った時は、単に穴だけ掘るつもりだった。緊急避難用のな。
だが、隠し穴を掘っているうちに、何故だか異常に掘り続けたくなってな。
掘れば掘るほど楽しくなっていって、どんどん掘っているうちにこの場所を発見したのだ。
何か固い物にシャベルがぶつかったと思ったら、大層古い扉が出て来た時の驚きは忘れられない。
一応この空間のことは神殿には伝えてはある」
シャベル一本でここまでの地下通路を掘ってしまうジャイム様って一体。
「とりあえず、地上に戻ろう。
緊張したりここまで歩いたりで、おなかが空いただろう」
ジャイム様にそう言われた途端、おなかがグーっと鳴った。
ヌッちゃんのおなかも、ゴーッと鳴った。
「ホホホホ。
言われてみれば、おなかが空いたわ!
さあ、リッちゃん、地上に戻りましょう。
めっちゃ美味しいお昼ご飯作ってあげるからね!」
「やったね! 一刻も早く食べたい!」
こうして私達は、キノル湖の湖底の不思議な空間を後にした。
古く大きな扉から空間の外に出て行く時、何かに呼ばれた気がした。
それは、おそらく正六角柱の空間の上面と底面からだった。
私は振り返ろうと思ったが、途中でやめた。
振り返ってはいけない気がした。
地上に戻った私達が一番最初にしたことは、エリオットによって割られた窓ガラスを取り替えることだった。
ジャイム様の手際が信じられないくらいに良かったため、私とヌッちゃんがしていたことと言えば、ジャイム様の周りでちょこたかしているだけだった。
飛び散ったガラスの掃除や、荒らされた部屋の清掃などをしている間にお昼ご飯が出来上がり、みんなで食べた。
やはりいつもよりおなかが空いていたようで、ものすごい量を食べた。
ヌッちゃんが作ってくれた美味しいご飯を食べるうちに、恐怖と緊張で縮み上がっていた体がほぐれていった。
しかしエリオットが残していった私への誕生日プレゼントは、開けることが出来なかった。
どうしても、精神的に開けることが出来なかった。
ジャイム様がいつか開けられるようになるまで、大事にしまっておくと言ってくれて、私はその言葉に甘えることにした。
そして、エリオットはその日から姿を一度も見せなかった。
再誕日が来るまで、一度も。
再誕日の日は、その前日から記録的な冷え込みに襲われ、とても寒かった。
窓から見たキノル湖はその寒さによって全面氷結していたが、凍りついた湖面の上に道のようなものが通っているよう見えた。




